舞踏会から十二分消えただけなのに、私には十二年が経っていました ~異世界帰りの二十九歳令嬢は、年下近衛だけの「おかえり」に泣いてしまう~ 作:aquali
検分の間、というのだそうだ。
天井の高い、声のよく残る部屋である。高窓から朝の光が斜めに落ちて、長卓の艶の上を、埃が金色に泳いでいく。羽根ペンの音は、雨に似ていた。
卓の向こうに、王の名代のオクタヴィア王女殿下。その隣に、宮廷魔導師ドロテア様。末席に、軍服の肩章を鈍く光らせた初老の男――軍務卿ガルブレイス侯。書記官が二人。
入室して、私はまず窓を数えた。三つ。癖である。それから一礼する。作法の記憶は、身体の底のほうに、かろうじて残っていた。
議事は、私を「対象」と呼んで進んだ。
対象の帰還。対象の紋様。対象の危険性。
……あちらでも、最初はそうだった。召喚された十七歳は「兵器候補」と呼ばれ、名前で呼ばれるまでに、半年を要している。最初に名前を呼んだのは、九つの女王陛下である。わたしの騎士、と。
この世界は、私に、同じ半年をもう一度やらせるつもりだろうか。膝の上で、手袋の中の指を折って数を数える。数えている間は、顔が動かずに済む。
検分そのものは、衝立の向こうで行われる。ドロテア様が私の背中の紋様――背中から左肩へかけて刻まれた、帰還術式のなれの果て――を、長いこと眺めて、ため息をついた。
鏡でしか見たことのない紋様である。焼き印に似て、けれどよく見れば文字が連なっている。ナジャの筆跡であることは、私だけが知っている。
「見事な術式ですこと。読み終えるのに、人生が二回は要りますわね」
「設計者は、一回ぶんで書き上げました」
「その方は?」
「一回ぶんを、使い切りました」
ドロテア様は少しだけ黙って、それ以上は聞かずにいてくれた。良い人だと思う。
卓に戻ると、書記官が咳払いをした。時間の
私が口を開く前に、ドロテア様が扇をぱちりと閉じた。
「門の理は、人の暦で書かれておりません。以上ですわ」
「い、以上とは?」
「以上は以上です。書きなさい」
書記官は書いた。行政というものは、時々詩的である。
次に、侍従長らしき男が私の立ち姿へ眉をひそめた。壁を背にする立ち方が貴族の令嬢のものではない、脚の運びが兵のものだ、という。
「十二年ぶりの舞踏会の作法より、魔物の解体のほうが得意ですが。――ご入用ですか?」
「いえ、結構です」
結構だそうだ。残念である。解体は得意なのに。
実務の話は、もっと詩的だった。出生記録によれば、私は十七歳。二十九歳の女が「イレーネ・フォルスターである」と証明する手続きが、この王国には存在しない。本人確認が済むまで、成人の宣誓も、財産の相続も、婚約の解消すらもできないという。
「つまり私は、書類の上では十七歳の、身元不明の二十九歳ですか?」
「……行政上は、そうなります」
「行政は、詩人ですね」
書記官は、それは書かない。
そこへ、末席から低い声が落ちる。軍務卿ガルブレイス侯である。卓の上には、昨夜の灰の報告書。彼はその紙の角を、いとおしむように撫でていた。
「身元不明の、力の出所も不明の御仁を、市中に放つわけにもいくまい。王宮でお預かりするのが筋であろう。……丁重に、な」
丁重、という言葉が、これほど鉄格子の音をさせるのを初めて聞いた。
王女殿下は動かない。扇の房飾りだけが、静かに揺れている。この方は、まばたきの回数まで政である。天秤の傾く音が、聞こえた気がする。
――そのとき、壁際で椅子が鳴った。
「発言を、お許しください」
あの近衛だった。リアン・カースウェル。今日は正装で、昨夜より三つは若く見える。彼は一歩前に出て、まっすぐ王女殿下だけを見た。
「監視の役を、私に賜りたい。週に一度の報告を条件に、フォルスター伯爵家での起居のお許しを」
「近衛の小倅が」ガルブレイス侯の眉が動く。「政に口を挟むか?」
「挟みません。警備の問題です。あの夜、広間で唯一、剣の間合いの外から一部始終を見ていたのは私です。消えた瞬間も。……戻った瞬間も」
「見ていた者なら、広間に三百人おったわ」
「戻られた方は」と、彼は続けた。声は低いままで、一歩も引かない。「着地と同時に、まず退路を確かめておいででした。人垣の薄い場所を、二箇所。悲鳴の中で、誰一人傷つけない立ち位置へ、半歩。……偽物なら、本物らしい顔を作ります。あの方は、逃げ道を数えておいででした。あれは――戦から帰ってきた人の、足運びです」
見られていた。
私が数えていたことを、この人は数えていたのだ。
沈黙が落ちる。
対象、と呼ばれ続けた午前の底で、その言い方だけが、私を人の側に数えていた。
王女殿下が、初めて口を開く。
「王国は十二分で娘を失い、十二分で英雄を拾った。帳尻が合わないのは、こちらの帳簿のほうです」
扇が、ぱちん、と閉じられる。判を押す音に似ていた。
「監視官、リアン・カースウェル。週次報告。起居は伯爵家。――以上」
退出の廊下で、私は監視官殿に追いつく。聞いておきたいことが、ひとつあった。
「なぜ、志願を?」
「私だけが、あなたの帰る所を見ていたからです」
即答だった。この男の言葉には、迷いの継ぎ目がない。
「……重い役目ですよ。私は週に一度、化け物の声で騒ぎます」
「では週に一度、おかえりなさいを言います」
私は前を向く。廊下は長く、都合がよかった。目の縁の熱が引くまで、窓を数えるふりができたので。
帰りの馬車には、両親が乗っていた。母は窓の外を見ている。父は書類を見ている。私は、二人の間の空白を見ている。
窓の外を、十二年ぶりの街並みが流れていく。パン屋の看板が新しい。角の花壇が消えている。十二分しか経っていない街で、私は十二年ぶんの間違い探しをしている。
車輪の音だけが、家までずっと喋っていた。
――その夜。
生まれた家の、生まれた部屋の天井の下で、私は目を閉じた。
眠りは、浅い。壁の軋みひとつで指が燭台を探す。それでも、頭の上に屋根がある。雨も灰も矢も降ってこない天井が、ひと晩じゅう、そこにある。
屋根の下で眠る。
たったそれだけのことを、私は十二年、順番待ちの列の外で眺めていたのだ。
明朝の定時訪問から、私のこちらでの日々が始まる。