舞踏会から十二分消えただけなのに、私には十二年が経っていました ~異世界帰りの二十九歳令嬢は、年下近衛だけの「おかえり」に泣いてしまう~   作:aquali

3 / 6
3. 朝食は三口で終わらない

 十七歳の私の部屋は、十七歳のまま保存されていた。

 

 レースの天蓋。棚に並んだ人形。青い硝子のペン。壁の色まで、記憶のとおり。埃ひとつない。

 

 人形の列の端に、目の取れかけた熊がいる。六つの年から一緒に眠った熊である。向こうの最初の冬、私は(ごう)の底で、この熊の名前を唱えて眠った。名前を覚えている限り、帰り道は消えない気がしていたのだ。

 

 熊は、名前のとおりの顔で、そこにいた。

 

 枕元の匂い袋を持ち上げて、手が止まった。ラベンダーが、新しい。十七歳の私が使っていたのと、同じ調合で。

 

 ……当然である。こちらでは、絶やすほどの時間が、まだ流れていない。これは十二日前ですらない、ほんの先日の、母の手の匂いなのだ。

 

 頭では、分かっている。それでも、十二年ぶんの留守を守ってもらっていたようで、胸の奥が軋む。私の十二年と、この部屋の十二分が、匂い袋ひとつの上で折り重なっている。

 

 軋みが深くなる前に、私は窓を数えることにした。

 

「窓が二つ。良い部屋です」

 

 付いてくれた若い侍女が、怯えた顔で一礼して下がった。退路と射線の話だったのだが、説明するとおそらくもっと怯える。怯えられることには、慣れている。あちらでも、最初の一年はそうだった。

 

 慣れている、と思えてしまうことのほうが、たまに、すこし応える。

 

 寝台は、やはり柔らかすぎる。毛布を一枚だけ床に敷いて眠り、朝、それを見つけた侍女の悲鳴で目が覚めた。廊下の向こうで、ひそひそと声がする。やっぱり偽物なんじゃ。お嬢様は床でなんて。獣みたいに。

 

 獣みたいに、は正しい。獣のように眠らない者から死んでいく場所に、いたので。

 

 床の固さに安心する自分が、少しだけ嫌いである。

 

 朝の食堂には、母が一人だった。父は早々に済ませて書斎へ行ったという。逃げたのだと思う。それが責められないことも、分かっている。

 

 母と、長い卓の端と端。卓布は白く、銀器は磨かれ、窓の向こうに春の庭が見える。完璧な食卓である。完璧なものは、時々、とても遠い。

 

 私はスープを三匙、パンをひと千切り。それで手が止まり、身体が勝手に立ち上がりかける。三口で立つ。向こうでは食事は隙である。座って食べ切る者は、順番に減っていった。

 

 母の視線に気づいて、座り直す。母は何か言いかけ、目を伏せる。

 

 これで四度目である。

 

 最初の一度目から、私は数えるのをやめられずにいる。数えている間は、期待していられるからだ。――五度目を。

 

 厨房のほうから煙が流れてきたのは、そのときだった。

 

 音より先に、匂いが来る。鉄と、焦げた脂と、湿った灰。

 

 東壁が破られた朝の匂いだ、と身体が言い張る。包囲二日目。あの朝も、鍋がひっくり返って、火が。

 

 考えるより先に、身体が動く。卓が倒れ、皿が飛び、私は母を壁際へ押し込んで、背中で覆っていた。

 

「伏せて! 頭を下げ――」

 

 皿の割れる音で、我に返った。

 

 しん、とした食堂。倒れた卓。散った陶器。腕の中で凍りついている母。窓の外は、春の庭である。敵など、どこにもいない。

 

 母の目に、恐怖が浮かんでいた。恐怖と――名前の付けられない、何か。

 

「……申し訳、ありません」

 

 腕を解いたところへ、玄関の方から靴音が駆けてきた。監視官殿の定時訪問が、今日ほどありがたかった日はない。

 

 彼は倒れた卓を一瞥し、騒がず、いつもの声で言った。

 

「イレーネ様。ここは御実家の食堂です。倒れたのは卓がひとつ、割れたのは皿が六枚。敵は、おりません」

 

 六枚、と数えてあるのが、いかにも彼である。

 

 私は指印を結ぶ。息を三つ。厨房の煙は、ただの煙に戻った。焦げたのはパンだったらしい。

 

「おかえりなさい」

 

 と、彼が言う。頬が、性懲りもなく濡れた。

 

「……泣いていません。灰です」

 

「本日は、灰は降っておりませんが」

 

「では、埃です」

 

「左様ですか」

 

 左様である。

 

 割れた皿を、母が拾おうとしていた。侍女より先に、素手で。指を切りかけたその手へ、私は布巾を差し出す。母は一瞬止まり、それから、受け取る。

 

 受け取られる瞬間、指先が触れる。母の手は、記憶より小さく、乾いていた。

 

 ……いや。私の手が、大きくなったのだ。剣を握る手に。

 

 布巾ひとつの、わずかな重み。それでも、受け取られた、という重みである。

 

 母はそれきり何も言わない。けれどその朝、何か言いかけて目を伏せるまでの一瞬が、昨日よりわずかに長かった。

 

 私はそれも、数えている。

 

 翌朝から、監視官殿は朝食に同席するようになった。

 

「報告書のためです」

 

 と、本人は言い張っている。

 

 彼は世間話が絶望的に下手だった。近衛の失敗談を三つ、パンの値段の話をひとつ、決まった順番で話す。演習で池に落ちた同期の話は、三日連続で聞いた。パンの値段だけは、毎回すこしずつ数字が違う。真面目に市場を調べ直してきているらしい。

 

 それでも、気づくと皿が空いている。

 

 三口では、終わらなかった。相槌というものは、椅子に人を縫い付ける糸であるらしい。二十九歳にして、初めて知った。

 

 夜、彼は週次報告書の写しを見せてくれた。あなたの報告書ですので、と言って。差し出すとき、彼は少しだけ咳払いをする。

 

「事実のみを、記載しております」

 

 事実のみ。几帳面な字で、残響の時刻、封じの所要、破損は皿六枚、と並んでいる。その几帳面の一番下に、こうあった。

 

 ――特記事項: 本日、朝食を完食された。

 

 特記するほどのことか、と思う。

 

 特記するほどのことだったのだ。私には。

 

 頁の隅に、鉛筆の走り書きがもうひとつ。「次週、市中随行の許可を申請予定」。

 

 市場である。私はまだ、市場の歩き方を覚えているだろうか。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。