舞踏会から十二分消えただけなのに、私には十二年が経っていました ~異世界帰りの二十九歳令嬢は、年下近衛だけの「おかえり」に泣いてしまう~ 作:aquali
十七歳の私の部屋は、十七歳のまま保存されていた。
レースの天蓋。棚に並んだ人形。青い硝子のペン。壁の色まで、記憶のとおり。埃ひとつない。
人形の列の端に、目の取れかけた熊がいる。六つの年から一緒に眠った熊である。向こうの最初の冬、私は
熊は、名前のとおりの顔で、そこにいた。
枕元の匂い袋を持ち上げて、手が止まった。ラベンダーが、新しい。十七歳の私が使っていたのと、同じ調合で。
……当然である。こちらでは、絶やすほどの時間が、まだ流れていない。これは十二日前ですらない、ほんの先日の、母の手の匂いなのだ。
頭では、分かっている。それでも、十二年ぶんの留守を守ってもらっていたようで、胸の奥が軋む。私の十二年と、この部屋の十二分が、匂い袋ひとつの上で折り重なっている。
軋みが深くなる前に、私は窓を数えることにした。
「窓が二つ。良い部屋です」
付いてくれた若い侍女が、怯えた顔で一礼して下がった。退路と射線の話だったのだが、説明するとおそらくもっと怯える。怯えられることには、慣れている。あちらでも、最初の一年はそうだった。
慣れている、と思えてしまうことのほうが、たまに、すこし応える。
寝台は、やはり柔らかすぎる。毛布を一枚だけ床に敷いて眠り、朝、それを見つけた侍女の悲鳴で目が覚めた。廊下の向こうで、ひそひそと声がする。やっぱり偽物なんじゃ。お嬢様は床でなんて。獣みたいに。
獣みたいに、は正しい。獣のように眠らない者から死んでいく場所に、いたので。
床の固さに安心する自分が、少しだけ嫌いである。
朝の食堂には、母が一人だった。父は早々に済ませて書斎へ行ったという。逃げたのだと思う。それが責められないことも、分かっている。
母と、長い卓の端と端。卓布は白く、銀器は磨かれ、窓の向こうに春の庭が見える。完璧な食卓である。完璧なものは、時々、とても遠い。
私はスープを三匙、パンをひと千切り。それで手が止まり、身体が勝手に立ち上がりかける。三口で立つ。向こうでは食事は隙である。座って食べ切る者は、順番に減っていった。
母の視線に気づいて、座り直す。母は何か言いかけ、目を伏せる。
これで四度目である。
最初の一度目から、私は数えるのをやめられずにいる。数えている間は、期待していられるからだ。――五度目を。
厨房のほうから煙が流れてきたのは、そのときだった。
音より先に、匂いが来る。鉄と、焦げた脂と、湿った灰。
東壁が破られた朝の匂いだ、と身体が言い張る。包囲二日目。あの朝も、鍋がひっくり返って、火が。
考えるより先に、身体が動く。卓が倒れ、皿が飛び、私は母を壁際へ押し込んで、背中で覆っていた。
「伏せて! 頭を下げ――」
皿の割れる音で、我に返った。
しん、とした食堂。倒れた卓。散った陶器。腕の中で凍りついている母。窓の外は、春の庭である。敵など、どこにもいない。
母の目に、恐怖が浮かんでいた。恐怖と――名前の付けられない、何か。
「……申し訳、ありません」
腕を解いたところへ、玄関の方から靴音が駆けてきた。監視官殿の定時訪問が、今日ほどありがたかった日はない。
彼は倒れた卓を一瞥し、騒がず、いつもの声で言った。
「イレーネ様。ここは御実家の食堂です。倒れたのは卓がひとつ、割れたのは皿が六枚。敵は、おりません」
六枚、と数えてあるのが、いかにも彼である。
私は指印を結ぶ。息を三つ。厨房の煙は、ただの煙に戻った。焦げたのはパンだったらしい。
「おかえりなさい」
と、彼が言う。頬が、性懲りもなく濡れた。
「……泣いていません。灰です」
「本日は、灰は降っておりませんが」
「では、埃です」
「左様ですか」
左様である。
割れた皿を、母が拾おうとしていた。侍女より先に、素手で。指を切りかけたその手へ、私は布巾を差し出す。母は一瞬止まり、それから、受け取る。
受け取られる瞬間、指先が触れる。母の手は、記憶より小さく、乾いていた。
……いや。私の手が、大きくなったのだ。剣を握る手に。
布巾ひとつの、わずかな重み。それでも、受け取られた、という重みである。
母はそれきり何も言わない。けれどその朝、何か言いかけて目を伏せるまでの一瞬が、昨日よりわずかに長かった。
私はそれも、数えている。
翌朝から、監視官殿は朝食に同席するようになった。
「報告書のためです」
と、本人は言い張っている。
彼は世間話が絶望的に下手だった。近衛の失敗談を三つ、パンの値段の話をひとつ、決まった順番で話す。演習で池に落ちた同期の話は、三日連続で聞いた。パンの値段だけは、毎回すこしずつ数字が違う。真面目に市場を調べ直してきているらしい。
それでも、気づくと皿が空いている。
三口では、終わらなかった。相槌というものは、椅子に人を縫い付ける糸であるらしい。二十九歳にして、初めて知った。
夜、彼は週次報告書の写しを見せてくれた。あなたの報告書ですので、と言って。差し出すとき、彼は少しだけ咳払いをする。
「事実のみを、記載しております」
事実のみ。几帳面な字で、残響の時刻、封じの所要、破損は皿六枚、と並んでいる。その几帳面の一番下に、こうあった。
――特記事項: 本日、朝食を完食された。
特記するほどのことか、と思う。
特記するほどのことだったのだ。私には。
頁の隅に、鉛筆の走り書きがもうひとつ。「次週、市中随行の許可を申請予定」。
市場である。私はまだ、市場の歩き方を覚えているだろうか。