「誰だ、そこにいるのは!」
短い硬直のあと、久世透の胸の奥に怒りがこみ上げた。
自分の気配を隠すことも忘れ、彼は廊下のほうへ鋭く声を張り上げる。
祖母の葬儀の夜に、誰かが悪ふざけをしている。
しかも、死者の声を真似るなど、面と向かって侮辱されたのと何も変わらない。
しかし――
廊下は死んだように静まり返り、返事はなかった。
「誰だと聞いている!」
怒声が空気を震わせる。
だが、襖の向こうの廊下からは、やはり何の返答もない。
久世透は深く息を吸い、足早に入口へ向かうと、壁の照明スイッチを押した。
ぱちん――
冷たい白色の光が闇を押しのけ、廊下の木床に、彼の孤独な影を落とした。
廊下には、誰もいなかった。
「……見つけたら、ただじゃ済まさないからな」
透は足を止めなかった。
そのまま廊下を進み、ぱたぱたと音を立てながら、襖を一枚、また一枚と開けていく。
点けられる明かりは、すべて点けた。
居間、台所、トイレ、押し入れの中。
人が隠れられそうな場所は、すべて片端から調べた。
だが結局、人影どころか、足音さえ消えていた。
まるで、この家には最初から彼一人しかいなかったかのように。
「……ありえない」
久世透は和室へ戻り、供物台の前に立って荒い息を吐いた。
考えれば考えるほど、おかしい。
『俺は確かに声を聞いた。なのに、どうして相手が見つからない。仮に逃げたとしても、足音くらい聞こえるはずだろ』
だが現実には、人影も、声も、何一つ見つからなかった。
祭壇の蝋燭はとっくに消え、線香も燃え尽きていた。
香炉の中には、灰白色の線香の灰だけが、細く曲がって垂れ下がっている。
『まさか、骨守りと関係があるのか?』
蝋燭に火を灯し直しながら、透の頭にふとそんな考えがよぎった。
だが、それはすぐに否定した。
彼はこの村で、祖母と十年以上暮らしてきた。
この独特な葬送儀礼にも、何度か立ち会ったことがある。
それでも、今夜のような出来事があったなど、一度も聞いたことがなかった。
「まさか、本当に幽霊でも見たっていうのか……はは」
自分で自分を茶化すつもりだった。
だが、『幽霊に遭った』という考えは、雑草のように頭の中で広がっていく。
いくら胆が据わっている透でも、思わず背後を振り返った。
すべてはいつも通りだった。
それなのに、心臓だけが理由もなく速く打っている。
『念のため、石川さんに聞いたほうがいいな。』
久世透は、幽霊や呪いを本気で信じるような人間ではない。
それでも、土地に根づいた習俗に対しては、最低限の敬意を持っていた。
それは、先人の経験に近いものだ。
無視すれば、自分や誰かに余計な厄介ごとを招くかもしれない。
そう考えた透はスマートフォンを取り出し、石川剛の番号に電話をかけた。
発信音の代わりに、受話口から聞こえてきたのは、ジジジ、ジジジ、という電子音のようなノイズだった。
まるで先ほどまで耳の奥で鳴っていた雑音を、何倍にも増幅したような音だ。
それでも、幸い電話はすぐにつながった。
「石川さん、久世です。夜分にすみません」
「おお、透ちゃんか。構わんよ。ちょうど、まだ起きていたところだ。どうだ、骨守りは順調か?」
ノイズのせいで、電話越しの石川剛の声は途切れ途切れに聞こえた。
「ええ、今のところは……ただ……」
口にしかけて、久世透は言葉に詰まった。
先ほど自分が体験したことは、どう説明しても本当のことには聞こえない。
「ただ、何だ?」
透の声に混じった迷いを、石川剛は敏感に聞き取ったらしい。
「ただ……祖母の家に、誰か外の人間が入ってきたような気がするんです」
「どういうことだ」
「さっき、祖母の部屋にいたら、廊下のほうから声が聞こえました。誰かが、祖母の声を真似て、俺を夕飯に呼んだんです。でも、外へ出てみたら、誰も――」
「そこを動くな。今すぐ行く」
意外なことに、透が話し終える前に、電話の向こうの石川剛が突然それを遮った。
その声色は、明らかに変わっていた。
「よく聞け。今から絶対に、絶対に屋敷の外へ出るな」
「どういう意味ですか?」
「それから、落ち着け。何を聞いても、何を見ても、相手にするな」
「なぜです?」
久世透はスマートフォンを握りしめた。
「石川さん、これはいったい――」
電話はそこで切れた。
透は暗くなった画面を見つめたまま、深く眉をひそめる。
石川剛の態度が途中から明らかに変わったことは、はっきりと分かった。
特に、最後に口早に告げた二つの忠告。
声の調子からしても、彼がひどく緊張していたのは間違いない。
普通の人間なら、こんな状況に置かれれば、動揺し、恐怖に呑まれてもおかしくない。
だが、久世透は違った。
幼い頃の経験と、医科大学で遺体を解剖した経験は、彼に並外れた精神的な強さを身につけさせていた。
『石川さんは詳しいことを話さなかった。けど、少なくとも一つだけは分かる。さっきこの家で起きた怪異は、俺の幻覚じゃない。それに、あの人は間違いなく事情を知っている。』
彼は石川剛が口にした奇妙な忠告を思い返し、胸の奥に緊張が広がっていくのを感じた。
こちらの状況を聞いたうえで、どうしてあの人は俺にここへ留まれと言ったのか。
普通なら、すぐに家を出ろと言うべきではないのか。
『おかしい……』
久世透は必死に考えを巡らせた。
だが、どれだけ考えても、答えは出なかった。
屋内は再び静まり返った。
しかし次の瞬間、それまで意識の外に追いやっていた細かな音が、いっせいに浮かび上がってくる。
夜風に揺れる窓が、かたかたと鳴っている。
廊下の奥の台所では、水滴がステンレスの流し台に落ちていた。
庭の暗い木々の枝では、鳥のようなものが羽ばたいた気配がする。
それに――
誰かに見られているような感覚があった。
透は弾かれたように顔を上げ、和室の中へ視線を走らせる。
白菊は白菊のままだ。
位牌も、位牌のままだ。
蝋燭は静かに燃えている。
ただ、視線が供物台の中央に置かれた祖母の遺影をかすめた瞬間、眼の端が、何か異様なものを捉えた気がした。
写真は、同じ写真のはずだった。
だが、祖母の顔から微笑みが消えていた。
口元は上がっていない。
目尻に、あの柔らかな笑い皺もない。
穏やかに細められていたはずのその目が、今はまっすぐに、じっと、透を睨みつけている。
「……どうして」
一瞬、全身を刺すような寒気が駆け抜けた。
信じられず、透はまばたきをした。
すると次の瞬間、写真は元に戻っていた。
祖母は微笑んでいる。
まるで、何事も起きていなかったかのように。
久世透は反射的に一歩後ずさった。
顔色が、見る見るうちに悪くなっていく。
今のは幻覚だったのか。
それとも、自分の精神が、おかしくなり始めているのか。
分からない。
だが、先ほど電話越しに聞いた石川剛の緊張と、あの奇妙な忠告を思い出した瞬間、胸の奥に恐ろしい推測が浮かび上がった。
この儀式は、最初から何かがおかしい。
「……この家にい続けるのはまずい。せめて、この和室からは出たほうがいい」
石川剛は、屋敷の外へ出るなと言った。
ならば、玄関で待つくらいなら問題ないはずだ。
そこなら出口に近い。
万が一、何かあったときにも、すぐに逃げられる。
透は迷わなかった。
座布団のそばに置いていた上着をつかみ、素早く羽織ると、廊下を抜けて玄関へ向かった。
玄関は廊下の突き当たりを曲がった先にある。
彼の靴も、古い傘立ての横に置いてあるはずだった。
だが、角を曲がった瞬間、目の前の光景に透はその場で凍りついた。
玄関の土間に、一つの人影がうつ伏せに倒れていた。
灰色地に白い花柄のセーター。
両肘には、深い茶色の革当てが縫い付けられている。
それは、祖母が生前、いちばん気に入っていた服だった。
だが、祖母はもう死んでいる。
遺骨は、和室に置かれている。
「……ばあちゃん?」
久世透は信じられない思いでそれを見つめ、反射的に小さく呼びかけていた。
透の声が聞こえたのだろうか。
床に倒れていたその影が、ぴくりと動いた。
次の瞬間。
骨が砕けるような、ぱきぱきという乾いた音が連続して響いた。
その頭が、ゆっくりと百八十度回転する。
うつ伏せだった身体の上で、顔だけが真上を向き、透と正面から向き合った。
だが、その顔は――祖母ではなかった。
彼は誓ってもいい。
それは、これまで一度も見たことのない顔だった。
青白く、むくんだ顔。
口は左右へ異様に裂けている。
人間の表情筋では決して届かない角度まで、口角が吊り上がっていた。
やがて、その裂けた口の奥から、嗄れた、けれどひどく興奮した笑い声が漏れた。
「はははははは――!」
「見えてるんだ!」
「お前、私が見えてるんだ!よかったあ!!」