怪異世界サバイバルガイド   作:窮北の風

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第2話 電話

「誰だ、そこにいるのは!」

 短い硬直のあと、久世透の胸の奥に怒りがこみ上げた。

 自分の気配を隠すことも忘れ、彼は廊下のほうへ鋭く声を張り上げる。

 

 祖母の葬儀の夜に、誰かが悪ふざけをしている。

 しかも、死者の声を真似るなど、面と向かって侮辱されたのと何も変わらない。

 

 しかし――

 廊下は死んだように静まり返り、返事はなかった。

 

「誰だと聞いている!」

 怒声が空気を震わせる。

 だが、襖の向こうの廊下からは、やはり何の返答もない。

 

 久世透は深く息を吸い、足早に入口へ向かうと、壁の照明スイッチを押した。

 

 ぱちん――

 

 冷たい白色の光が闇を押しのけ、廊下の木床に、彼の孤独な影を落とした。

 廊下には、誰もいなかった。

 

「……見つけたら、ただじゃ済まさないからな」

 

 透は足を止めなかった。

 そのまま廊下を進み、ぱたぱたと音を立てながら、襖を一枚、また一枚と開けていく。

 点けられる明かりは、すべて点けた。

 居間、台所、トイレ、押し入れの中。

 人が隠れられそうな場所は、すべて片端から調べた。

 

 だが結局、人影どころか、足音さえ消えていた。

 まるで、この家には最初から彼一人しかいなかったかのように。

 

「……ありえない」

 

 久世透は和室へ戻り、供物台の前に立って荒い息を吐いた。

 考えれば考えるほど、おかしい。

 

『俺は確かに声を聞いた。なのに、どうして相手が見つからない。仮に逃げたとしても、足音くらい聞こえるはずだろ』

 だが現実には、人影も、声も、何一つ見つからなかった。

 

 祭壇の蝋燭はとっくに消え、線香も燃え尽きていた。

 香炉の中には、灰白色の線香の灰だけが、細く曲がって垂れ下がっている。

 

『まさか、骨守りと関係があるのか?』

 蝋燭に火を灯し直しながら、透の頭にふとそんな考えがよぎった。

 だが、それはすぐに否定した。

 

 彼はこの村で、祖母と十年以上暮らしてきた。

 この独特な葬送儀礼にも、何度か立ち会ったことがある。

 それでも、今夜のような出来事があったなど、一度も聞いたことがなかった。

 

「まさか、本当に幽霊でも見たっていうのか……はは」

 自分で自分を茶化すつもりだった。

 だが、『幽霊に遭った』という考えは、雑草のように頭の中で広がっていく。

 いくら胆が据わっている透でも、思わず背後を振り返った。

 すべてはいつも通りだった。

 それなのに、心臓だけが理由もなく速く打っている。

 

『念のため、石川さんに聞いたほうがいいな。』

 久世透は、幽霊や呪いを本気で信じるような人間ではない。

 それでも、土地に根づいた習俗に対しては、最低限の敬意を持っていた。

 それは、先人の経験に近いものだ。

 無視すれば、自分や誰かに余計な厄介ごとを招くかもしれない。

 

 そう考えた透はスマートフォンを取り出し、石川剛の番号に電話をかけた。

 

 発信音の代わりに、受話口から聞こえてきたのは、ジジジ、ジジジ、という電子音のようなノイズだった。

 まるで先ほどまで耳の奥で鳴っていた雑音を、何倍にも増幅したような音だ。

 それでも、幸い電話はすぐにつながった。

 

「石川さん、久世です。夜分にすみません」

「おお、透ちゃんか。構わんよ。ちょうど、まだ起きていたところだ。どうだ、骨守りは順調か?」

 ノイズのせいで、電話越しの石川剛の声は途切れ途切れに聞こえた。

 

「ええ、今のところは……ただ……」

 口にしかけて、久世透は言葉に詰まった。

 先ほど自分が体験したことは、どう説明しても本当のことには聞こえない。

 

「ただ、何だ?」

 透の声に混じった迷いを、石川剛は敏感に聞き取ったらしい。

 

「ただ……祖母の家に、誰か外の人間が入ってきたような気がするんです」

「どういうことだ」

「さっき、祖母の部屋にいたら、廊下のほうから声が聞こえました。誰かが、祖母の声を真似て、俺を夕飯に呼んだんです。でも、外へ出てみたら、誰も――」

「そこを動くな。今すぐ行く」

 

 意外なことに、透が話し終える前に、電話の向こうの石川剛が突然それを遮った。

 その声色は、明らかに変わっていた。

 

「よく聞け。今から絶対に、絶対に屋敷の外へ出るな」

「どういう意味ですか?」

「それから、落ち着け。何を聞いても、何を見ても、相手にするな」

 

「なぜです?」

 久世透はスマートフォンを握りしめた。

「石川さん、これはいったい――」

 

 電話はそこで切れた。

 

 透は暗くなった画面を見つめたまま、深く眉をひそめる。

 石川剛の態度が途中から明らかに変わったことは、はっきりと分かった。

 特に、最後に口早に告げた二つの忠告。

 声の調子からしても、彼がひどく緊張していたのは間違いない。

 

 普通の人間なら、こんな状況に置かれれば、動揺し、恐怖に呑まれてもおかしくない。

 だが、久世透は違った。

 幼い頃の経験と、医科大学で遺体を解剖した経験は、彼に並外れた精神的な強さを身につけさせていた。

 

『石川さんは詳しいことを話さなかった。けど、少なくとも一つだけは分かる。さっきこの家で起きた怪異は、俺の幻覚じゃない。それに、あの人は間違いなく事情を知っている。』

 彼は石川剛が口にした奇妙な忠告を思い返し、胸の奥に緊張が広がっていくのを感じた。

 こちらの状況を聞いたうえで、どうしてあの人は俺にここへ留まれと言ったのか。

 普通なら、すぐに家を出ろと言うべきではないのか。

 

『おかしい……』

 久世透は必死に考えを巡らせた。

 だが、どれだけ考えても、答えは出なかった。

 

 屋内は再び静まり返った。

 しかし次の瞬間、それまで意識の外に追いやっていた細かな音が、いっせいに浮かび上がってくる。

 夜風に揺れる窓が、かたかたと鳴っている。

 廊下の奥の台所では、水滴がステンレスの流し台に落ちていた。

 庭の暗い木々の枝では、鳥のようなものが羽ばたいた気配がする。

 

 それに――

 誰かに見られているような感覚があった。

 

 透は弾かれたように顔を上げ、和室の中へ視線を走らせる。

 白菊は白菊のままだ。

 位牌も、位牌のままだ。

 蝋燭は静かに燃えている。

 ただ、視線が供物台の中央に置かれた祖母の遺影をかすめた瞬間、眼の端が、何か異様なものを捉えた気がした。

 

 写真は、同じ写真のはずだった。

 だが、祖母の顔から微笑みが消えていた。

 

 口元は上がっていない。

 目尻に、あの柔らかな笑い皺もない。

 穏やかに細められていたはずのその目が、今はまっすぐに、じっと、透を睨みつけている。

 

「……どうして」

 一瞬、全身を刺すような寒気が駆け抜けた。

 信じられず、透はまばたきをした。

 

 すると次の瞬間、写真は元に戻っていた。

 

 祖母は微笑んでいる。

 まるで、何事も起きていなかったかのように。

 

 久世透は反射的に一歩後ずさった。

 顔色が、見る見るうちに悪くなっていく。

 

 今のは幻覚だったのか。

 それとも、自分の精神が、おかしくなり始めているのか。

 分からない。

 だが、先ほど電話越しに聞いた石川剛の緊張と、あの奇妙な忠告を思い出した瞬間、胸の奥に恐ろしい推測が浮かび上がった。

 この儀式は、最初から何かがおかしい。

 

「……この家にい続けるのはまずい。せめて、この和室からは出たほうがいい」

 

 石川剛は、屋敷の外へ出るなと言った。

 ならば、玄関で待つくらいなら問題ないはずだ。

 そこなら出口に近い。

 万が一、何かあったときにも、すぐに逃げられる。

 

 透は迷わなかった。

 座布団のそばに置いていた上着をつかみ、素早く羽織ると、廊下を抜けて玄関へ向かった。

 

 玄関は廊下の突き当たりを曲がった先にある。

 彼の靴も、古い傘立ての横に置いてあるはずだった。

 

 だが、角を曲がった瞬間、目の前の光景に透はその場で凍りついた。

 

 玄関の土間に、一つの人影がうつ伏せに倒れていた。

 灰色地に白い花柄のセーター。

 両肘には、深い茶色の革当てが縫い付けられている。

 それは、祖母が生前、いちばん気に入っていた服だった。

 

 だが、祖母はもう死んでいる。

 遺骨は、和室に置かれている。

 

「……ばあちゃん?」

 久世透は信じられない思いでそれを見つめ、反射的に小さく呼びかけていた。

 

 透の声が聞こえたのだろうか。

 床に倒れていたその影が、ぴくりと動いた。

 次の瞬間。

 骨が砕けるような、ぱきぱきという乾いた音が連続して響いた。

 その頭が、ゆっくりと百八十度回転する。

 うつ伏せだった身体の上で、顔だけが真上を向き、透と正面から向き合った。

 

 だが、その顔は――祖母ではなかった。

 

 彼は誓ってもいい。

 それは、これまで一度も見たことのない顔だった。

 

 青白く、むくんだ顔。

 口は左右へ異様に裂けている。

 人間の表情筋では決して届かない角度まで、口角が吊り上がっていた。

 

 やがて、その裂けた口の奥から、嗄れた、けれどひどく興奮した笑い声が漏れた。

「はははははは――!」

「見えてるんだ!」

「お前、私が見えてるんだ!よかったあ!!」

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