その見知らぬ顔は、好き放題に笑い狂っていた。
濃密な悪意が、真正面から叩きつけられる。
逃げろ!
逃げろ!!!
今すぐ、ここから離れろ!!!!
久世透の頭の中で警鐘が鳴り響いた。
迷っている暇はない。彼は即座に身を翻し、走り出した。
『玄関は使えない。唯一の逃げ道は、いったん祖母の和室へ戻り、そこから庭へ逃げることだけだった。』
玄関にいたあれが何なのか。
なぜ、自分の家の中に現れたのか。
そんなことは、安全を確保してから考えればいい。
見慣れた家具が、視界の両端をものすごい速さで流れていく。
どうやって和室まで走ったのかも、どんな姿勢で裏庭へ飛び出したのかも分からなかった。
足裏に小石が食い込む痛みを覚えて、ようやく我に返る。
気づけば、透は庭の中に立っていた。
夜霧が正面から押し寄せてくる。
湿っていて、生臭い。
背後は、死んだように静まり返っていた。
振り返ると、青白い照明に照らされた和室の中は、がらんとしている。
祭壇が置かれているだけで、そこにあの何かの姿はなかった。
『よかった。あれは追ってきていない』
透は立ち止まらなかった。
よろめきながら庭門へ駆け寄る。
木戸を開け放った瞬間、闇の中で二筋の強烈なヘッドライトが光った。光はまっすぐ透の顔を照らしつける。
「家の中にいろと言ったはずだ。どうして出てきた?」
車のそばの影から、石川剛が姿を現した。彼は透の前に立ちふさがる。
「石川さん、来てくれたんですね。中に……家の中に、何かがいるんです」
久世透は荒い息を吐きながら言った。目には安堵の色が浮かんでいる。
石川剛がこれほど早く来てくれるとは思っていなかった。
だが次の瞬間、言いようのない違和感が胸をよぎった。
電話が切れてから、今までせいぜい数分しか経っていない。車を使ったとしても、これほど早く到着できるはずがない。
それに、先ほど庭にいたとき、車のエンジン音など一切聞こえなかった。
つまり、石川剛は最初から家の前で待っていた。
「……どうして、こんなに早く着いたんですか?」
久世透は悟られないように一歩後ずさり、距離を取った。
常識では説明できない出来事を経験したあとでは、警戒することが本能になっていた。
「その話は後でする」
石川剛は首を横に振り、焦った口調で言った。
「先に教えろ。さっき、何に遭った?」
久世透は少しだけためらった。
石川剛が自分に何かを隠しているのは、ほぼ間違いない。
だが、今のところ相手から明確な悪意は感じられない。ならば、まずは何が起きているのかを把握するべきだ。
「電話が切れたあと、玄関へ靴を履きに行きました。そこで、祖母の姿をした『怪物』に会いました」
「襲われたか?」
石川剛がすぐに問い返す。
「いいえ。そいつはずっと床に伏せていました」
「なら、まだ間に合う」
石川剛は明らかにほっとしたようだった。
「ただ、そのあと突然、頭だけこっちに向けて、意味の分からないことを言いました」
「何と言った?」
「――『お前、私が見えてるんだ』って」
久世透は、石川剛が驚くと思っていた。
だが、石川剛はただ小さく息を吐いただけだった。
その言葉に、少しも意外そうな様子はない。
「俺の見立てが間違っていなければ、お前、耳鳴りがしていたはずだ」
石川剛は静かに言った。
「古いテレビに砂嵐が映るときのような、あの電子音みたいな音だ」
久世透は目を見開いた。
石川剛は、彼の症状を正確に言い当てた。
その瞬間、目の前にいる白髪の老人が、ただの区長ではないように思えてきた。
「……その通りです。村に戻ってきたあたりから、急に耳の奥で鳴り始めました。この症状は……さっきのことと関係があるんですか?」
「詳しい話は道中でする。ここはもう安全じゃない。場所を変える」
石川剛はそう言うと、車へ向かって歩き出した。
久世透は一瞬迷った。
だが、最後には歯を食いしばり、早足でその後を追った。
信じるか信じないかは、ひとまず置いておくしかない。今、最優先すべきなのは、自分の身に何が起きているのかを知ることだった。
それに、強い予感があった。もしここで石川剛について行かず、一人で逃げようとすれば、もっと恐ろしいことが起きる。
助手席に乗り込むと、古びた軽トラックは唸るような音を立ててゆっくりと動き出した。そして、曲がりくねった山道を、さらに山林の奥へと進んでいく。
いくつのカーブを曲がったのか、もう分からない。
道の両側にあった明かりは少しずつ消えていき、やがて車は細い脇道へ入った。
そして、古びた鳥居の前で止まる。
鳥居の梁や柱に塗られていたはずの朱色は、すっかり褪せ落ちていた。
下からは腐った木肌が剥き出しになり、苔と蔓が絡みついている。
そこには、暗く、湿った、腐敗したような空気が漂っていた。
石川剛はエンジンを切った。
しかし、すぐには車を降りなかった。
彼は助手席の久世透へ顔を向け、重い表情で言った。
「お前には、聞きたいことが山ほどあるはずだ。だが、正直に言えば、俺にも分からないことは多い。話せるのは、俺が知っている範囲のことだけだ」
そこで一度、石川剛は言葉を切った。
「それに、これから話すことには、残酷な真実も含まれている。理解しろとは言わん。だが、できる限り受け止めてくれ」
「……分かりました」
久世透は深く息を吸い、うなずいた。
石川剛はすぐには話し始めなかった。
真剣な目で透の両目をじっと見つめる。
しばらくして、透の視線が逸れないことを確認すると、ようやくゆっくりと口を開いた。
「実は、俺たちが暮らしているこの世界には、信じがたい都市怪談や、奇妙な死亡事件がいくつもある。だが、そのすべてが作り話というわけではない」
石川剛の声は低かった。
「その一部は、別の次元に存在するものによって引き起こされている。俺たちは、そうした存在を『悪霊』と呼んでいる」
彼は透を見た。
「さっき、お前の祖母に化けていたものも、その悪霊だ」
以前の久世透なら、そんな話はくだらない妄言だと一笑に付しただろう。
だが、今夜味わった恐怖が、彼にそれを否定させなかった。
この世界は、もしかすると自分が思っていたほど単純ではない。
ホラー映画や漫画の中だけの作り話だと思っていたものが、本当に現実に存在しているのかもしれない。
透は息を潜めた。
石川剛の声は止まらなかった。
「本来、人間と悪霊は、それぞれ別の次元の世界にいる。互いの姿を見ることもできなければ、影響を与えることもできない」
「だが、人間の中には、ごく一部だけ、悪霊を見る力を持つ者がいる」
「そういう人間を、『曝露者《ばくろしゃ》』と呼ぶ。最初に出る症状が、耳鳴りだ」
「つまり、俺はその『曝露者』だということですか?」
「そうだ」
石川剛はうなずき、苦笑した。
「実は、お前だけじゃない。俺もだ」
久世透は驚いて、目の前の老人を見た。
どうりで、彼は透の症状を正確に言い当てた。
どうりで、あの体験を聞いても冷静でいられた。
つまり、自分たちは同じ種類の人間なのだ。
「多くの人間は、この『悪霊を見る力』を、天から授かった贈り物だと考える。自分は選ばれた存在だとか、救世主なのだとか、そう思い込む」
石川剛は自嘲気味に笑った。
「もちろん、俺も最初はそう思っていた」
久世透は何も言わなかった。
なぜなら、彼自身もつい先ほど、似たような考えを抱きかけていたからだ。
だが、向かいに座る石川剛の表情は、次第に苦痛に歪んでいった。
「だが、もし本当にそう思っているなら、大間違いだ」
石川剛の声が低くなる。
「なぜ俺たちが『曝露者』と呼ばれているのか、分かるか?」
久世透は首を横に振った。
「その力を得た瞬間から、お前自身もまた、悪霊の視線に曝されるからだ」
車内の空気が、急に重くなった。
「悪霊は、あらゆる手を使ってお前を脅かそうとする。怖がらせ、恐怖させようとする。なぜなら、お前が一定以上の恐怖に呑まれたとき、奴らは実体を持ってこちら側の世界へ入り込めるからだ」
石川剛は歯を食いしばった。
「そして奴らがこちらへ来て、最初にすることは決まっている」
彼の声が震える。
「自分を招き入れた曝露者を、残酷に殺すことだ」
そこまで言ったとき、石川剛の顔が歪んだ。
何か恐ろしい記憶を思い出したのだろう。
昼間の落ち着いた老人とは、まるで別人だった。
血走った目には、はっきりと恐怖が浮かんでいる。
彼は突然顔を上げ、久世透をじっと見据えた。
「これから言うことは、一言一句、必ず覚えておけ。お前が生き残れるかどうかに関わる、最重要事項だ」
石川剛は指を一本立てた。
「一つ目。常に冷静でいろ。これからお前は、何度も奇妙でおぞましいものを見ることになる。だが、心が乱れなければ、悪霊は本当の意味でお前を傷つけることはできない」
「二つ目。悪霊に応えるな。無視し続けろ。そうすれば、奴らがお前の前に現れる頻度は下がっていく」
「それなら、俺はさっき……」
二つ目の規則を聞いた瞬間、久世透の胸が沈んだ。
あのとき、彼は確かに冷静ではあった。
だが、間違いなく悪霊に反応してしまった。
そうでなければ、あの悪霊が『お前、私が見えてるんだ』などと言うはずがない。
「そうだ。お前はすでに、あれに応えてしまった」
石川剛は重くうなずいた。
「だから、あれはまた来る」
久世透の喉がわずかに動いた。
「だが、まだよかった。お前は恐怖で完全に壊れなかった。もし腰を抜かすほど怯えていたら、そもそも逃げ出すことすらできなかったはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、久世透はあることに気づいた。
「それなら、どうして俺をあの家に残したんですか?」
透は石川剛を問い詰めた。
「あなたは最初から、こうなることを知っていたんですよね。それなのに、どうして俺に家へ残れと言ったんですか?それに、あなたはずっと門の外で待っていた。悪霊が外へ出るのを防ぐためじゃない。俺が逃げ出さないよう、見張っていたんじゃないですか?」
「その通りだ」
石川剛はあっさりと認めた。
「俺はお前が逃げないようにするため、最初から門の外で待っていた」
その返答に、久世透は言葉を失った。
まさか、石川剛がそこまであっさり認めるとは思っていなかった。
「でも……どうしてですか?」
「この村は、呪われている」
石川剛は苦笑した。
「この村の人間が死ぬと、悪霊を引き寄せやすいんだ」
彼は鳥居の外の闇へ目を向ける。
「悪霊を外へ放って、あちこちを彷徨わせるくらいなら、自分の家に留めておいたほうがいい。それが、俺たちが何百年も守ってきた考え方だ。それに、経験上、一晩さえ耐え切れば、悪霊は自然に消える」
久世透は黙り込んだ。
村に、そんな事情があったなど、彼は一度も知らなかった。
以前の彼なら、鼻で笑っていたかもしれない。
だが、実際に悪霊の恐怖を味わった今なら、老人たちが口を閉ざしたまま守ってきたものの重さが、少しだけ分かる気がした。
それは古い迷信などではない。
沈黙とともに受け継がれてきた、残酷な責任だった。
「では、どうして俺を外へ出したんですか?」
「お前が曝露者だからだ」
石川剛は即答した。
「俺たちのような人間は悪霊が見える。だから、普通の人間よりはるかに驚かされやすい。もし悪霊が実体を持って人間の世界へ入り込めば、この村の安全にも関わる」
「……すみません」
すべてを理解した久世透は、自分が石川剛を疑っていたことを悟り、低く頭を下げた。
「いい」
石川剛は軽く手を振った。
そして、自分がつけていたイヤホンを外し、透へ差し出した。
「これは『遮断イヤホン』だ。曝露者の感知能力を弱めることができる。悪霊はずっとそこにいるのかもしれない。だが、見えなければ、恐怖に呑まれることもない」
石川剛はイヤホンを透の手に押しつけた。
「この先は山道だ。俺より、お前のほうが必要になる」
久世透はイヤホンを受け取った。
見た目は普通の有線イヤホンだった。
ただ一つ違うのは、左右のコードが合流する部分に、名刺ほどの大きさの黒い箱が取り付けられていることだった。
「あなたはどうするんですか?」
「心配するな」
石川剛は笑った。
「俺のほうが経験がある。見てきた怖いものの数も、お前よりずっと多い。そう簡単に驚かされはしない」
そう言うと、彼は車のドアを開け、先に外へ降りた。
「行くぞ。出発だ」
石川剛は鳥居の奥を指さした。
「この山道を進んだ先に、神社がある。そこなら、一時的に悪霊の視線を遮ることができる。そこで夜明けまで待つ」
久世透は顔を上げた。
一筋の石畳の道が、鳥居の向こうへと伸びている。
それは曲がりくねりながら山の上へ続き、やがて暗い森の奥へ吸い込まれるように消えていった。