怪異世界サバイバルガイド   作:窮北の風

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第3話 曝露者

 その見知らぬ顔は、好き放題に笑い狂っていた。

 濃密な悪意が、真正面から叩きつけられる。

 

 逃げろ!

 

 逃げろ!!!

 

 今すぐ、ここから離れろ!!!!

 

 久世透の頭の中で警鐘が鳴り響いた。

 迷っている暇はない。彼は即座に身を翻し、走り出した。

 

『玄関は使えない。唯一の逃げ道は、いったん祖母の和室へ戻り、そこから庭へ逃げることだけだった。』

 

 玄関にいたあれが何なのか。

 なぜ、自分の家の中に現れたのか。

 そんなことは、安全を確保してから考えればいい。

 

 見慣れた家具が、視界の両端をものすごい速さで流れていく。

 どうやって和室まで走ったのかも、どんな姿勢で裏庭へ飛び出したのかも分からなかった。

 足裏に小石が食い込む痛みを覚えて、ようやく我に返る。

 気づけば、透は庭の中に立っていた。

 

 夜霧が正面から押し寄せてくる。

 湿っていて、生臭い。

 背後は、死んだように静まり返っていた。

 

 振り返ると、青白い照明に照らされた和室の中は、がらんとしている。

 祭壇が置かれているだけで、そこにあの何かの姿はなかった。

 

『よかった。あれは追ってきていない』

 

 透は立ち止まらなかった。

 よろめきながら庭門へ駆け寄る。

 

 木戸を開け放った瞬間、闇の中で二筋の強烈なヘッドライトが光った。光はまっすぐ透の顔を照らしつける。

 

「家の中にいろと言ったはずだ。どうして出てきた?」

 

 車のそばの影から、石川剛が姿を現した。彼は透の前に立ちふさがる。

 

「石川さん、来てくれたんですね。中に……家の中に、何かがいるんです」

 久世透は荒い息を吐きながら言った。目には安堵の色が浮かんでいる。

 石川剛がこれほど早く来てくれるとは思っていなかった。

 

 だが次の瞬間、言いようのない違和感が胸をよぎった。

 

 電話が切れてから、今までせいぜい数分しか経っていない。車を使ったとしても、これほど早く到着できるはずがない。

 それに、先ほど庭にいたとき、車のエンジン音など一切聞こえなかった。

 つまり、石川剛は最初から家の前で待っていた。

 

「……どうして、こんなに早く着いたんですか?」

 久世透は悟られないように一歩後ずさり、距離を取った。

 常識では説明できない出来事を経験したあとでは、警戒することが本能になっていた。

 

「その話は後でする」

 石川剛は首を横に振り、焦った口調で言った。

「先に教えろ。さっき、何に遭った?」

 

 久世透は少しだけためらった。

 石川剛が自分に何かを隠しているのは、ほぼ間違いない。

 だが、今のところ相手から明確な悪意は感じられない。ならば、まずは何が起きているのかを把握するべきだ。

 

「電話が切れたあと、玄関へ靴を履きに行きました。そこで、祖母の姿をした『怪物』に会いました」

「襲われたか?」

 石川剛がすぐに問い返す。

 

「いいえ。そいつはずっと床に伏せていました」

「なら、まだ間に合う」

 石川剛は明らかにほっとしたようだった。

 

「ただ、そのあと突然、頭だけこっちに向けて、意味の分からないことを言いました」

「何と言った?」

「――『お前、私が見えてるんだ』って」

 

 久世透は、石川剛が驚くと思っていた。

 だが、石川剛はただ小さく息を吐いただけだった。

 その言葉に、少しも意外そうな様子はない。

 

「俺の見立てが間違っていなければ、お前、耳鳴りがしていたはずだ」

 石川剛は静かに言った。

「古いテレビに砂嵐が映るときのような、あの電子音みたいな音だ」

 

 久世透は目を見開いた。

 石川剛は、彼の症状を正確に言い当てた。

 その瞬間、目の前にいる白髪の老人が、ただの区長ではないように思えてきた。

 

「……その通りです。村に戻ってきたあたりから、急に耳の奥で鳴り始めました。この症状は……さっきのことと関係があるんですか?」

「詳しい話は道中でする。ここはもう安全じゃない。場所を変える」

 石川剛はそう言うと、車へ向かって歩き出した。

 

 久世透は一瞬迷った。

 だが、最後には歯を食いしばり、早足でその後を追った。

 

 信じるか信じないかは、ひとまず置いておくしかない。今、最優先すべきなのは、自分の身に何が起きているのかを知ることだった。

 それに、強い予感があった。もしここで石川剛について行かず、一人で逃げようとすれば、もっと恐ろしいことが起きる。

 

 助手席に乗り込むと、古びた軽トラックは唸るような音を立ててゆっくりと動き出した。そして、曲がりくねった山道を、さらに山林の奥へと進んでいく。

 

 いくつのカーブを曲がったのか、もう分からない。

 道の両側にあった明かりは少しずつ消えていき、やがて車は細い脇道へ入った。

 そして、古びた鳥居の前で止まる。

 

 鳥居の梁や柱に塗られていたはずの朱色は、すっかり褪せ落ちていた。

 下からは腐った木肌が剥き出しになり、苔と蔓が絡みついている。

 そこには、暗く、湿った、腐敗したような空気が漂っていた。

 

 石川剛はエンジンを切った。

 しかし、すぐには車を降りなかった。

 彼は助手席の久世透へ顔を向け、重い表情で言った。

 

「お前には、聞きたいことが山ほどあるはずだ。だが、正直に言えば、俺にも分からないことは多い。話せるのは、俺が知っている範囲のことだけだ」

 そこで一度、石川剛は言葉を切った。

「それに、これから話すことには、残酷な真実も含まれている。理解しろとは言わん。だが、できる限り受け止めてくれ」

 

「……分かりました」

 久世透は深く息を吸い、うなずいた。

 

 石川剛はすぐには話し始めなかった。

 真剣な目で透の両目をじっと見つめる。

 しばらくして、透の視線が逸れないことを確認すると、ようやくゆっくりと口を開いた。

 

「実は、俺たちが暮らしているこの世界には、信じがたい都市怪談や、奇妙な死亡事件がいくつもある。だが、そのすべてが作り話というわけではない」

 石川剛の声は低かった。

「その一部は、別の次元に存在するものによって引き起こされている。俺たちは、そうした存在を『悪霊』と呼んでいる」

 彼は透を見た。

「さっき、お前の祖母に化けていたものも、その悪霊だ」

 

 以前の久世透なら、そんな話はくだらない妄言だと一笑に付しただろう。

 だが、今夜味わった恐怖が、彼にそれを否定させなかった。

 この世界は、もしかすると自分が思っていたほど単純ではない。

 ホラー映画や漫画の中だけの作り話だと思っていたものが、本当に現実に存在しているのかもしれない。

 

 透は息を潜めた。

 石川剛の声は止まらなかった。

 

「本来、人間と悪霊は、それぞれ別の次元の世界にいる。互いの姿を見ることもできなければ、影響を与えることもできない」

「だが、人間の中には、ごく一部だけ、悪霊を見る力を持つ者がいる」

「そういう人間を、『曝露者《ばくろしゃ》』と呼ぶ。最初に出る症状が、耳鳴りだ」

 

「つまり、俺はその『曝露者』だということですか?」

 

「そうだ」

 石川剛はうなずき、苦笑した。

「実は、お前だけじゃない。俺もだ」

 

 久世透は驚いて、目の前の老人を見た。

 どうりで、彼は透の症状を正確に言い当てた。

 どうりで、あの体験を聞いても冷静でいられた。

 つまり、自分たちは同じ種類の人間なのだ。

 

「多くの人間は、この『悪霊を見る力』を、天から授かった贈り物だと考える。自分は選ばれた存在だとか、救世主なのだとか、そう思い込む」

 石川剛は自嘲気味に笑った。

「もちろん、俺も最初はそう思っていた」

 

 久世透は何も言わなかった。

 なぜなら、彼自身もつい先ほど、似たような考えを抱きかけていたからだ。

 

 だが、向かいに座る石川剛の表情は、次第に苦痛に歪んでいった。

「だが、もし本当にそう思っているなら、大間違いだ」

 石川剛の声が低くなる。

「なぜ俺たちが『曝露者』と呼ばれているのか、分かるか?」

 

 久世透は首を横に振った。

 

「その力を得た瞬間から、お前自身もまた、悪霊の視線に曝されるからだ」

 車内の空気が、急に重くなった。

「悪霊は、あらゆる手を使ってお前を脅かそうとする。怖がらせ、恐怖させようとする。なぜなら、お前が一定以上の恐怖に呑まれたとき、奴らは実体を持ってこちら側の世界へ入り込めるからだ」

 石川剛は歯を食いしばった。

「そして奴らがこちらへ来て、最初にすることは決まっている」

 彼の声が震える。

「自分を招き入れた曝露者を、残酷に殺すことだ」

 

 そこまで言ったとき、石川剛の顔が歪んだ。

 何か恐ろしい記憶を思い出したのだろう。

 昼間の落ち着いた老人とは、まるで別人だった。

 血走った目には、はっきりと恐怖が浮かんでいる。

 

 彼は突然顔を上げ、久世透をじっと見据えた。

「これから言うことは、一言一句、必ず覚えておけ。お前が生き残れるかどうかに関わる、最重要事項だ」

 

 石川剛は指を一本立てた。

 

「一つ目。常に冷静でいろ。これからお前は、何度も奇妙でおぞましいものを見ることになる。だが、心が乱れなければ、悪霊は本当の意味でお前を傷つけることはできない」

「二つ目。悪霊に応えるな。無視し続けろ。そうすれば、奴らがお前の前に現れる頻度は下がっていく」

 

「それなら、俺はさっき……」

 二つ目の規則を聞いた瞬間、久世透の胸が沈んだ。

 

 あのとき、彼は確かに冷静ではあった。

 だが、間違いなく悪霊に反応してしまった。

 そうでなければ、あの悪霊が『お前、私が見えてるんだ』などと言うはずがない。

 

「そうだ。お前はすでに、あれに応えてしまった」

 石川剛は重くうなずいた。

「だから、あれはまた来る」

 久世透の喉がわずかに動いた。

「だが、まだよかった。お前は恐怖で完全に壊れなかった。もし腰を抜かすほど怯えていたら、そもそも逃げ出すことすらできなかったはずだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、久世透はあることに気づいた。

「それなら、どうして俺をあの家に残したんですか?」

 透は石川剛を問い詰めた。

「あなたは最初から、こうなることを知っていたんですよね。それなのに、どうして俺に家へ残れと言ったんですか?それに、あなたはずっと門の外で待っていた。悪霊が外へ出るのを防ぐためじゃない。俺が逃げ出さないよう、見張っていたんじゃないですか?」

 

「その通りだ」

 石川剛はあっさりと認めた。

「俺はお前が逃げないようにするため、最初から門の外で待っていた」

 

 その返答に、久世透は言葉を失った。

 まさか、石川剛がそこまであっさり認めるとは思っていなかった。

 

「でも……どうしてですか?」

 

「この村は、呪われている」

 石川剛は苦笑した。

「この村の人間が死ぬと、悪霊を引き寄せやすいんだ」

 彼は鳥居の外の闇へ目を向ける。

「悪霊を外へ放って、あちこちを彷徨わせるくらいなら、自分の家に留めておいたほうがいい。それが、俺たちが何百年も守ってきた考え方だ。それに、経験上、一晩さえ耐え切れば、悪霊は自然に消える」

 

 久世透は黙り込んだ。

 村に、そんな事情があったなど、彼は一度も知らなかった。

 

 以前の彼なら、鼻で笑っていたかもしれない。

 だが、実際に悪霊の恐怖を味わった今なら、老人たちが口を閉ざしたまま守ってきたものの重さが、少しだけ分かる気がした。

 それは古い迷信などではない。

 沈黙とともに受け継がれてきた、残酷な責任だった。

 

「では、どうして俺を外へ出したんですか?」

「お前が曝露者だからだ」

 石川剛は即答した。

「俺たちのような人間は悪霊が見える。だから、普通の人間よりはるかに驚かされやすい。もし悪霊が実体を持って人間の世界へ入り込めば、この村の安全にも関わる」

 

「……すみません」

 すべてを理解した久世透は、自分が石川剛を疑っていたことを悟り、低く頭を下げた。

 

「いい」

 石川剛は軽く手を振った。

 そして、自分がつけていたイヤホンを外し、透へ差し出した。

「これは『遮断イヤホン』だ。曝露者の感知能力を弱めることができる。悪霊はずっとそこにいるのかもしれない。だが、見えなければ、恐怖に呑まれることもない」

 石川剛はイヤホンを透の手に押しつけた。

「この先は山道だ。俺より、お前のほうが必要になる」

 

 久世透はイヤホンを受け取った。

 見た目は普通の有線イヤホンだった。

 ただ一つ違うのは、左右のコードが合流する部分に、名刺ほどの大きさの黒い箱が取り付けられていることだった。

 

「あなたはどうするんですか?」

 

「心配するな」

 石川剛は笑った。

「俺のほうが経験がある。見てきた怖いものの数も、お前よりずっと多い。そう簡単に驚かされはしない」

 

 そう言うと、彼は車のドアを開け、先に外へ降りた。

 

「行くぞ。出発だ」

 石川剛は鳥居の奥を指さした。

「この山道を進んだ先に、神社がある。そこなら、一時的に悪霊の視線を遮ることができる。そこで夜明けまで待つ」

 

 久世透は顔を上げた。

 一筋の石畳の道が、鳥居の向こうへと伸びている。

 それは曲がりくねりながら山の上へ続き、やがて暗い森の奥へ吸い込まれるように消えていった。

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