石畳の参道へ足を踏み入れると同時に、久世透はイヤホンを耳に装着した。
中からは、軽い音楽か、僧侶の読経のようなものでも流れてくるのかと思っていた。
だが、実際に聞こえてきたのは、奇妙な音だけだった。
正確に言えば、それは低周波のホワイトノイズに近い。
「どうだ。耳鳴りは少し楽になったか?」
石川剛がこちらを見て尋ねる。
「はい。ほとんど消えました」
改めて意識してみると、耳鳴りは確かに消えていた。
しかも、普通の音が聞こえなくなるわけでもない。
驚きとともに、久世透は小さく息をついた。
表面上は落ち着いて見えているかもしれない。だが実際のところ、透はひどく緊張していた。
自分のそばに、今も一体の悪霊がつきまとっている。
そう考えるだけで、胸の内がざわついて落ち着かない。
石川剛が明かした話は、彼にこの世界の隠された一面を見せた。
同時に、さっきまで自分が古い屋敷の中で、ほとんど死の淵を歩いていたのだという事実にも気づかせた。
『もし俺がもっと怯えていたら、悪霊はもう現実世界へ入り込んでいたのかもしれない。そのとき、俺がどうなっていたかなんて、分かったものじゃない』
すでに山道を登り始めていた石川剛を見て、透は慌ててその後を追った。
『こんな山奥に隠れた神社に、本当に悪霊に抗う力があるのか?』
石段の上に倒れていた石灯籠を避けながら、久世透は疑問を覚えた。
神社へ続く細い参道は、長いあいだ手入れされていないようだった。
石の隙間から伸びた雑草だけでなく、表面にはびっしりと苔が張りついている。
一目で、しばらく人が通っていないことが分かった。
だが、その疑問を口にすることはなかった。
今、前を歩く石川剛の様子が、明らかにおかしかったからだ。
足取りは乱れ、しきりに周囲を見回している。
手にした懐中電灯も、落ち着きなく周囲の林を照らしていた。
久世透は光の先を追った。
しかし、そこに見えるのは複雑に絡み合った枝と、太い木の幹ばかりだった。
特に異常なものは見当たらない。
『悪霊がついてきているのか?』
同じ曝露者である石川剛は、遮断イヤホンを透に譲ってくれた。
ならば、もし本当に悪霊が何か怪異を引き起こしているのだとしたら、今それを聞き、あるいは見ているのは石川剛だけなのかもしれない。
透は相手を刺激しないよう、黙って後を追った。
道中の空気は、張り詰めるほど重く、息苦しかった。
それからさらに十分ほど歩いたころ、ようやく道の先に神社が見えてきた。
深い山中に隠れるように建つその建物を初めて目にした瞬間、久世透は、自分の常識がまた一つ塗り替えられていくような感覚を覚えた。
理由は単純だ。
その神社の造りが、あまりにも奇妙だったからである。
境内を囲む塀は全体が黒く、目測でも五メートルほどある。
神門は一つだけ。
しかも、ひどく小さい。
身長175cmの久世透でさえ、半ばしゃがみ込まなければ、どうにか潜り抜けられないほどだった。
境内全体は閉ざされた四角形になっていた。
サッカーコート半分ほどの広さの空間には、神門の近くに一本の桜の木があるだけで、他に飾りとなる草木はない。
普通の神社にあるような拝殿と本殿の区別もない。
脇殿もない。
ただ広場の中央に、本殿だけがぽつんと建っていた。
『こんな神社は初めて見る。人が参拝するための場所というより、むしろ牢だ。本殿の中にある何かを、閉じ込めるための場所みたいだ』
目の前の本殿を見つめながら、久世透は眉をひそめた。
だが、悪霊の存在を思い出すと、すぐに納得してしまう。
悪霊などというものが本当に存在するのなら、多少奇妙な神社くらいは、むしろ受け入れやすかった。
二人はさらに歩き、本殿の中へ入った。
そこでようやく、先を歩いていた石川剛が長く息を吐いた。
そのまま、彼は力が抜けたように床へ座り込む。
「ようやく着いた……」
「ここが、悪霊の攻撃を防げる場所なんですか?」
久世透は半信半疑のまま、周囲を見回した。
懐中電灯の光を頼りに見ると、本殿の内部には何もなかった。
ただ中央に、供物台が一つ置かれている。
その上には、小さな木製の小祠が据えられていた。
小祠の内部は二枚の小さな扉で閉ざされており、光は中まで届かない。
ただ、ぼんやりとした輪郭からすると、中には箱のようなものが納められているようだった。
「違う、違う。攻撃を防ぐんじゃない。視線を遮るんだ」
汗だくの石川剛が荒い息を吐きながら、透の思考を遮った。
「この本殿は、巨大な遮断イヤホンみたいなものだと思えばいい。信じられないなら、イヤホンを外して自分で確かめてみろ」
久世透は半信半疑のまま、イヤホンを外した。
すると、先ほどまでの耳鳴りが再び聞こえてきた。
だが、石川剛の言う通り、その音は確かにかなり弱まっている。
普段の状態を十とするなら、今は一程度しかない。
「どうだ。耳鳴りはかなり楽になっただろう?」
この本殿へ入ってから、石川剛の精神状態は明らかに落ち着いていた。
そう尋ねる表情にも、久しぶりに笑みが浮かんでいる。
「確かに、ほとんど消えています」
久世透はうなずき、イヤホンを相手に返した。
同時に、道中ずっと気になっていた疑問を口にする。
「でも、俺たちは悪霊を見ることができるんですよね。それなら、どうして相手を消滅させないんですか?」
「悪霊は殺せないからだ」
石川剛はイヤホンを受け取りながら、あっさりと答えた。
「何ですって? 殺せない?」
その情報に、久世透は本気で衝撃を受けた。
もし本当にそうなら、悪霊は無敵の存在ということになる。
では、人類はどうやって今まで生き延びてきたのか。
「ああ、すまん。言い方が悪かったな」
石川剛はすぐに言い直した。
「正確には、悪霊は通常の方法では殺せない。銃弾や爆発、そういうものではな。だが、人類にも対抗手段はある。たとえば、この国には異常事案対策庁という組織がある。噂では、そこに所属する者たちは悪霊の力を持ち、悪霊に傷を負わせることができるらしい」
「この国に、そんな部署があるんですか? どうして一度も聞いたことがないんです」
「当然だ。彼らは人々の視界の裏でしか活動できない」
石川剛は肩をすくめた。
「もし存在が表に出れば、悪霊のことも隠し通せなくなる。そうなれば、社会は必ず混乱する。もっとも、今の話は俺個人の推測も混じっているがな」
久世透は石川剛のそばに腰を下ろした。
それ以上、その話に深く踏み込むことはしなかった。
自分はもう曝露者になってしまった。
もしその異常事案対策庁が本当に政府機関なのだとすれば、今後、いずれ接触することになる可能性は高い。
「これから、どうするんですか?」
「待つ」
石川剛は大きく伸びをした。
「俺たちはここで、夜が明けるまで待つ」
「夜明けまで? まさか、太陽の光が悪霊を傷つけるんですか?」
「悪霊を傷つけられるわけじゃない。昼を待つのは、単に人間が昼間のほうが怖がりにくいからだ。今、俺たちには遮断イヤホンが一つしかない。こんな状態で無理に山を下りれば、途中でいくつもの怪異に出くわすかもしれん。危険すぎる」
それを聞いて、久世透はようやく納得した。
石川剛が彼を山へ連れてきて、この神社へ避難した直接の理由。
それは、二人が無事に市街地まで辿り着けない可能性を恐れたからなのだ。
「では、どうしてこの状況を異常事案対策庁に知らせないんですか? 救助を頼めばいいのでは?」
「安心しろ」
石川剛はスマートフォンを軽く振って見せた。
「お前の祖母の家にいたとき、すでに連絡は入れてある。だが、対策庁はそこまで早く動けるわけじゃない。だから、あくまで保険だ」
石川剛がすでにできる限りの手を打っていたことを知り、久世透はそれ以上問い詰めなかった。
ただ静かにそばへ座り、周囲を見回しながら夜明けを待つことにした。
「しばらく頼む。俺は年寄りだからな。少し休む。何かあったら起こしてくれ」
石川剛はあくびをし、それから安心させるように笑った。
「そんなに緊張するな。この神社には、俺も子供のころから来ている。何も起きやしない」
そう言うと、彼は床に横になり、ほどなくうとうとと寝息を立て始めた。
『そうだといいけどな』
久世透は眉を寄せたまま、返事をしなかった。
彼も疲れ切っていた。
だが、神経は異様なほど冴えている。
何より、自分のすぐそばを、目に見えない悪霊がうろついているかもしれないのだ。
そんな状況で眠れと言われても、できるはずがなかった。
『祖母のために、骨守りを続けていると思えばいい』
久世透は襟元をきつく合わせた。
汗で濡れたシャツは、深秋の冷気を余計に肌へ染み込ませてくる。
電池を節約するため、透は身につけていた照明を消した。
隣に人がいるせいだろうか。
周囲が暗闇に沈んでいても、思ったほど恐怖は感じなかった。
最初のうちは、彼も時折スマートフォンを確認し、早く時間が過ぎることを願っていた。
だが、そのうち見るのをやめた。
時刻を確認しても意味はない。
大事なのは、夜明けまで耐えることだ。
幸い、神社の内外は石川剛の言う通り、何の異常も起こらなかった。
風の音も、枝が擦れる音も、本殿の外で遮られているようだった。
石川剛の小さないびきを聞いているうちに、久世透の張り詰めていた神経は、少しずつ緩んでいった。
そして代わりに、抗いがたい眠気が押し寄せてくる。
何度もまぶたが閉じかけ、そのたびに無理やり目を開いた。
どれほど時間が経ったのか分からない。
あくびを繰り返していた久世透は、ついに耐えきれなくなりそうだった。
『どうして、まだ明るくならない?』
彼はもう一度、スマートフォンの画面を点けた。
表示された時刻を見た瞬間、全身が硬直する。
画面に表示されていたのは、午前八時二十二分だった!!
この時間なら、日本の最北端であっても、とっくに夜は明けているはずだ。
『曇っているのか? いや、たとえ曇りでも、光が一切差さないなんてありえない』
久世透は立ち上がり、足早に本殿の入口へ向かった。
そして木格子戸を押し開ける。
そこで、信じがたい光景が広がっていた。
外は、なおも漆黒の闇に沈んでいた!!!
『まずい。悪霊はまだ消えていない』
異常を悟った透は、慌てて踵を返した。
しかし、先ほどまで自分が座っていた場所へ戻った瞬間、足元から頭の先まで、凍りつくような寒気が駆け抜けた。
床に横たわって眠っていたはずの石川剛が、いつの間にか消えていた————