怪異世界サバイバルガイド   作:窮北の風

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第5話 石川剛

「石――」

 

 久世透は口を開き、石川剛の名を呼ぼうとした。

 だが、その瞬間、石川剛の『応えるな』という忠告が、脳裏に鋭く蘇る。

 言いかけた言葉を、透は無理やり喉の奥へ押し戻した。

 

 しかし、眠っていたはずの生きた人間が、彼の目の前で、何の前触れもなく消えたのだ。

 そんなことが、あり得るのか!?

 

『悪霊か!?まさか、神社の遮断効果が切れたのか!』

 

 その考えが頭をよぎった瞬間、久世透の額に冷たい汗が浮かんだ。

 もし本当にそうなら、ここに留まり続けることも、もはや安全ではない。

 

 だが、石川剛は確かに言っていた。

 悪霊が現実世界へ干渉するには、まず曝露者を極度の恐怖状態に追い込まなければならない、と。

 確かに怖くはある。

 だが、恐慌状態に陥っているほどではない。

 

 改めて耳鳴りの症状にも意識を向けてみた。

 先ほどと比べて、特に変化はない。

 

『おかしい。俺の見間違いか?石川さんは、本当はまだ元の場所にいるんじゃないのか』

 久世透は迷った。

 

 人間は、目印のない場所を歩くと、知らず知らずのうちに左へ曲がっていくという。

 さっき戻ってきた距離はそれほど長くない。

 だが、この暗闇の中なら、いつの間にか方向がずれていてもおかしくはない。

 

 そう考え、彼はポケットからスマートフォンを取り出した。

 ゆっくりとカメラ部分を前方へ向ける。

 深く息を吸ってから、ライトを点けた。

 

 瞬間、扇状の光が広がり、前方三メートルほどの空間を照らし出す。

 それより先は、また闇に呑み込まれていた。

 

 そして彼は、まさに石川剛が寝ていた場所に立っていた。

 足元近くの床には、石川剛が外して畳んだ白いタオルも置かれている。

 

 ただし、石川剛本人の姿はなかった。

 

「……どこへ行ったんだ。生きた人間が、悪霊みたいに神出鬼没に消えるわけないだろ」

 悪霊、という言葉を口にした瞬間、久世透は理由もなく身震いした。

 

 一晩の怪異を経験したことで、自分の肝は以前より据わったように感じる。

 冷静さも増している。

 それでも、もう一度あの悪霊と真正面から向き合えと言われれば、強烈な拒絶感が湧き上がってくる。

 

『ここまで来た以上、俺の前にある選択肢は二つだけだ』

 久世透は数歩後ずさり、背中を小さな祠の側面に寄せた。

 スマートフォンの光がもたらすわずかな安心感にすがりながら、頭の中で素早く状況を整理する。

 

 一つ目。

 このまま神社に残り、夜明けと対策庁の救助を待つ。

 だが、石川剛の消失は不安材料だった。

 この神社が本当に悪霊を防げるのか、その信頼も揺らいでいる。

 このまま留まり続ければ、自分も同じ目に遭うかもしれない。

 

 二つ目。

 ここから逃げる。

 危険に見えるが、可能性がないわけではない。

 外はすでに午前のはずだ。

 もし今の暗闇が、あの悪霊の何らかの力によって作られているものだとしたら、十分に遠くまで逃げれば、太陽を遮るその能力の範囲から抜け出せるかもしれない。

 

 それに、車の鍵はまだ挿さったままだ。

 彼には運転免許がある。

 車まで辿り着ければ、この一帯からより早く離脱できる。

 

 ただし、遮断イヤホンは石川剛に返してしまった。

 つまり、これから先の道中では、悪霊の脅かしにいつでも直面する覚悟をしなければならない。

 

『だが、出ていく前に、せめて石川さんを探したほうがいい』

 石川剛が自分にしてくれた無私の助けを思うと、久世透はこのまま一人で逃げ出す気にはなれなかった。

 

 少なくとも、本殿の中をもう一度しっかり探すべきだ。

 

 ただし、急がなければならない!

 そして、できる限り声は出さない!

 

 濃密な闇が周囲を包み込んでいる。

 三メートル先のものすら見えない。

 

 久世透はゆっくりとしゃがみ込んだ。

 右手の中指を曲げ、床を軽く叩く。

 今、思いついた方法だった。

 これなら悪霊に応えたことにはならない。

 それでいて、石川剛の注意を引くことはできるはずだ。

 

 こん、こん、こん――

 

 本殿の床は、すべて木でできていた。

 指で叩くと、空洞を打つような音が響き、死んだような暗闇の中で、やけにはっきりと聞こえた。

 

 こん、こん――

 

 その直後。

 周囲の闇の中から、同じような叩く音が返ってきた。

 まるで、彼が叩き終えた直後に、誰かが応答したかのように。

 

 久世透の心臓が跳ねた。

 石川さんか。

 だが、確信は持てない。

 彼はもう一度、二回だけ床を叩いた。

 

 こん、こん――

 こん――こん――

 

 返ってきた音は小さかった。

 特に二回目の音は、これほど静かな場所にもかかわらず、判別しづらいほどだった。

 

 透はさらに二度試した。

 しかし、どうしても音の出どころを特定できない。

 

 久世透は勇気を振り絞り、中央の木製の小祠の周りを二周した。

 それでも何も見つからない。

 ただ、こん、こん、という反響だけが、絶えず耳に届いていた。

 

『反響か?』

 透は顔を上げ、スマートフォンのライトを天井へ向けた。

 

 だが光は弱すぎた。

 天井は高く、ライトは上まで届かない。

 見えるのは、ただ深い闇だけだった。

 

『反響のはずだ』

 そうでなければ、これだけ音を立てているのに、石川剛が気づかないはずがない。

 それに、あの音は規則的だった。

 毎回、彼が床を叩いたあとにだけ響いている。

 

 透はさらに小祠の周囲を二周した。

 だが、それでも音源は分からなかった。

 その頃には、冷や汗がシャツに染み込み、心臓は胸の内側を激しく叩いていた。

 

『これ以上探していたら、人を見つける前に、俺のほうが先に恐怖でやられる。だめだ。いったん外へ出て、救援を呼んでから戻るしかない』

 

 久世透は、捜索を諦めた。

 記憶を頼りに、暗闇の中を手探りで本殿の入口へ向かう。

 

 だが、彼がまさに扉を押して出ようとした、その瞬間だった。

 背後、本殿の反対側から、木板を叩く音が突然響いた。

 

 こん!!――

 

 扉にかけた久世透の手が、ぴたりと固まった。

 同時に、スマートフォンを素早く背後へ向ける。

 

 今の音は、絶対に自分が出したものではない。

 ましてや、反響であるはずもない!

 

『石川さんか?』

 

 引き返すべきかどうか、透が迷った、そのとき。

 床を叩く音が、再び響いた。

 

 こん!!こん!!

 

 今度は、より近かった。

 より鮮明で、より切迫していた。

 まるで闇の向こう側で、誰かが彼の返事を急かしているかのようだった。

 

 こんこん!こんこん!こんこん!

 

 悪夢のような打音が、途切れることなく続く。

 その間隔は、少しずつ短くなっていく。

 そして、音と透との距離も、凄まじい速さで縮まっていた。

 

 久世透は汗まみれの顔で扉のそばに身を寄せた。

 片手で取っ手を強く握りしめる。

 もう片方の手にはスマートフォンを掲げ、音が迫ってくる方向へ向けていた。

 彼は、その闇を食い入るように見つめる。

 

 こんこんこん!!こん!!!

 

 さらに近い。

 相手はもう小祠を越え、こちらへ向かって猛然と近づいているはずだった!

 

 久世透は目を細めた。

 その一瞬、目の前の闇の中で、何かがものすごい速さでこちらへ迫ってくるのが見えた気がした。

 

 そして。

 すぐ近くまで迫っていたはずの激しい打音が、唐突に消えた。

 まるで、叩いていた何者かがスマートフォンの光を恐れ、光の縁で急停止したかのようだった。

 

『どうして止まった?』

 久世透は緊張で周囲を見回した。

 心臓が喉元までせり上がっている。

 身体の半分は、すでに戸口の外へ出ていた。

 何か少しでも異変があれば、迷わず外へ飛び出すつもりだった。

 

 こん!!!!!

 

 凄まじい打音が、突然炸裂した。

 だが今度は、正面からではなかった。

 その音は、彼の頭上、真上から響いた。

 

『走れ!』

 

 音が響いた瞬間、久世透は上を見なかった。

 振り返ることもせず、そのまま外へ飛び出した。

 

 彼はホラー映画を何本も見ている。

 その中で幽霊に殺される登場人物の多くが、好奇心に負けたせいで死んでいることも、よく知っていた。

 

 今の音を、石川剛が出したはずがない!!

 あの体格の人間が、どうやって天井に張りつけるというのか。

 考えられる可能性は一つだけ。

 あれは、悪霊が出した音だ!!!

 

 久世透は狂ったように本殿を飛び出し、記憶を頼りに神門へ向かって走った。

 

 走りながらも、背後の気配には注意を向けている。

 しかし、自分の荒い息と足音以外、追ってくる音は聞こえなかった。

 

『あれ?本殿の中より、周りが少し明るい気がする』

 走りながら、透はその変化に敏感に気づいた。

 さっきまでは、ライトを使っても三メートル先までしか見えなかった。

 だが今は、十数メートル先まで視界が広がっている。

 

『やっぱり、俺の推測は当たっていた。この暗闇は悪霊が作ったものだ。しかも、範囲に限界がある』

 

 足は止めなかった。

 その発見が、彼に逃げ切る意志をさらに強くさせた。

 周囲の光は、先ほどよりもわずかに明るい。

 それでも出口は、まだ闇の中に沈んでいた。

 

『道を間違えていないといい。あの悪霊も、追ってきていないといいが』

 

 そう思いながら走っていると、一つの木の輪郭が、薄闇の中から少しずつ浮かび上がってきた。

 

『あの桜だ。出口はこの先にある』

 久世透の気力が一気に戻った。

 

 しかし、桜の木を回り込んだ瞬間、彼は見てしまった。

 出口の狭い門口の前に、黒々とした人影が立っていた。

 

 その影は腰をかがめ、頭を神門の中へ突っ込むようにして、外の何かを覗いているようだった。

 

 背後の足音に気づいたのだろうか。

 その黒い影が慌てて振り返る。

 しばらくしてから、片腕を上げ、透に向かって手招きをした。

 

 その光景に、久世透の胸の内へ冷たいものが広がった。

 彼は慌てて足を緩め、手電の光をその黒い影へ向ける。

 

 光がその姿をかすめた瞬間、彼には見えた——

 

 灰色にくすんだ作業着。

 泥のこびりついた黒いゴム長靴。

 

『石川さんの服だ!』

 久世透は、その場で大きく息を吐いた。

 自分がずっと探していた石川剛は、いつの間にか一人で門の前まで来ていたらしい。

 

『こっちは危険を冒して、本殿の中で探し回っていたっていうのに。外に出たなら、一声くらいかけてくれよ。本気で心配して損した』

 

 腹の底に溜まった不満をぶつける場所もなく、久世透は相手の白いタオルで乱暴に顔の汗を拭った。

 同時に、張り詰めていた神経も、一気に緩む。

 

 石川剛がいつ門の前まで来たのかは分からない。

 だが、少なくともこれで分かった。

 神社の遮断の力は、まだ完全には消えていない。

 悪霊も、外の陽光を遮っているだけなのだ。

 

「石川さん、探しましたよ」

 久世透は不満をこぼしながら、石川剛の向かいまで歩いていった。

 苛立ちまぎれに相手へ声をかけることはせず、直接腰をかがめて、門の外を覗き込む。

「外はどうなってるんですか?陽の光は見え――」

 

 そこで、彼の言葉は途切れた。

 狭い門枠の中に、四肢をあり得ない形にねじ曲げられた人影が、無理やり押し込まれていた。

 

 折れた骨の先が皮膚を突き破っている。

 傷口からはどろどろとした血が絶えず流れ出し、門枠の下の地面に、大きな血溜まりを作っていた。

 

 久世透がスマートフォンの光で、その脇の下に押し込まれた顔を見た瞬間。

 全身が、骨の芯まで凍りつくような寒気に貫かれた。

 

 それは――

 石川剛だった!!!!!

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