「石――」
久世透は口を開き、石川剛の名を呼ぼうとした。
だが、その瞬間、石川剛の『応えるな』という忠告が、脳裏に鋭く蘇る。
言いかけた言葉を、透は無理やり喉の奥へ押し戻した。
しかし、眠っていたはずの生きた人間が、彼の目の前で、何の前触れもなく消えたのだ。
そんなことが、あり得るのか!?
『悪霊か!?まさか、神社の遮断効果が切れたのか!』
その考えが頭をよぎった瞬間、久世透の額に冷たい汗が浮かんだ。
もし本当にそうなら、ここに留まり続けることも、もはや安全ではない。
だが、石川剛は確かに言っていた。
悪霊が現実世界へ干渉するには、まず曝露者を極度の恐怖状態に追い込まなければならない、と。
確かに怖くはある。
だが、恐慌状態に陥っているほどではない。
改めて耳鳴りの症状にも意識を向けてみた。
先ほどと比べて、特に変化はない。
『おかしい。俺の見間違いか?石川さんは、本当はまだ元の場所にいるんじゃないのか』
久世透は迷った。
人間は、目印のない場所を歩くと、知らず知らずのうちに左へ曲がっていくという。
さっき戻ってきた距離はそれほど長くない。
だが、この暗闇の中なら、いつの間にか方向がずれていてもおかしくはない。
そう考え、彼はポケットからスマートフォンを取り出した。
ゆっくりとカメラ部分を前方へ向ける。
深く息を吸ってから、ライトを点けた。
瞬間、扇状の光が広がり、前方三メートルほどの空間を照らし出す。
それより先は、また闇に呑み込まれていた。
そして彼は、まさに石川剛が寝ていた場所に立っていた。
足元近くの床には、石川剛が外して畳んだ白いタオルも置かれている。
ただし、石川剛本人の姿はなかった。
「……どこへ行ったんだ。生きた人間が、悪霊みたいに神出鬼没に消えるわけないだろ」
悪霊、という言葉を口にした瞬間、久世透は理由もなく身震いした。
一晩の怪異を経験したことで、自分の肝は以前より据わったように感じる。
冷静さも増している。
それでも、もう一度あの悪霊と真正面から向き合えと言われれば、強烈な拒絶感が湧き上がってくる。
『ここまで来た以上、俺の前にある選択肢は二つだけだ』
久世透は数歩後ずさり、背中を小さな祠の側面に寄せた。
スマートフォンの光がもたらすわずかな安心感にすがりながら、頭の中で素早く状況を整理する。
一つ目。
このまま神社に残り、夜明けと対策庁の救助を待つ。
だが、石川剛の消失は不安材料だった。
この神社が本当に悪霊を防げるのか、その信頼も揺らいでいる。
このまま留まり続ければ、自分も同じ目に遭うかもしれない。
二つ目。
ここから逃げる。
危険に見えるが、可能性がないわけではない。
外はすでに午前のはずだ。
もし今の暗闇が、あの悪霊の何らかの力によって作られているものだとしたら、十分に遠くまで逃げれば、太陽を遮るその能力の範囲から抜け出せるかもしれない。
それに、車の鍵はまだ挿さったままだ。
彼には運転免許がある。
車まで辿り着ければ、この一帯からより早く離脱できる。
ただし、遮断イヤホンは石川剛に返してしまった。
つまり、これから先の道中では、悪霊の脅かしにいつでも直面する覚悟をしなければならない。
『だが、出ていく前に、せめて石川さんを探したほうがいい』
石川剛が自分にしてくれた無私の助けを思うと、久世透はこのまま一人で逃げ出す気にはなれなかった。
少なくとも、本殿の中をもう一度しっかり探すべきだ。
ただし、急がなければならない!
そして、できる限り声は出さない!
濃密な闇が周囲を包み込んでいる。
三メートル先のものすら見えない。
久世透はゆっくりとしゃがみ込んだ。
右手の中指を曲げ、床を軽く叩く。
今、思いついた方法だった。
これなら悪霊に応えたことにはならない。
それでいて、石川剛の注意を引くことはできるはずだ。
こん、こん、こん――
本殿の床は、すべて木でできていた。
指で叩くと、空洞を打つような音が響き、死んだような暗闇の中で、やけにはっきりと聞こえた。
こん、こん――
その直後。
周囲の闇の中から、同じような叩く音が返ってきた。
まるで、彼が叩き終えた直後に、誰かが応答したかのように。
久世透の心臓が跳ねた。
石川さんか。
だが、確信は持てない。
彼はもう一度、二回だけ床を叩いた。
こん、こん――
こん――こん――
返ってきた音は小さかった。
特に二回目の音は、これほど静かな場所にもかかわらず、判別しづらいほどだった。
透はさらに二度試した。
しかし、どうしても音の出どころを特定できない。
久世透は勇気を振り絞り、中央の木製の小祠の周りを二周した。
それでも何も見つからない。
ただ、こん、こん、という反響だけが、絶えず耳に届いていた。
『反響か?』
透は顔を上げ、スマートフォンのライトを天井へ向けた。
だが光は弱すぎた。
天井は高く、ライトは上まで届かない。
見えるのは、ただ深い闇だけだった。
『反響のはずだ』
そうでなければ、これだけ音を立てているのに、石川剛が気づかないはずがない。
それに、あの音は規則的だった。
毎回、彼が床を叩いたあとにだけ響いている。
透はさらに小祠の周囲を二周した。
だが、それでも音源は分からなかった。
その頃には、冷や汗がシャツに染み込み、心臓は胸の内側を激しく叩いていた。
『これ以上探していたら、人を見つける前に、俺のほうが先に恐怖でやられる。だめだ。いったん外へ出て、救援を呼んでから戻るしかない』
久世透は、捜索を諦めた。
記憶を頼りに、暗闇の中を手探りで本殿の入口へ向かう。
だが、彼がまさに扉を押して出ようとした、その瞬間だった。
背後、本殿の反対側から、木板を叩く音が突然響いた。
こん!!――
扉にかけた久世透の手が、ぴたりと固まった。
同時に、スマートフォンを素早く背後へ向ける。
今の音は、絶対に自分が出したものではない。
ましてや、反響であるはずもない!
『石川さんか?』
引き返すべきかどうか、透が迷った、そのとき。
床を叩く音が、再び響いた。
こん!!こん!!
今度は、より近かった。
より鮮明で、より切迫していた。
まるで闇の向こう側で、誰かが彼の返事を急かしているかのようだった。
こんこん!こんこん!こんこん!
悪夢のような打音が、途切れることなく続く。
その間隔は、少しずつ短くなっていく。
そして、音と透との距離も、凄まじい速さで縮まっていた。
久世透は汗まみれの顔で扉のそばに身を寄せた。
片手で取っ手を強く握りしめる。
もう片方の手にはスマートフォンを掲げ、音が迫ってくる方向へ向けていた。
彼は、その闇を食い入るように見つめる。
こんこんこん!!こん!!!
さらに近い。
相手はもう小祠を越え、こちらへ向かって猛然と近づいているはずだった!
久世透は目を細めた。
その一瞬、目の前の闇の中で、何かがものすごい速さでこちらへ迫ってくるのが見えた気がした。
そして。
すぐ近くまで迫っていたはずの激しい打音が、唐突に消えた。
まるで、叩いていた何者かがスマートフォンの光を恐れ、光の縁で急停止したかのようだった。
『どうして止まった?』
久世透は緊張で周囲を見回した。
心臓が喉元までせり上がっている。
身体の半分は、すでに戸口の外へ出ていた。
何か少しでも異変があれば、迷わず外へ飛び出すつもりだった。
こん!!!!!
凄まじい打音が、突然炸裂した。
だが今度は、正面からではなかった。
その音は、彼の頭上、真上から響いた。
『走れ!』
音が響いた瞬間、久世透は上を見なかった。
振り返ることもせず、そのまま外へ飛び出した。
彼はホラー映画を何本も見ている。
その中で幽霊に殺される登場人物の多くが、好奇心に負けたせいで死んでいることも、よく知っていた。
今の音を、石川剛が出したはずがない!!
あの体格の人間が、どうやって天井に張りつけるというのか。
考えられる可能性は一つだけ。
あれは、悪霊が出した音だ!!!
久世透は狂ったように本殿を飛び出し、記憶を頼りに神門へ向かって走った。
走りながらも、背後の気配には注意を向けている。
しかし、自分の荒い息と足音以外、追ってくる音は聞こえなかった。
『あれ?本殿の中より、周りが少し明るい気がする』
走りながら、透はその変化に敏感に気づいた。
さっきまでは、ライトを使っても三メートル先までしか見えなかった。
だが今は、十数メートル先まで視界が広がっている。
『やっぱり、俺の推測は当たっていた。この暗闇は悪霊が作ったものだ。しかも、範囲に限界がある』
足は止めなかった。
その発見が、彼に逃げ切る意志をさらに強くさせた。
周囲の光は、先ほどよりもわずかに明るい。
それでも出口は、まだ闇の中に沈んでいた。
『道を間違えていないといい。あの悪霊も、追ってきていないといいが』
そう思いながら走っていると、一つの木の輪郭が、薄闇の中から少しずつ浮かび上がってきた。
『あの桜だ。出口はこの先にある』
久世透の気力が一気に戻った。
しかし、桜の木を回り込んだ瞬間、彼は見てしまった。
出口の狭い門口の前に、黒々とした人影が立っていた。
その影は腰をかがめ、頭を神門の中へ突っ込むようにして、外の何かを覗いているようだった。
背後の足音に気づいたのだろうか。
その黒い影が慌てて振り返る。
しばらくしてから、片腕を上げ、透に向かって手招きをした。
その光景に、久世透の胸の内へ冷たいものが広がった。
彼は慌てて足を緩め、手電の光をその黒い影へ向ける。
光がその姿をかすめた瞬間、彼には見えた——
灰色にくすんだ作業着。
泥のこびりついた黒いゴム長靴。
『石川さんの服だ!』
久世透は、その場で大きく息を吐いた。
自分がずっと探していた石川剛は、いつの間にか一人で門の前まで来ていたらしい。
『こっちは危険を冒して、本殿の中で探し回っていたっていうのに。外に出たなら、一声くらいかけてくれよ。本気で心配して損した』
腹の底に溜まった不満をぶつける場所もなく、久世透は相手の白いタオルで乱暴に顔の汗を拭った。
同時に、張り詰めていた神経も、一気に緩む。
石川剛がいつ門の前まで来たのかは分からない。
だが、少なくともこれで分かった。
神社の遮断の力は、まだ完全には消えていない。
悪霊も、外の陽光を遮っているだけなのだ。
「石川さん、探しましたよ」
久世透は不満をこぼしながら、石川剛の向かいまで歩いていった。
苛立ちまぎれに相手へ声をかけることはせず、直接腰をかがめて、門の外を覗き込む。
「外はどうなってるんですか?陽の光は見え――」
そこで、彼の言葉は途切れた。
狭い門枠の中に、四肢をあり得ない形にねじ曲げられた人影が、無理やり押し込まれていた。
折れた骨の先が皮膚を突き破っている。
傷口からはどろどろとした血が絶えず流れ出し、門枠の下の地面に、大きな血溜まりを作っていた。
久世透がスマートフォンの光で、その脇の下に押し込まれた顔を見た瞬間。
全身が、骨の芯まで凍りつくような寒気に貫かれた。
それは――
石川剛だった!!!!!