タオルが手から滑り落ちた。
二秒ほどの死んだような沈黙のあと、嗄れ、歪みきった悲鳴が闇を貫いた。
「うわああああああああああああ!!!!!!」
久世透は目を見開き、手足を使って必死に後ずさった。
国内でも屈指の名門大学の医学部生である久世透には、近づいて確認する必要すらなかった。
石川剛の首は、生きた人間では絶対に保てない角度にねじ曲がっている。
舌は麺のように口元から垂れ下がっていた。
彼はもう死んでいる。
だが、この死体が石川剛だというのなら。
今、自分のそばに立っている人物は、いったい誰なのか?
混乱の中、スマートフォンの光が、門のそばに立つ黒い影を照らした。
灰色にくすんだ作業着。
首にかけられた白いタオル。
そこまでは同じだった。
ただ、首の上に乗っている頭だけが、祖母の顔に変わっていた!
全身の血が、一瞬で頭へ逆流した。
久世透は、その瞬間、呼吸することすら忘れた。
「ふざけるな!」
極限の恐怖の中で、どこから湧いたのか分からない力が、力の抜けた四肢を満たした。
透は地面から跳ね起きると、先ほど掴み取っていた土の塊を、黒い影へ向かって力いっぱい投げつけた。
しかし、予想していた衝突音は起こらなかった。
土の塊は黒い影の胸にぶつかった瞬間、まるで泥沼に沈み込むように、めり込んでいった。
だが、半分ほど沈み込んだところで、その勢いは明らかに弱まった。
最後には完全に力を失い、黒い影の身体から滑り落ちて、地面に転がった。
『まずい。さっきの恐怖で、俺は臨界点を越えたんだ。悪霊が実体化し始めている!』
絶体絶命の状況にもかかわらず、久世透の頭は異様なほど冴えていた。
『石川さんは、たぶんさっき恐怖に呑まれて殺された。悪霊はその死体を使って、俺に新たな恐怖を与え、もう一度現実世界へ侵入しようとしている。そう考えれば、最初から最後まで、奴の狙いは俺だったんだ』
そこまで考え、久世透は強い悔しさを覚えた。
さっき、もっと冷静でいられたなら。
きちんと周囲を観察していれば。
この罠を見破れたかもしれない。
こんな状況に追い込まれることもなかったかもしれない。
だが、今さら何を言っても遅い。
今は逃げるしかない!
『でも、この開けた境内で、どこに隠れればいい?』
五メートルはある高い塀は、道具もなしに越えられるものではない。
神門は悪霊に塞がれている。
残された選択肢は、本殿を利用して、まず相手との距離を取ることだけだった。
そう判断した透は、胸の内の動揺を押し殺し、本殿へ向かって走り出した。
『頼む……追ってくるな。頼むから、追ってくるな!』
祈るように走りながらも、数歩進んだところで、透は耐えきれず素早く振り返った。
意外なことに、十メートルほど離れた場所で、あの悪霊はまだ同じ場所に立っていた。
彼を追う気配はまるでない。
ただし、その姿はすでに、祖母の顔ではなくなっていた。
祖母の家で初めて見たときと同じ、見知らぬ人間の顔に戻っている。
透が視線を向けた瞬間、悪霊は口角を大きく裂くように吊り上げた。
異様なほど誇張された笑み。
その目は、皿の上の料理を見るように、貪欲で、悪意に満ちていた。
『こいつは、今すぐ俺を殺すつもりじゃない。獲物を弄んでいるんだ』
久世透の背筋が粟立った。
同時に、恐ろしい考えが頭をよぎる。
この存在には知性がある。
『石川さんが悪霊の話をしただけで、あれほど恐怖していた理由が分かった。こんな、ほとんど無敵に近い存在を前にして、絶望しないほうがおかしい』
数十メートルの距離など、あっという間だった。
本殿の木格子戸は開け放たれており、中は相変わらず真っ暗だった。
だが今の透には、その闇がかえってわずかな安心感を与えてくれた。
迷うことなく、久世透は本殿の中へ飛び込んだ。
そしてすぐに、背後の扉を力いっぱい閉める。
だが、長い年月で傷んでいたせいだろう。
門閂はすでに腐り落ちていた。
仕方なく、透はさらに暗闇の奥へ身を隠すしかなかった。
本殿の隅、太い柱に背中をつけてしゃがみ込んだ直後だった。
ぎい、と殿門が軋み、外からゆっくりと押し開けられた。
「透、中にいるの?」
祖母の声だった。
心の準備はしていたはずなのに、久世透は全身の毛が逆立つような寒気を覚えた。
「透、ばあちゃんだよ。もう出てきていいんだよ」
声は、相変わらず入口のあたりで止まっていた。
久世透は動かない。
もちろん、返事もしない。
「透、子供のころ、ばあちゃんが聞かせてあげた昔話、また聞きたいかい?」
「まあまあ、本当に言うことを聞かない子だね。ほら、ばあちゃんのところへおいで」
「早く出ておいで。そうしないと、ばあちゃん怒るよ」
悪霊の言葉は、次から次へと続いた。
語る速度も、少しずつ速くなっていく。
ただ、乱れた足音から分かる。
相手は、ずっと殿門の近くをうろついているだけだった。
「くそ! くそ! くそ!」
祖母の優しい声が、唐突に崩れ落ちた。
男とも女ともつかない、嗄れた低い唸り声へと変わる。
「出てこい! 食ってやる!」
「お前をここまで引きずり出してやる!」
「食ってやる! ……食ってやる! ……食ってやる!」
久世透は暗い隅で身を縮めていた。
恐ろしくてたまらない。
それでも、悪霊のこの不自然な行動に、疑問を抱かずにはいられなかった。
もし悪霊に本当に圧倒的な力があるのなら、直接中へ入ってきて自分を殺せばいい。
わざわざ祖母を演じる必要などない。
なぜ、本殿の入口付近をうろつくだけなのか。
『悪霊は、何かに制限されている。石川さんですら知らなかった制限が、きっとある』
そのとき、入口の声はすでに怒りで我を失っていた。
苛立ちはますます強くなり、最後にはヒステリックな叫びへと変わる。
「必ず殺してやる! 心臓を食ってやる! 血を一滴残らず飲み干してやる! お前は逃げられない!」
扉が激しく叩き閉められた。
そして、すべてが死んだような静寂に戻った。
『悪霊が……このまま去ったのか?』
久世透が、相手が何かの罠を仕掛けているのではないかと疑った、そのときだった。
神社全体を覆っていた闇が、見えない手によって一気に剥ぎ取られたかのように消えた。
ほどなくして、灰白色の光が扉の隙間や壊れた屋根から滲み込んでくる。
さらに数本の朝日が屋根を貫き、本殿の古びた床板の上へ落ちた。
本殿の内部にあるものが、隅々まで見える。
夜が明けた!
『悪霊は本当に離れたんだ!』
久世透は戸惑いながら身を起こし、そばの傷んだ柱に手を触れた。
木のささくれが指に刺さり、鋭い痛みが走る。
そこでようやく、これが幻覚ではないのだと理解した。
『よかった。行ったんだ。俺は、何とか生き残れた』
久世透は長く息を吐いた。
それでも念のため、その場でさらに五分ほど待ってから、ようやく慎重に入口へ向かった。
だが、彼が扉を押し開けるより先に、外から遠くサイレンの音が聞こえてきた。
『ああ、警察が来たのか。異常事案対策庁の人間だろうか?』
石川さんは言っていた。
異常事案対策庁には、悪霊に対抗する力がある、と。
今回、自分が助かったのも、もしかすると彼らのおかげなのかもしれない。
そう考えた瞬間、久世透の張り詰めていた神経は、ようやく完全に緩んだ。
彼は殿門を押し開け、神門のほうへ歩いていく。
朝を迎えた境内には、温かな陽光が満ちていた。
鳥のさえずりが薄霧を抜けて響き、ちちち、と軽やかに鳴っている。
神門のあたりには、紺色の制服を着た人物が立っていた。
白いゴム手袋をはめ、石川剛の遺体の周囲を回りながら、カメラで写真を撮っている。
背後の気配に気づいたのだろう。
その人物はようやく振り返り、近づいてくる久世透へ軽く会釈した。
「こんにちは。長野中央警察署鬼無里駐在所の者です。あなたが久世透さんですね?」
久世透はわずかに目を見開いた。
相手の表情は平静そのものだった。
死体を前にした不快感も、驚きもまるでない。
どうやら、この人物は石川さんを知っているだけでなく、こうした怪異による殺人事件にも、かなり慣れているらしい。
『地元の警察には、もう異常事案対策庁から連絡が入っているはずだ。目の前のこの人も、対策庁が駐在所に置いている協力者なのかもしれない』
「はい。俺が久世透です」
久世透は顔を少し横へ向けた。
視界の端で、無意識のうちに遺体のある方向を避けてしまう。
その動きに気づいたのか、警察官は自らその間に立つように位置を変えた。
「石川さんは、いい人でした。ご安心ください。こちらで丁重に弔います」
警察官はそこで少し間を置き、携帯していた手帳を取り出した。
「あなたは現場の当事者ですね。いくつか事情を伺う必要があります。少しこちらへ来ていただけますか。確認したいことがあります」
「分かりました」
久世透はうなずき、相手のほうへ歩いていった。
だが、桜の木のそばを通り過ぎた瞬間。
理由の分からない動悸が、突然胸を打った。
『何かを見落としている気がする』
三歩ほど先にいる警察官を見て、久世透は慌てて歩みを緩めた。
耳にはサイレンの音が鳴り続けている。
赤い警告灯の光が、石壁越しに枝葉を何度も照らしていた。
だが、どうしても何かがおかしい。
待て!
警察車両!
もし自分の記憶が正しいなら、この神社は山の上にあったはずだ!!
警察車両は、どうやってここまで上がってきた?
しかも、さっきからサイレンの音は、まったく同じ間隔で繰り返されている。
近づいてくるわけでもない。
遠ざかっていくわけでもない。
まるで、同じ音声が延々と再生されているだけのようだった。
何より、目の前のこの警察官は、どうやって中に入ってきたのか。
石川剛の遺体は、今も門枠にぎっしりと詰まっているはずなのに!!
「申し訳ありません。少々聞きづらいことかもしれませんが、確認させてください。昨夜、あなたは石川さんとずっと一緒にいましたか?」
「はい」
警察官はうつむき、手帳に何かを書き込んでいる。
だが、久世透の背中にはすでに冷たい汗が流れていた。
『この警察官は、悪霊が化けている! でも、なぜこんなことをする? どうして直接俺に襲いかかってこない?』
「その間、石川さんに何か異常な様子はありましたか?」
「石川さんに、特に変わった様子はありませんでした」
口では答えながら、久世透は気づかれないように、少しずつ後ろへ足をずらしていく。
「おい。さっき、もう少し近づけと言ったはずだが。どうしてまだそんなに離れている?」
目の前の警察官は、ペンを止めた。
顔はまだ下を向いたままだ。
だが、その声だけが、急に低く沈んだ。
「はい。今、そちらへ行きます」
そう言いながら、透はさらに一歩後ろへ下がった。
ボールペンが、ぱたん、と地面に落ちた。
警察官が勢いよく顔を上げた。
同時に一歩踏み込み、両手で透の肩を激しく掴む。
「俺は質問してるんだ! ちゃんと俺の目を見て答えろ――!」
相手の動きは、決して速くはなかった。
だが、距離が近すぎた。
次の瞬間、久世透の両肩は強く掴まれていた。
その力は凄まじく、まるで鉄の万力に締め上げられているようだった。
反射的にもがいた。
だが、振りほどけない。
思わず顔を上げた瞬間。
相手の両目の奥に、二つの赤い光が灯った。
その瞬間、これまでのすべての違和感が、久世透の脳裏で一本の線につながった。
『そういうことか! こいつは俺を殺したくないんじゃない。俺に、まず自分の目を見せなければならなかったんだ!』