——俺の意識は、確かに沈んでいった…はずだった。
自分という存在が、世界から段々と切り離されていく感覚はあった。
だがそれと同時に、今度は意識がじわじわと浮上していく感覚を覚え始める。
しばらくして、どこか落ち着く自然の音が耳に入ってきた。
さらさらと風に吹かれ、草花が揺れる音。
虫や小鳥たちが鳴きしきる声。
ここが、天国というものなのだろうか……。
実際、生前に死後の世界について思いを巡らせたことはよくあったし、どんなものなのか興味はあった。
俺は好奇心から、ゆっくりと目を開けた。
——目の前に広がる世界は、俺が想像していたものとはまるで違っていた。
天国っていうのは、もっとこう、雲の上にあって天使たちが飛んでいて……とか、そういうものじゃないのか?
確かにのどかで良さげな風景だが、こんなの現世でも田舎に行けば見られる。
だけど、そんなことがどうでもよくなるくらい、世界が綺麗に見えた。天国では、受験勉強のせいでボロボロに失った視力が戻るのだろうか。
俺は久々に、こんなにも透き通っていて青々とした空を見た。天国ってのは、思ったより素晴らしい場所なのかもしれない。
一方で、俺はどこか奇妙な違和感を覚えていた。
何かがいつもと違うような……なんとも釈然としない感覚だった。
——その違和感の正体は、すぐに解明されることになる。
とりあえず立ち上がって、この「天国らしき世界」を探索しようとした。
だけど、立てない。
正確には、立つための筋肉というか、体幹そのものが存在しないような……そんな悍ましい感覚だ。
俺はハッとして、自分の手元に目をやった。
俺の身体は、明らかに小さくなっていた。特に手は顕著だった。
今まで骨の輪郭がくっきりと見えるほど細く、ペンだこまみれだった手が、今ではマシュマロのように柔らかく、そして小さかった。
俺はここに至って、ようやく気づいた。
ここは天国なんかじゃない。
俺はいわゆる、「転生」というやつをしてしまったのだ——
できれば認めたくなかった。だけど、そう結論付けざるを得ない要因が多すぎる。
あぁ、クソ……。俺はまた、あの人生という名の終わらない苦行を強いられなければならないのか。
俺の頭の中で、その最悪な事実が嫌というほど反芻されていた。
しかし、そんな絶望感の裏腹に、ふと単純な疑問が頭をよぎった。
百歩譲って転生したとして、何故、親が近くにいないんだ?
普通、赤ん坊が生まれたら、母親や医者に囲まれて「生まれてきてくれてありがとう」的な祝福ムードに溢れているはずだ。
だけど、見ての通り、ここには無数に広がる草花が織りなす平原が続いているだけ。
俺は、大方の察しがついた。
いや、本当はこんなこと、あって欲しくないのだが。
どうやら俺は、生まれ落ちた瞬間から「捨て子」に転生してしまったらしい。
先ほどよりも、さらに強い絶望感が胸を締め付ける。
生まれたそばから人生ハードモードかよ……。
そんなことを考えたところで、この未成熟すぎる身体ではどうすることもできない。ただ頭の中に真っ白な空間が広がっていくかのように、俺は呆然とするしかなかった。
——あれから、どれくらいの時間が経っただろうか。
草花を燦々と照らしていた陽はすっかり暮れ、辺りは暗黒に包まれようとしていた。
身体を動かすこともままならない中、なんとか道が整備されているところまで這っていった。なのに、人っ子一人通りやしない。一体どれほどの秘境に放り出されてしまったのだろう。
俺はおそらく、このまま誰にも気づかれずに飢え死にする。
事実、俺の小さな身体は空腹でとっくに限界を迎えていた。
——そんな死へのカウントダウンを意識していた、その時だった。
遠くの方から、一頭の馬が走ってくるのが見えた。
その背には、茶髪の筋骨隆々の男と、金髪の美しい女性が乗っている。
これは空腹が見せる幻覚なのかもしれない、という考えもよぎった。だけど、今の俺にとってそんな疑いはどうでもいいことだった。
俺は最後の力を振り絞って道の真ん中まで這い、こちらに向かってくる馬を、必死に目で追った。
「―――……、――……!!」
やがて、俺の目の前で馬が止まった。驚いた様子の二人が、慌ててこちらに向かって走ってくる。
生憎、彼らが何と言っているかは理解できなかった。英語でもない。おそらくヨーロッパ圏の、どこか知らない国の言語なのだろう。
「――――……、――……」
「――……、――……」
何を言っているかは分からないが、表情を見るに、この見ず知らずの赤ん坊をどうするかについて話し合っているようだった。
少しの間があった後、二人はとても優しい顔つきで俺に近づき、そっと抱き上げて馬の上に乗せてくれた。
「――……、――……」
相変わらず、言葉の意味はさっぱり分からない。
だけど、彼らが下心のない、純粋な親切心だけで動いていることだけは、言葉がなくとも俺の心に痛いほど伝わってきた。
前世の親にあっさりと見捨てられ、この世界でも草原に放り出されていた俺を、この人たちは無条件で拾い上げてくれたのだ。
その温もりを実感した瞬間、俺の心は「助かった」という強烈な安堵感で満たされた。
と同時に、一気に全身へ疲労が押し寄せ、身体が鉛のように重くなる。
——本当に、怒涛の1日だった。
誰も信じないと決めたばかりなのに、皮肉にも、見ず知らずの他人の優しさに救われてしまった。
だけど……この温かさだけは、どうしても拒めそうにない。
俺は、胸の奥に灯ったかすかな安堵と、この世界で初めて触れた人間の温もりを噛み締めながら、優しく揺れる馬の上で、深い眠りについた。