第1話 風車はまだ回る
最初に気づいたのは、足りない音だった。
三号風車の根元、防塵シートを張った寝床で、あたしは夜明け前の二時間だけ眠る。十七になって増えた仕事の一つが、この当番だった。旧風車前哨基地では、灌漑ポンプの唸りが子守唄になる。風と、発電機の息継ぎと、砂がシートを叩く音。その下で、低い唸りが続いているはずだった。
それが、消えていた。
静けさのほうがうるさくて、目が覚めた。
寝袋を出ると、三月の冷えが肌着を通った。ヘッドランプを額に回し、工具ロールを掴む。手袋は、いつものように左からはめた。
日の出までにポンプを戻す。水が回らないまま朝の熱が来れば、試験区画の株は端の列から枯れる。ソウルが企業と渡り合って手に入れた、乾いた土地でも育つはずの苗だ。うちの台所がかかっている。
外に出ると、風車はまだ回っていた。三号機の羽根が、星の残る空をゆっくり掻いている。回っているのに水が止まるなら、悪いのは風じゃない。
農場の制御器は、小屋の外壁に据えた古い企業品だ。画面は角が割れて、割れたところだけ黒く欠けている。残った面に、赤い字が並んでいた。
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PUMP 03: PRESSURE LOSS
FAULT
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その下、隅のほうに、もっと小さい字。
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OFFLINE GRACE: 058 DAYS
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五十八日。先週は六十を超えていた。何の猶予かは、まだ調べていない。減り続けているが、ポンプは昨日まで動いていた。今は圧の抜けた箇所を探す。表示を消し、ポンプ小屋へ歩いた。
小屋の中は乾いた土とオイルの匂いがして、奥には焼けたパッキンの臭いが混じっていた。加圧配管に耳を当てる。空っぽの音。吸い込み口が詰まり、空回りしたポンプのどこかで圧が抜けているらしい。
元栓を閉じ、バイパスを開ける。あとは圧抜きだ。
圧抜きのハンドルを四分の一まで回したところで、リリーフ弁が破裂した。
身体が先に止まった。膝が落ちて、背中が勝手に配管の陰を探した。音源。退路。手元。
ポンプ小屋に銃はない。分かっている。それでも、去年からこうだ。短くて硬い音がすると、銃声に聞こえて身体が縮む。
ミッチに教わった順番を、口の中で繰り返した。まず見る。それから手を入れる。最後に、回す。
見る。飛んだのはリリーフ弁の頭だった。破面に灰色の三日月がある。古い金属疲労だ。破片は床と、あたしの膝の横に一つずつ。誰も撃っていない。撃たれてもいない。三週間前から買えずにいた弁が、とうとう飛んだ。
手を入れる。予備はない。工具ロールから、洗って取っておいた菓子の包装フィルムと、ホースバンドを二本出した。箔の面を三つ折りにして弁座へ当て、バンドで締める。手動弁で圧の上限を下げた。朝の一回りだけ、保ってくれればいい。
吸い込みのカバーを開けると、ポンプの羽根に砂が団子になって噛んでいた。指で掻き出し、羽根を一枚ずつ確かめる。三枚目の小さな欠けは、前からあるやつだ。
回す。呼び水を入れて元栓を戻すと、ポンプは二度咳をして、低い唸りに戻った。配管の先へ水の音が走っていった。
小屋の外で、バケツが土に置かれる音がした。エミリーが、端の列に手で水を運んでいたらしい。戸口から覗いた顔が、配管の音を聞いて笑った。
「戻った?」
「仮だけど」
「上等」
床の破片を拾い、予備ボルトの箱を開けた。一本ずつ数える。六本。全部ある。
手の震えは、数え終わる頃に来た。指先から手首へ、遅れて上ってくる。耳の奥で細い音が鳴る。毎度のことだ。あたしは震えが収まるのを待ちながら工具を巻き直して、小屋の戸を開けた。
東の空が、砂の色から薄い橙に変わり始めていた。風車の影が、畑の上に長く倒れて、ゆっくり回っていた。
端の列にも水が届き始めていた。エミリーはバケツを置き、濡れていく土をしゃがんで見ていた。
工具ロールに挟んだリストの「リリーフ弁、純正」を、炭で太くなぞった。今度の交易では、これを先に買う。
*
朝食は共同鍋だった。バッカーズを離れてからは、アルデカルドスの鍋を囲んでいる。
豆と、細かく裂いた保存肉。鍋の底で焦げ目のついた平焼きが、人数分より二枚多く積んである。多い分は、夜通し働いた者の取り分になる決まりだ。今朝はあたしと、水を運んだエミリーの分。
エミリーが当番で、あたしの器には豆が多めに入った。
「ポンプ、あれで大丈夫?」
「朝の分はね。弁の予備がいる」
「それでも水は来てる。うちの列、今朝は半分諦めてたのに」
あたしは器を受け取って、ポケットから小瓶を出した。親指くらいの瓶で、ラベルには炎の絵が六つ並んでいる。裏の成分表には、発音できないくらい長い香料の名前が三行。先月の交易で、自分の取り分から買った都市製のホットソースだ。
一滴だけ、豆の上に落とす。
一口で、むせた。
「毎回むせてるよね」
「毎回うまいんだよ」
目の縁に涙を溜めたまま言い返すと、エミリーは声を上げて笑った。豆を飲み込んだあとも、舌に辛さが残っている。瓶の口を拭いて蓋を締め、平焼きで豆の汁を掬った。こっちにまで辛さが染みていて、うまい。
ミッチのリトル・ミュールが近づいてきた。いつものエンジン音を聞くと、肩の力が抜けた。車は砂の上で止まった。
ミッチは荷台から水の缶を二つ下ろして、それからあたしの隣に腰を下ろした。左腕の義手が、朝の光で鈍く光った。
「ポンプの報告、あとでいい」
「リリーフ弁が金属疲労で——」
「あとでいい」ミッチは平焼きを一枚、あたしの器の縁に載せた。「先に食え。報告は皿が空いてからだ」
あたしは口を閉じ、載せられた平焼きを千切った。焦げた底に豆の汁を吸わせると、ちょうどよくなる。胃が温まってきて、一口が大きくなった。
皿が空いてから、仮補修のことを話した。圧の上限を下げたので、日中の送水は二割落ちる。ミッチは義手の指で膝を叩きながら聞いた。右手には、湯気の立つカップを持っていた。
「明後日、交易に出る」聞き終わって、ミッチは言った。「リストに弁を足しとけ。ハーネスの端子もだ。それと」
「それと?」
「よく朝までに直した」
それだけ言って、ミッチは発電機のほうへ歩いていった。
器を洗い場へ持っていき、砂で擦った。「よく朝までに直した」が、まだ耳に残っていた。もう汚れの落ちた底をまた擦り、気づいて手を止めた。少ない水で砂を流す。
洗い場から戻りながら、交易の勘定をした。売り物が全部捌けて、弁と端子を買ったら、いくら残るか。ラジオには、もう少し高い値をつけてもいいかもしれない。
*
食後、サルベージ小屋に寄るのは日課だ。
小屋の奥、防塵シートの下に、ロージーのナザレがいる。
シートを腰の高さまでめくる。ARCH ナザレ。舗装路を速く走るための高級バイクを、ロージーは半壊した状態で安く引き取った。足回りを長く組み直し、荒地用のタイヤとアンダーガード、補助タンクを付けた。駆動系も低速向けに変えてある。
荷掛けの架台と、水缶一つ用のサイドラックは手作りだ。溶接の玉が不揃いに並んでいる。陽に褪せた外装は継ぎ当てだらけで、こいつはもう一年、砂の上を走っていない。
見るたび、頭の中で同じ一覧を読み上げる。
フレームの歪みは、治具を組まなければ戻せない。フロントフォークは曲がり、車体の傾きを読むIMUは全損している。半分焼けたハーネスには、被覆の縮れが残っていた。燃料系も汚れている。
純正の車両制御器は、ロージーが引き取った時から焼けて欠けていた。代わりに載せた簡素な制御器には、喋るAIなど入っていない。
それから、右のグリップ。いつも少しだけ緩い。締めても、次に見る時にはまた緩んでいる。ロージーが生きていた頃からそうだった。本人は「こいつの癖」と呼んで、直さなかった。
ロージーは、あたしに初めて工具を貸してくれた人だ。十三のあたしにトルクレンチを渡して、口癖を一つ付けた。壊したら直せ。直したら返せ。レンチは返した。ロージーは、返ってこなかった。
ロージーには、あたしも知っている姉のノアがいるのに、ナザレを直す話を、ノア本人とはまだ一度もしていない。
部品の値段を書いた紙を開く。油染みで端が透けていた。今日も、買える物は増えていない。
直ったら、風車の外周を一人で回りたい。点検の遅い班を追い越し、交易の日にはバンの後ろを走る。毎月の売り物を直す時も、頭に浮かぶのは、このバイクの部品代だった。
「……弁が先。あんたは、その次」
シートを戻した時、外で砂を踏む音がした。
タイヤが砂を踏む音。その下に、聞いたことのない低い駆動音が重なっていた。音は基地のフェンスの手前まで来て、止まった。
小屋を出る。朝の逆光の中に、白い大型セダンが停まっていた。
都市の車だ。左前のタイヤだけ摩耗が偏り、車高も左前が沈んでいる。前バンパーの測距器には、カバーに細かい亀裂があった。砂を被ったドアには四角い削り跡が残っていた。企業のロゴを消したらしい。
運転席には、誰もいなかった。
あたしは三歩の距離で止まった。手はまだ、工具ロールの端を掴んでいた。
外部スピーカーが、砂を払うような小さいノイズの後で喋った。
『おはようございます。ここは、修理を行う場所だと伺いました』
丁寧で、平らで、少し古い言い回しの声だった。都市の広告の声とも、キャンプの無線の声とも違う。
「……物によるけど」
『左前サスペンションと、前方測距器に不調があります。修理者は、あなたですか』
「あたしは、その一人」
車はしばらく黙った。あたしは、空の運転席をもう一度見た。
『では、作業の前に、確認したいことがあります』
「どうぞ」
『私を修理することと、私を所有することは、同じ意味ですか?』