スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
第1話 風車はまだ回る
最初に気づいたのは、足りない音だった。
三号風車の根元、防塵シートを張った寝床で、あたしは夜明け前の二時間だけ眠る。十七になってから、任された朝仕事は増えた。夜明け前の当番も、その一つだ。旧風車前哨基地の当番の眠りはそういうふうにできていて、灌漑ポンプの低い唸りが、そのあいだの子守唄になる。風の音と、発電機の息継ぎと、砂がシートを叩く細かい音。その下で、唸りはずっと続いているはずのものだ。
それが、消えていた。
静けさのほうがうるさくて、目が覚めた。
寝袋の外は三月の冷えで、吐いた息が白く見えた。ヘッドランプを額に回す。工具ロールを掴む。手袋は左から先にはめる。誰に教わったのでもない、ただの癖だ。癖は考えるより速い。考えるのは、歩きながらでいい。
仕事は決まっている。日の出までにポンプを戻す。水が回らないまま朝の熱が来ると、試験区画の株は端の列から落ちていく。あの株は、ソウルが企業と渡り合ってまで欲しがった、乾いた土地でも育つはずの苗だ。枯らすのは惜しい。惜しいという言葉で足りないくらい、うちの台所は苗にかかっている。
外に出ると、風車はまだ回っていた。三号機の羽根が、星の残る空をゆっくり掻いている。回っているのに水が止まるなら、悪いのは風じゃない。
農場の制御器は、小屋の外壁に据えた古い企業品だ。画面は角が割れて、割れたところだけ黒く欠けている。残った面に、赤い字が並んでいた。
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PUMP 03: PRESSURE LOSS
FAULT
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その下、隅のほうに、もっと小さい字。
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OFFLINE GRACE: 058 DAYS
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五十八日。先週見た時は六十を超えていた。意味は誰も知らない。減るだけ減って、何も起きない数字だ。今すぐ壊れる部品じゃない。あたしは表示を消して、ポンプ小屋へ歩いた。壊れる部品の相手を先にするのが、修理屋の朝の順番だ。
小屋の中は、乾いた土とオイルの匂いがした。その奥に、焼けたパッキンの細い匂いが一筋混じっている。鼻が先に嫌がった。あたしは加圧配管に耳を当てた。空っぽの音。吸い込み側で何かが詰まって、ポンプが空回りして、どこかで圧が抜けている。
手順は頭より先に手が知っている。元栓。バイパス。圧抜き。
圧抜きのハンドルを四分の一まで回したところで、リリーフ弁が破裂した。
破裂音。
身体が先に止まった。膝が落ちて、背中が勝手に配管の陰を探した。音源。退路。手元。
ポンプ小屋に銃はない。分かっている。分かっていることと、身体が信じることは、別の棚に入っている。あたしの身体は去年から、短くて硬い音をぜんぶ同じ棚に放り込む。
口の中で、順番、と言った。ミッチに仕込まれた順番だ。名前なんかない。まず見る。それから手を入れる。最後に、回す。
見る。飛んだのはリリーフ弁の頭で、破面は古い金属疲労の色をしていた。銀色の粒の中に、疲れた灰色が三日月の形で残っている。破片は二つ。床に一つ、あたしの膝の横に一つ。誰も撃っていない。撃たれてもいない。ただの弁だ。三週間前から、リストに書いてあったのに買えていない、ただの弁。
手を入れる。予備は、ない。代わりになるものを頭の棚から探す。洗って取ってある菓子の包装フィルム。内側が奇麗な箔のやつで、畳めばパッキンの座に噛ませられる。ホースバンドが二本。工具ロールの底にはいつも入れてある。フィルムを三つ折りにして弁座に当て、バンドで締めて、圧の上限は手動弁で下げた。仮の仮だ。それでも朝の一回りは保つ。
回す。吸い込みのカバーを開けると、インペラの羽根に砂が団子になって噛んでいた。指で掻き出して、ついでに羽根の欠けを数える。三枚目に小さいのが一つ。前からあるやつだ。呼び水を入れて、元栓を戻す。ポンプは二度咳をして、それから低い唸りに戻った。配管の先で、水の走る音が細く続いた。
小屋の外で、バケツが土に置かれる音がした。エミリーが、端の列に手で水を運んでいたらしい。戸口から覗いた顔が、配管の音を聞いて笑った。
「戻った?」
「仮だけど」
「上等」
あたしは床の破片を拾って、予備ボルトの箱を数えた。六本。六本ある。数は合っている。
手の震えは、数え終わる頃に来た。指先から手首へ、遅れて上ってくる。耳の奥で細い音が鳴る。毎度のことだ。あたしは震えの分だけゆっくり工具を巻き直して、小屋の戸を開けた。
東の空が、砂の色から薄い橙に変わり始めていた。風車の影が、畑の上に長く倒れて、ゆっくり回っていた。
試験区画では、端の列の根元に、水が細い筋で届き始めていた。エミリーのバケツは、途中で用済みになった。株は枯れなかった。今朝のところは。
あたしは工具ロールの内側に挟んだ紙のリストへ、炭で一行、太く書き直した。リリーフ弁、純正。三週間前から細い字で書いてあるやつの、上から。字を太くしても弁は届かないけれど、書いた分だけ、忘れ物じゃなくて約束になる。
*
朝食は共同鍋だった。
豆と、細かく裂いた保存肉。鍋の底で焦げ目のついた平焼きが、人数分より二枚多く積んである。多い分は、夜通し働いた者の取り分になる決まりだ。今朝はあたしと、水を運んだエミリーの分。
エミリーが当番で、あたしの器には豆が多めに入った。
「ポンプ、直したんだって」
「仮だよ。弁が飛んだ。予備がいる」
「それでも水は来てる。うちの列、今朝は半分諦めてたのに」
あたしは器を受け取って、ポケットから小瓶を出した。親指くらいの瓶で、ラベルには炎の絵が六つ並んでいる。裏の成分表には、発音できないくらい長い香料の名前が三行。先月の交易で、自分の取り分から買った都市製のホットソースだ。
一滴だけ、豆の上に落とす。
一口で、むせた。
「毎回むせてるよね」
「毎回うまいんだよ」
目の縁に涙を溜めたまま言い返すと、エミリーは声を上げて笑った。豆の味の向こうから、人工的な辛さが遅れて追いかけてくる。長い名前の香料は、たぶん半分も本物じゃない。それでいい。本物かどうかと、うまいかどうかは、別の帳簿だ。キャンプの鍋は嫌いじゃない。これはこれで、別の口が欲しがる味というだけだ。
聞き慣れたエンジン音が近づいて、砂の上で止まった。音の癖で分かる。ミッチのリトル・ミュールだ。知らないエンジン音は身体が硬くなるのに、知っている音は逆に、肩の力を一段抜いてくれる。音のほうが、顔より先に届く挨拶になる。
ミッチは荷台から水の缶を二つ下ろして、それからあたしの隣に腰を下ろした。左腕の義手が、朝の光で鈍く光った。
「ポンプの報告、あとでいい」
「リリーフ弁が金属疲労で——」
「あとでいい」ミッチは平焼きを一枚、あたしの器の縁に載せた。「先に食え。報告は皿が空いてからだ」
あたしは口を閉じて、座り直して、食べた。平焼きの焦げた底は香ばしくて、豆の汁を吸わせるとちょうどよくなる。夜通し起きていた胃に、温かいものが重石みたいに落ちて、そこで初めて、自分が空腹だったことを知った。
皿が空いてから、話した。弁の破面のこと。疲労の三日月のこと。フィルムとバンドの仮補修のこと。圧の上限を下げてあるから、日中の送水は二割落ちること。ミッチは義手の指で膝を叩きながら聞いた。考える時の癖だ。生きているほうの手は、湯気の立つカップを持ったまま動かない。
「明後日、交易だ」聞き終わって、ミッチは言った。「リストに弁を足しとけ。ハーネスの端子もだ。それと」
「それと?」
「よく朝までに直した」
それだけ言って、ミッチは発電機のほうへ歩いていった。
あたしは器を洗い場に持っていって、砂で擦って、少ない水で流した。褒められた分の置き場所が分からなくて、器を必要より一回多く擦った。置き場所なんて、覚える必要のあるものだろうか。分からないまま、二回目の水を切った。
前にいたノーマッド一族はバッカーズで、いま同じ鍋を囲むのはアルデカルドスだ。役に立てなくなった時にも、この席が空いているかどうかは、考えないようにしていた。
洗い場から戻る道々、明後日の売り物を頭の中で数えた。直したラジオが二台。ドローンの姿勢基板が三枚。細かいガラクタが山ほど。ぜんぶ捌けて、弁と端子を買って、それでも残りが出たら、その使い道を考える。それが、交易前のいちばんいい時間だ。
*
食後、サルベージ小屋に寄るのは日課だ。
小屋の奥、防塵シートの下に、ロージーのナザレがいる。
シートを腰の高さまでめくる。毎朝、一度だけ。ARCH ナザレ。素性は舗装路を速く走るための、高くて澄ました都市の高級バイクだ。ロージーは半壊したのを安く引き取って、自分の手で砂漠の仕事道具に作り替えた。長く組み直したサスペンション。荒地用のタイヤ。腹に張ったアンダーガード。補助の燃料タンクに、低速へ振り直した駆動系。荷掛けの架台と、水缶一つ用の小さいサイドラックは手作りで、溶接の玉の並びまでロージーの字だ。外装は陽に褪せて、継ぎ当てだらけのまま。ただし、こいつはもう一年、砂の上を走っていない。
見るたび、頭の中で同じ一覧を読み上げる。
フレームは目で分からない程度に歪んでいる。治具を組まなければ戻らない歪みだ。フロントフォークは曲がったまま。姿勢系のIMUは全損——バイクでいえば、耳をなくした状態だ。ハーネスは半分焼けて、焼けた匂いはもう抜けたけれど、被覆の縮れは残っている。燃料系は汚染。純正の車両制御器は、ロージーが引き取った時から焼けて欠けていて、代わりに載っているのは喋りもしない簡素な代替制御器だ。人格なんて上等なものは、最初から積んでいない。
それから、右のグリップ。いつも少しだけ緩い。締めても、次に見る時にはまた緩んでいる。ロージーが生きていた頃からそうだった。本人は「こいつの癖」と呼んで、直さなかった。
ロージーは、あたしに初めて工具を貸してくれた人だ。十三のあたしにトルクレンチを渡して、口癖を一つ付けた。壊したら直せ。直したら返せ。レンチは返した。ロージーは、返ってこなかった。
ロージーには、あたしも知っている姉のノアがいるのに、ナザレを直す話を、ノア本人とはまだ一度もしていない。
直せる当てはない。部品はもっとない。それでも一覧を読み上げるのをやめると、この機体はただの重い金属になる気がして、やめていない。
直ったら、と想像する朝もある。想像の中のあたしは、車列の荷台じゃなくて、自分のエンジンの上にいる。風車の外周を一人で回って、点検の遅い班を追い越して、交易の日には、バンの後ろを自分の足でついていく。誰かの隣の席じゃない場所。それが欲しくて、あたしは毎月、ガラクタを直しては売っている。
「……弁が先。あんたは、その次」
シートを戻した時、外で砂を踏む音がした。
タイヤの音だ。なのに、エンジンの音がない。電動の静かさとも違う、知らない駆動の低さが、その下に敷いてある。音は基地のフェンスの手前まで来て、止まった。
小屋を出る。朝の逆光の中に、白い大型セダンが停まっていた。
見る。都市の車だ。こんな道を走るための足回りじゃない。左前のタイヤだけ摩耗が偏って、車高も左前が沈んでいる。前バンパーの測距器のカバーには、細かい亀裂が走っている。車体は砂を厚く被って、ドアの側面に、何かを削り落とした四角い跡が残っていた。企業のロゴがあった場所の形だ。
運転席には、誰もいなかった。
あたしは三歩の距離で止まった。手はまだ、工具ロールの端を掴んでいた。
外部スピーカーが、砂を払うような小さいノイズの後で喋った。
『おはようございます。ここは、修理を行う場所だと伺いました』
丁寧で、平らで、少し古い言い回しの声だった。都市の広告の声とも、キャンプの無線の声とも違う。
「……物によるけど」
『左前サスペンションと、前方測距器に不調があります。修理者は、あなたですか』
「あたしは、その一人」
車は少しのあいだ黙った。考える機械の沈黙は、詰まった自販機の沈黙に似ている。中で何かが回っているのに、外には音の出ない時間。
『では、作業の前に、確認したいことがあります』
「どうぞ」
『私を修理することと、私を所有することは、同じ意味ですか?』