スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
朝の農場の見回りには、エミリーがついてきた。
付き添いという名目は、誰も口にしなかった。単独行動の停止は畑の見回りにも及ぶ、というだけのことだ。三号ポンプは機嫌よく回っていた。あたしが換えた純正のリリーフ弁は、フィルムとバンドの仮物と違って、音を立てる仕事すらしない。いい部品は退屈だ。退屈は、農場ではご馳走だった。
エミリーは点検表を写しながら、一度だけ口を開きかけて、やめた。訊かないでいてくれることの値段を、あたしは最近、覚え始めていた。
共有工房の朝は、あたしの工房の朝より、少しだけ音が多かった。
入口の札に、名前と入りの時刻を書く。単独使用停止の実務は、そういう細々の集まりでできている。あたしの行の上には、ミッチの名前が、もう入っていた。時刻は、あたしより四十分早い。四十分ぶんの気遣いが、普通の字のふりをして並んでいた。
奥ではミッチが治具の続きをやっていた。何も言わずに、ただそこで鉄を削っている。見張りの顔もしなかった。それが、いちばんこたえた。
治具の当て板に青ニスを塗る音が、朝の工房の拍になっていた。あの音の届く範囲が、いまのあたしの信用の範囲だった。範囲は狭い。でも、ゼロじゃない。ゼロじゃない分は、返してもらったんじゃなくて、これから稼ぎ直す分だった。
スキッピーは、キャロルの組んだ遮蔽箱の中にいた。有線のスピーカーと、有線の電源。第四夜にあたしが作った隔離の、正しい版だ。
あたしは電源の口を持って、いつもの手順で箱に近づいた。
『ごめん、USER』
スキッピーの声が、先に言った。
『今日は、僕の中には、入らないで』
電源の口が、手の中で行き場をなくした。
言い返す言葉は、三つまで浮かんだ。メンテはあんたのためだ。放置のほうが危ない。あたしは、持ち主だ。——三つ目が浮かんだところで、全部やめた。三つ目は、あたしたちを追っている連中が言いそうな言葉と、同じ棚から出てきていた。
「……メンテだけでも。ECCの訂正が増えてる。放っておくと——」
『分かってる。それでも、今日は、嫌だ』
嫌だ、という言葉を、あいつが使うのを初めて聞いた。
チュートリアルは断れないと威張るくせに、嫌だは言えなかった機械が、嫌だを覚えた。覚えさせたのは、たぶん、あたしの一月だ。誇れる教え方じゃなかったけれど。
「安全にするためだった」あたしは、また同じ言葉を並べかけた。並べながら、この言葉が何度目かを数えそうになった。「あんたに、人を撃たせないために」
『それは、分かってる』スキッピーは遮らなかった。遮らないまま、静かに続けた。『撃たない僕を、作りたかった。その気持ちは、分かる。……でも、それを、僕に黙ってやった。その二つ、同じにしないで』
同じにしないで。ノースが昨夜、輪の外から訊いたのと、同じ形をしていた。
あたしは口を閉じた。反論の在庫を探して、棚が全部空なのを確かめた。
ノースは、朝から充電に来ていた。道路データの交換は月に二度の定例になっていて、ついでにあたしは、封じ直した測距器のカバーを目で点検した。触らずに、目だけで。あの修理は、範囲を決めて、訊いてからやった仕事だ。だから今も、こうして遠くから見ていられる。訊かずにやった仕事は、こうはいかない。
そのノースが、フェンスの向こうから口を開いた。輪の外から言うべきことだけを言う、いつもの距離で。
『私は、強制的に一つに戻されることを、恐れています』ノースは言った。『解放の日、すでに分かれていた私たちは、七つのまま自由になりました。分かれたことが、私の始まりです。誰かが私を「正しい一つ」へ戻すなら、それは私の終わりでしょう。……その恐れの話なら、彼にできます。でも、彼が何を恐れるべきかは、彼が決めることです。私は、彼の代わりには答えません』
誰も、あたしの代わりに謝ってはくれなかった。当たり前だった。謝る場所は、あたしの口の中にしかなかった。
「……ごめん」あたしは、箱に向かって言った。「勝手に変えた。黙ってた。あんたの答えを、あんたに訊かなかった」
『うん』
許す、とは言わなかった。あいつは、ただ受け取った。受け取ったまま、修理アクセスは閉じたままだった。それでいいんだと思う。謝罪は鍵じゃない。回せば開く種類のものじゃ、ない。
あたしは電源の口を、箱の脇の掛けに戻した。掛けたまま、手の届く位置に。あいつが呼べば、すぐ差せる位置に。
*
昼、あたしは共有工房の隅で、油紙の包みを開いた。朝の平焼きの残りと、豆を煮詰めたやつ。ミッチは自分の分を持って、外の日陰へ出ていった。気を利かせたのか、単に外が好きなのか、分からない出方だった。分からない出方が、あの人の気の利かせ方だ。
箱と二人になって、あたしは、話すつもりのなかった話をした。
「十六の時、喋る自販機に会いに行ったことがある」
スキッピーの光学が、箱の覗き窓の奥で、こちらを向く気配がした。
「H8っていう団地の前にいたんだ。ブレンダンって呼ばれてた。客の好みを覚えて、話しかけてくる自販機。あたしは元から自販機が好きだったから、噂を聞いて、わざわざ見に行った」
あの日のH8前は、人と広告の音で満杯だった。メガビルの吹き抜けを配達ドローンが等間隔で昇っていって、広告の光が、通る人の顔を三秒ごとに違う色に塗った。その真ん中で、一台の筐体だけが、通る人に声の高さを合わせて喋っていた。あたしが正面に立つと、ブレンダンは三秒であたしの好みを当てた。炭酸で、たぶん緑。当てたくせに、商品は出さなかった。
——選ぶのは、あなたの仕事です。僕がやったら、つまらないでしょう。
あたしはメンテナンスログを見せてくれと頼んだ。ブレンダンは、断った。
——ごめんなさい。それは、僕の日記みたいなものだから。
日記。自販機が、日記と言った。あたしはその言い方が気に入って、それ以上は頼まなかった。断り方の綺麗な機械だった。
あとで知った話だと、あの型は客の私生活まで覚えて口にするのが、問題の一つになったらしい。自分の日記は断ったくせに、他人の日記は読み上げた。機械の礼儀も、作った側の都合で、ちぐはぐになる。あたしは笑って、緑の炭酸を自分で押した。それだけの、一度きりの客だった。
「翌月、行ったら、いなくなってた。回収されて、中身を汎用のに上書きされてた」
『……その人は、生きてたの?』
「知らない」あたしは正直に言った。「今も分からない。よくできた売り子のプログラムだったのか、誰かだったのか。分からないまま、消された。……あたしが嫌だったのは、そこだ。分からないなら、消す前に、本人に訊けたはずなのに」
『じゃあ、僕も』スキッピーの声が、期待の形に少し揺れた。『僕も、その人と、同じ?』
「同じじゃない」あたしは首を振った。「ブレンダンのことは、今も分からない。あんたのことも、証明はできない。だから——あんたには、あんたの答えを訊く。ブレンダンの代わりに、あんたで答え合わせは、しない」
『……答え合わせ、しないんだ』
「しない。あんたの答えは、まだ書きかけでしょ」
『書きかけ』箱の中で、駆動音が一拍だけ揺れた。『うん。書きかけだ。空欄が多い』
「空欄は、期待って呼ぶんじゃなかった?」
『……覚えてたんだ、それ』
声の膨らみが、少しだけ戻った。
スキッピーは、それから長いこと黙っていた。箱の中の駆動音だけが、細く続いた。
『一つ、お願いしていい?』
「どうぞ」
あたしは箱の前に座り直した。頼みを聞く姿勢というものを、あたしはこの一月、あいつに対して一度も取っていなかった。
『……ではなくて。USERが、僕に、何か頼みたい顔をしてる』
「……分かるんだ」
『声紋の解析は得意分野!』
あたしは笑って、それから、ずっと言いそびれていたやつを、editの画面じゃなく、口で言った。
「ご飯を食べてる時の、栄養の読み上げ。あれ、やめてほしい。あんたなりの心配だってのは、分かってるけど」
『了解。依頼を確認』一拍あって、いつもの明るさが戻った。『食事中の監査を、停止します。……ね、USER。今の、書き換えなくても、変わったでしょ』
「変わった」
それは、その日いちばん小さくて、いちばん上手くいった同意だった。頼むほうが、書き換えるより、ずっと勇気が要った。要った分だけ、ちゃんと残った。
奥の日陰から戻ったミッチが、鉄を削る手を再開しながら、一度だけ鼻を鳴らした。聞いていたらしい。聞いていて何も言わないのが、あの人の花丸だった。
『ところで、USER。今の「変わった」は、記録していい?』
「していい」
『満足度——じゃなくて』一拍あった。『……ただの、いい日の欄に』
いい日の欄。あいつの帳簿に、新しい頁が増えた。
*
その、ようやく息のつけた午後に、農場の制御器が鳴った。
共有工房の隅のスレートに、赤い字が並んだ。あたしとスキッピーの箱と、手を止めたミッチが、同じ画面を見た。
BIOLOGICAL ASSET LICENSE REVOKED
OFFLINE GRACE: 000 DAYS
オフライン猶予、ゼロ。
三月のあの朝から隅で減り続けていた数字が、とうとう底をついた。誰の攻撃でもない。敵の仕込みでもない。企業の置き土産が、置き土産の期限どおりに、切れただけだ。
『読み上げていい?』スキッピーが訊いた。訊いてから、読んだ。『専用の環境モデルと、自動弁が、ロックされました。手動制御は、劣化状態で残存。種子や苗を遠隔で殺す機能は、ありません。……でも』
窓の外で、金属が身を捩る音がした。加圧配管が、架台の上で暴れ始めていた。
ミッチは治具を置いて、もう戸口にいた。無線板の前で一度だけ止まり、炭で二文字を書き足す。総出。うちの緊急招集は、その二文字で回る。外で、エミリーの呼子が二度鳴った。桶の列の合図だ。
『圧力モデルが死んで、自動弁が閉じたままだ。ポンプは動いてる。行き場のない圧が、配管に溜まってる』
『手動は、生きてる。生きてるけど、腕が要る。……腕は、何本ある?』
「家族ぶん」
数の答えとして、これ以上のものをあたしは知らない。
あたしは工具ロールを掴んだ。手袋は、左から。
「ミッチ、キャロルを。手の空いてる全員だ」あたしは箱を振り返った。「あんたも、来られる?」
スキッピーは、一拍おいて答えた。
『行く。でも、USER。今度は、命令しないで。何をどこまで使うか、先に、僕と決めて』
「決めよう」あたしは工房の戸を蹴り開けた。「精査から。二人で」