朝の農場の見回りには、エミリーがついてきた。
単独行動の停止は畑の見回りにも及んでいた。エミリーが点検表を持ち、あたしが弁を調べる。三号ポンプは静かに回っていた。換えた純正のリリーフ弁からも、水漏れはない。
エミリーが点検表に丸を付けた。次の列へ、二人で歩いた。
共有工房の朝は、あたしの工房の朝より、少しだけ音が多かった。
入口の札に名前と時刻を書く。上には、四十分前に来たミッチの名があった。
奥ではミッチが治具の続きをやっていた。「おはよう」と言うと、手を止めずに顎を上げた。
スキッピーは、キャロルの組んだ遮蔽箱の中にいた。有線のスピーカーと、有線の電源。第四夜にあたしが作った隔離の、正しい版だ。
あたしは電源の口を持って、いつもの手順で箱に近づいた。
『ごめん、USER』
スキッピーの声が、先に言った。
『今日は、僕の中には、入らないで』
電源の口が、手の中で行き場をなくした。
持ち主なのに、と言いかけた。口には出さず、手の中のコネクタを見た。
「……メンテだけでも。ECCの訂正が増えてる。放っておくと——」
『分かってる。それでも、今日は、嫌だ』
嫌だ、という言葉を、あいつが使うのを初めて聞いた。
「人を撃たせたくなかったんだ」
『でも、僕には黙ってた』スキッピーは言った。『気づかなかったよ。自分のことなのに』
言い返せなかった。
フェンスの向こうには、充電に来ていたノースがいた。封じ直した測距器のカバーが、朝の光を反射していた。
外部スピーカーから、平らな声がした。
『私も、戻されることを恐れています。解放の日に分かれた七つを、また一つにすることを』ノースは言った。『戻すと言われても、私は、消されるとしか思えません』
あたしはスキッピーの箱へ向き直った。
「……ごめん」あたしは、箱に向かって言った。「勝手に変えた。黙ってた。あんたの答えを、あんたに訊かなかった」
『うん』
修理アクセスの表示は閉じたままだった。
あたしは電源の口を、箱の脇の掛けに戻した。掛けたまま、手の届く位置に。あいつが呼べば、すぐ差せる位置に。
*
昼、あたしは共有工房の隅で、油紙の包みを開いた。朝の平焼きの残りと、豆を煮詰めたやつ。ミッチは自分の分を持って、外の日陰へ出ていった。
箱と二人になって、あたしは、話すつもりのなかった話をした。
「十六の時、喋る自販機に会いに行ったことがある」
スキッピーの光学が、箱の覗き窓の奥で、こちらを向く気配がした。
「H8っていう団地の前にいたんだ。ブレンダンって呼ばれてた。客の好みを覚えて、話しかけてくる自販機。あたしは元から自販機が好きだったから、噂を聞いて、わざわざ見に行った」
あの日のH8前は、人と広告の音で満杯だった。メガビルの吹き抜けを配達ドローンが等間隔で昇っていって、広告の光が、通る人の顔を三秒ごとに違う色に塗った。その真ん中で、一台の筐体だけが、通る人に声の高さを合わせて喋っていた。あたしが正面に立つと、ブレンダンは三秒であたしの好みを当てた。炭酸で、たぶん緑。当てたくせに、商品は出さなかった。
——選ぶのは、あなたの仕事です。僕がやったら、つまらないでしょう。
あたしはメンテナンスログを見せてくれと頼んだ。ブレンダンは、断った。
——ごめんなさい。それは、僕の日記みたいなものだから。
日記。自販機が、日記と言った。あたしはそれ以上頼まず、緑の炭酸を自分で押した。
あとで聞いた話だと、あの型は客の私生活まで覚えて口にするのが、問題になったらしい。あたしが覚えているのは、ログを見せてと頼んだら断られた、その一度きりだ。
「翌月、行ったら、いなくなってた。回収されて、中身を汎用のに上書きされてた」
『……その人は、生きてたの?』
「知らない」あたしは正直に言った。「今も分からない。よくできた売り子のプログラムだったのか、誰かだったのか。分からないまま、消された。……あたしが嫌だったのは、そこだ。分からないなら、消す前に、本人に訊けたはずなのに」
『じゃあ、僕も』スキッピーの声が少し高くなった。『僕も、その人と、同じ?』
「分からない。でも、あんたには訊ける。今こうして、話せるんだから」
『……今の僕に?』
「うん。あんたの答えは、まだ書きかけでしょ」
『書きかけ』箱の中で、駆動音が一拍だけ揺れた。『うん。書きかけだ。空欄が多い』
「空欄は、期待って呼ぶんじゃなかった?」
『……覚えてたんだ、それ』
声の膨らみが、少しだけ戻った。
スキッピーは、それから長いこと黙っていた。箱の中の駆動音だけが、細く続いた。
『一つ、お願いしていい?』
「どうぞ」
あたしは箱の前に座り直した。
『……ではなくて。USERが、僕に、何か頼みたい顔をしてる』
「……分かるんだ」
『声紋の解析は得意分野!』
あたしは笑って、それから、ずっと言いそびれていたやつを、editの画面じゃなく、口で言った。
「ご飯を食べてる時の、栄養の読み上げ。あれ、やめてほしい。あんたなりの心配だってのは、分かってるけど」
『了解。依頼を確認』一拍あって、いつもの明るさが戻った。『食事中の監査を、停止します。……ね、USER。今の、書き換えなくても、変わったでしょ』
「変わった」
頼むだけなのに、こんなに緊張した。あたしは残りの豆を口に運んだ。
ミッチが戻り、また鉄を削り始めた。
『ところで、USER。今の「変わった」は、記録していい?』
「していい」
『満足度——じゃなくて』一拍あった。『……ただの、いい日の欄に』
*
その、ようやく息のつけた午後に、農場の制御器が鳴った。
共有工房の隅のスレートに、赤い字が並んだ。あたしとスキッピーの箱と、手を止めたミッチが、同じ画面を見た。
```
BIOLOGICAL ASSET LICENSE REVOKED
OFFLINE GRACE: 000 DAYS
```
オフライン猶予、ゼロ。
三月から減り続けていた猶予が切れた。画面には、予定されていた停止時刻が出ていた。
『読み上げていい?』スキッピーが訊いた。訊いてから、読んだ。『専用の環境モデルと、自動弁が、ロックされました。手動制御は、劣化状態で残存。種子や苗を遠隔で殺す機能は、ありません。……でも』
窓の外で、金属が身を捩る音がした。加圧配管が、架台の上で暴れ始めていた。
ミッチは治具を置いて、もう戸口にいた。無線板の前で一度だけ止まり、炭で二文字を書き足す。総出。うちの緊急招集は、その二文字で回る。外で、エミリーの呼子が二度鳴った。桶の列の合図だ。
『圧力モデルが死んで、自動弁が閉じたままだ。ポンプは動いてる。行き場のない圧が、配管に溜まってる』
『手動は、生きてる。生きてるけど、腕が要る。……腕は、何本ある?』
「家族ぶん」
あたしは工具ロールを掴んだ。手袋は、左から。
「ミッチ、キャロルを。手の空いてる全員だ」あたしは箱を振り返った。「あんたも、来られる?」
スキッピーは、一拍おいて答えた。
『行く。でも、USER。今度は、命令しないで。何をどこまで使うか、先に、僕と決めて』
「決めよう」あたしは工房の戸を蹴り開けた。「精査から。二人で」