止血材は、箱のいちばん上と決まっていた。
重い物から詰めるのが荷造りの基本だけど、救難箱にはひとつ逆の理屈が混ざる。先に要る物ほど、蓋を開けてすぐの所へ置く。水の缶を底に寝かせ、ヒューズの束とシール材を壁際に立て、携行食で隙間を埋めて、最後に止血材の包みを上へ載せる。この箱を開ける誰かは、たぶん片手しか使えない。
旧風車の影が東へ伸び始める時間だった。あたしとミッチは影の中に折り畳みの台を出して、三つ目の箱を詰めていた。風がずっと吹いていて、幌布を鳴らし、台の上の古い紙の端をめくっては戻した。
水の缶を五本並べたら、ミッチが黙って一本抜いた。
「四本だ。五本入れて底が抜けた箱を見たことがある」
「テープを増やせば持つ」
「開ける奴が、テープを剥がせる手でいるとは限らない」
あたしは缶を一本戻して、代わりに携行食を足した。
シール材は一本ずつ尻を押して、固さを見た。固まりかけたのが二本あった。弾いた分は箱に入れず、工房行きの籠へ移した。捨てるのは、工房で使い切れなかった時でいい。
台の端に、肩掛けの遮蔽箱が置いてあった。キャロルが組んだ有線の箱。中には、古い銃殻に廃品の継ぎを重ねた、あたしの仕事の塊が入っている。箱の布ベルトが西日で温くなっていた。
『USER。三箱目。所要時間、前の箱より二分十秒長い』
そこで切れた。
いつもなら、ここから頼んでない統計が三つ続く。梱包効率の採点と、改善案と、冗談が付く。それがない。あの声が届いた夜から、ずっとこうだ。
受信記録は毎朝見ている。今朝も、あの声からの続きはなかった。
風でめくれる古い紙は、梱包表だった。油の染みごとラミネートしてあって、角の丸い字で品目と数が並んでいる。余白に、三つの言葉が書き足してあった。
精査。整備。遂行。
「これ、パナムの字じゃないんだ」
「スコーピオンの字だ」ミッチはヒューズの束を数え直しながら言った。「軍にいた頃、似たような手順があった。名前は別で、項目は倍あった。現場じゃ回らない。あいつと二人で削って、残ったのが三つだ」
「あたし、パナムの手順だと思ってた」
「あいつも、おれたちから覚えた。一族の手順だ」
ミッチは数え終えた束を箱の壁際に立てた。三つのSは、身体が止まった時に次の一手を選ぶための手順だ。その手順を、作った人間の字で見るのは初めてだった。字は少し右に傾いていて、遂行の「遂」だけ書き直した跡があった。
三つ目の蓋を閉じると、ミッチが型板を当てて、塗料を吹いた。
`SCORPION`
名義だった。ミッチは吹き付けの縁が滲んでいないか、指をかざして確かめた。触らずに。それから箱の角のテープを一度剥がして、貼り直した。皺は最初から入っていなかった。
「一巡りをやる」缶のノズルを拭きながら言った。「日はまだ固まってないが、遠くはない。車列を組んで、あいつが走ってた位置を車一台分だけ空ける。そのまま一マイル走る。走った先の道の脇に、この箱を置いてくる」
「置いてきて、誰が拾うの」
「困った奴なら誰でもいい。名義はあいつだ。あいつの名前で、知らない誰かが血を止めて、水を飲む」
「墓じゃなくて?」
「墓は去年建てた。動かない方はもう済んでる」ミッチは型板を裏返して乾かした。「あいつは動く方が好きだった」
「……あたしも走っていいの」
「決めるのは当日でいい。車列が走り出す、その時でいい」ミッチは四つ目の箱の底板を組みながら、こっちを見ないで続けた。「出ても出なくても、箱はおまえが詰めた箱で出る」
あたしは携行食の束を持ったまま、数を数えるふりをした。それから、数えるのをやめた。
「あたし、葬式に出てない」
「出なかったのは合同の方だ」ミッチの手は止まらなかった。「去年、まとめて何人も送った。あの列におまえはいなかった。スコーピオンの遺言は、その後だ。車ごと、派手に送ってくれって話でな。あの傭兵を誘ったのは、おれだ。おれたちが生きてるのは、あいつのおかげだったからな。頭数の要る儀式じゃない」
「二つ、あったんだ」
「二つあった。おまえが欠けたのは、一つだけだ」
携行食を詰めた。四本。数は合っていた。
「合同の日、あたしは工房にいた」
風が幌布を鳴らした。あたしは缶の向きを揃えた。手を止めると、続きが言えなくなる気がした。
「元バッカーが、アルデカルドスの死んだ人を悼んでいいのか、分からなかった。列に入って、誰かに、なんでお前がいるんだって顔をされるのが怖かった。だから、働いてれば置いてもらえると思った。工房でレギュレータを一個、分解してた。組み上げて、また分解した。夕方までずっと、それだけやってた」
ミッチは何も言わなかった。四つ目の箱の底をテープで留める音がして、風の音に混ざった。
「これ、期限が二週間しかない」あたしは一本抜き、期限の長い物と入れ替えた。
「箱に入れるな」ミッチは抜いた一本をあたしに放った。「今食え。それも在庫の始末のうちだ」
封を切ると、落花生と糖蜜の匂いがした。日なたに置いてあったので温くて、噛むと粉っぽく崩れて、奥歯に張り付いた。甘すぎた。全部食べた。包みは畳んで、屑袋に入れた。
箱が四つ並んだ。名義の白い文字が乾くのを待って、台車に積んだ。仮置きは共有工房の壁際。一巡りの日まで、雨に当てない。台車の車輪が砂利を噛んで、あたしたちは風車の影から出た。
*
共有工房は、屋根の鉄がまだ昼の熱を抱えていた。発電機の振動が床から靴の裏へ上がってくる。救難箱を壁際に降ろすと、奥のスタンドにナザレがいた。
ロージーのバイクだ。陽に褪せた外装。継ぎ当ての跡。タンクの裏に、白ペンの小さい点検印——ロージーの字だ。後輪はもう回る。配線は半分。フレームの左側に、あたしが今週付けたばかりの架台が突き出ている。スキッピーの筐体を据えて、走行系と繋ぐための台だった。
遮蔽箱は、箱ごといつもの棚に置いた。いつもなら、締め付けの数字に口を挟む。今日のトルクの採点が来る。何も来なかった。
入口で砂利が鳴った。
ノア・レイエス。ロージーの姉さんだ。名乗られなくても分かった。指先の少し余る作業手袋を、手首で折り返してゴムで留めていた。手袋の甲に、白糸で `R` の縫い取りがあった。
「それ」ノアは架台を指した。「何のための台」
「スキッピーの筐体を載せる。走行系と繋ぐ……そのための架台」
「降ろして」
声は大きくなかった。工房の振動より少し上にあるだけだった。ノアはナザレの前まで来て、タンク裏の白い点検印を手袋の指で辿りかけて、やめた。
「ロージーのバイクを、知らない銃の身体にするな」
頭の中に部品表が並んだ。組み直した後輪のハブ。引き直した配線。番手を探して露店を三つ回ったベアリング。三週間ぶんの夜。
「あたしが、ここまで直——」
止まった。
ノアの手が、タンクに置かれていた。白糸の `R` が見えた。
工具を置いた。
「外す。今」
架台のボルトは四本。抜いて小袋にまとめ、架台を布に包んで私物箱へ入れた。今週足した配線には黄色いタグが付いている。その線を辿って外した。
あと二本継げば、配線の束がタンクの下に納まる。そこへ伸びかけた手を止めて、腿に戻した。途中のまま残した配線を、ノアも見ていた。
始動キーをポケットから出して、ノアに差し出した。ノアは首を振った。
「あたしが持つ物でもない」
壁際で救難箱の列を直していたミッチが、顎で壁の鍵盤を指した。あたしはキーを共有の鍵盤に掛けた。フックの番号は `07`。誰が取っても帳面に残る場所だ。
ハンドルに掛けてあった作業札を外して、裏の白い面に油性ペンで書いた。
`WORK HALTED / CONSENT PENDING`
読み上げなかった。掛け直しただけだ。インクが乾くまで、札は少し揺れていた。
架台を外した時、シートベースの下から薄い手帳が出てきていた。前に一度開いて、締め付けの数字だけ拾って戻した物だ。表紙の角が全部丸くなっている。あたしはそれを両手でノアに渡した。
「あんたの家の物。締め付けの数字だけ、前に盗み見た。ごめん」
ノアは手袋のまま受け取って、しばらくページをめくった。遠くで風車が鳴っていた。それから手帳を、あたしの工具箱の上に置いた。
「読むのはいい。読むのと直すのは、別」
「分かってる」
「札は、そのままにしときな」ノアはナザレを一度だけ見た。「妹は、頼まれて直すのが好きだった。頼まれてないのに直されるのは、嫌いだったと思う」
それだけ言って、出て行った。砂利を踏む音が、ゆっくり遠くなった。
ミッチが台車の紐を巻き終えた。
「あの日、おまえが分解してたレギュレータは、壊れてなかった」
それだけだった。ミッチは台車を壁際に付けて、救難箱の列の前に屈み込んだ。蓋を一つ開けて、中身を検め直し始めた。こっちには来なかった。
あたしは架台の入った私物箱を、棚のいちばん下に押し込んだ。箱の底には、布に包んだレギュレータが一年前から沈んでいる。包みは開けなかった。しばらく、発電機の振動だけ聞いていた。
*
日が落ちると、屋根の鉄が冷めて、ときどき小さく鳴った。
ミッチは帰らず、工房の反対の端に灯りを点けていた。あたしが一人で残れないので、救難箱の点検を続けてくれていた。
あたしは椅子を引いて、手帳を開いた。
読むのは、直すより時間がかかった。ページは油で波打っていて、めくるたびに乾いた音がした。指先の油を布で拭いてからめくる。その順番を、途中から覚えた。
角の丸い小さな字だった。日付、症状、処置。ロージーは自分のバイクを、症状から書く人だった。
右グリップ、内側から先に減る。交換は左の倍の頻度。
その下に、罫線を無視した走り書きがある。
右グリップ、また緩めた。毎回やる。いい加減学べ、あたし。
さらに下に、行を詰めて。
右手首、雨の日に固い。スロットルの遊びは多めのまま。直すな。慣れてる。
直すな、と自分の機械に書く人だった。あたしはその一行を二回読んだ。
真ん中あたりに、図面が挟まっていた。リアラックの寸法図。水缶三つ用。溶接の指示が半分で終わっていて、余白に、雨季の前に、とだけある。チェック欄は空だった。
後ろの方のページは、整備じゃなかった。
旧海岸道路、見晴らし台。朝がいいらしい。
行き先だけで、日付がない。チェック欄も空のままだった。
作業手袋、二双で買った。片方は予備。姉さんは自分の道具を買わない。
あたしは手帳を一度閉じて、表紙の丸い角を指でなぞった。それからまた開いた。
自分の作業帳を出して、ナザレに足した部品の一覧を作り始めた。日付、品名、外せるか外せないか。ノアに渡すための一覧だ。
一覧は九行になった。八行目までは、外せる。九行目はステムの溶接補修で、これは外せない。外せない、とそのまま書いた。
突き合わせるために、共有端末でナザレの作業ログを呼んだ。
番号が飛んでいた。
`0117`、`0118`、次が `0122`。
三件、ない。
監査の画面に替えた。ログ本体は消せても、削除記録は別の監査層に残る。キャロルが遮蔽箱を組んだ夜、作業ログにも同じ仕組みを足していた。
削除は三件あった。一件ずつ、別々の夜に実行されていた。最初の一件は、あの声が届いた夜。残りの二件は、その後の夜に、一件ずつ。
実行したのは、スキッピーに渡した作業記録用のアカウントだった。遮蔽箱の有線記録口を共有端末につないだ時だけ使える。外部通信はできないが、工房のログは読み書きできる。消すことまで、許していた。
棚の上を見た。
遮蔽箱は静かだった。いつもなら、あたしが監査画面を開いた時点で口を挟む。統計。抗議。頼んでない冗談。今夜は何も言わなかった。箱の線の根元で、小さな表示灯がゆっくりした間隔で明滅しているだけだった。
消された三件の欄を開いた。本文はもう無い。残っているのは作成の日付と、作成者の署名だけだった。
作成の日付は、三件とも、ナザレとスキッピーをこの工房へ移した後だった。
署名の欄は、三件とも同じだった。
`SKIPPY`