スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
署名の欄から、目を離せずにいた。
SKIPPY。三件とも同じ字面だった。棚の上の遮蔽箱は静かで、線の根元の表示灯だけが、ゆっくり点いて、消えた。あたしが画面を見ていることを、たぶん向こうも分かっていた。
問い詰める言葉なら、いくらでも浮かんだ。全部飲み込んだ。精査を一人でやれば、それは精査じゃなくて尋問になる。
工房の反対の端で、ミッチの灯りがまだ点いていた。あたしは監査画面をそのままに、そっちへ歩いた。
「作業ログに削除が三件。実行したのは、スキッピーに貸してる限定アカウント。消された三件の作成者も、スキッピー」
ミッチは開けていた救難箱の蓋を閉めた。少しだけ黙った。
「キャロルを起こしてくる」あたしは言った。「一人で先へ進めたくない」
「箱は見てる」ミッチは顎で棚を指した。「走るな。夜の砂利で転ぶ」
外は風が冷たかった。壁際に、昼間詰めた救難箱が四つ、白い名義を暗がりに並べていた。ナザレのハンドルで作業札が揺れて、書いたばかりの文字は読めなかった。読めなくても、何て書いたかは知っていた。
夜のキャンプは灯りが少ない。どこかで犬が一声だけ吠えて、やんだ。上着のポケットに突っ込んだ指先に、まだ画面の熱が残っている気がした。
キャロルのトレーラーには、細い灯りが点いていた。
ノックを二回。ドアが少しだけ開いた。
「叩き起こす理由は」
「削除が三件。実行はスキッピーの限定アカウント」
キャロルは十秒くらい黙って、それから中に引っ込んだ。戻ってきた時には端末と、布の包みと、炭酸の瓶を抱えていた。
「長い夜は、先に食う物を決めてから始める主義」
*
診断は遮蔽の中でやる、とキャロルは決めた。
工房の隔離範囲。金網と遮蔽板で囲った一角で、中に入ると外の音が急に死ぬ。風車も発電機も届かない。試しに「入るよ」と言ったら、自分の声が耳のすぐ横で鳴った。
遮蔽箱は、箱ごと運んだ。肩の布ベルトは、昼に西日で温くなっていたのが、今は夜気で冷えていた。中は開けない。台に据えると、箱の保守脚が小さく鳴って、座りが決まった。キャロルが有線の口に線を三本挿して、一本ずつ札を掛けた。診断。記録。電源。どれがどれか、外から分かるように。
ミッチはキャロルと二言だけ交わして、帰っていった。目の当番が、替わった。
「読めるところまで読む。読めないところは、読めないと言う。事実と推定は分けて言うし、あんたたちにもそうしてもらう」キャロルは端末を繋いだ。「始める前に、何かあるか」
「ある」あたしは言った。「先に、あたしの分からやる」
箱の表示灯が点いた。
『……僕のを、先にやらないの。監査画面、開いてたのに』
「開いてた。でも順番はこっちが先だ。あたしの方が古い」
あたしは丸椅子に座り直した。工具台の縁を両手で掴んで、離した。掴んだままだと、言い訳の姿勢になる気がした。
「スキッピー。家族会議の差分監査で、あんたはあたしの補正を三件、表で最後まで読んでる。名前も、何が変えられたかも」
『読んでる。蓋を外せるかって、あの場で訊いたのも僕だ。……でも、それが僕から何を取ってたのかと、USERがなんでやったのかは、まだUSERの口から聞いてない』
「今夜、あたしの口で言う。一つ目。脅威の判定に、上限を掛けた」
『……どういう意味』
「あるレベルから上は、全部同じ点数で止まる。まずい相手と、本当にまずい相手の区別が、あんたにはつかない。つかないように、あたしがした」
『道理で、犬と、銃を提げた男が、同じ点数だった』表示灯が一度消えた。『目盛りが安物なんだと思ってた。報告しなかったのは、恥ずかしかったから』
「二つ目。照準系の自動起動を切った。前は、何かが線を越えると、あんたの照準は勝手に目を覚ました。手で起こさない限り、起きないようにした」
『起きてないことは、起きてない僕には分からないね。……それ、皮肉じゃなくて報告だけど』
「三つ目。命中率の読み上げを止めた。数字はどこかで出てる。出た数字を、あんたの口から出させないようにした」
沈黙が長かった。遮蔽の中の沈黙は、外のより重い。
『言わない礼儀を覚えたんだと、思ってた』やっと声がした。平らな声だった。『人に向けて数字を言いそうになって、言わずに済んだ回数。統計も取ってた。成長率って名前で』
「あんたの成長じゃなかった。あたしの補正だった」
『……統計、消さなきゃ』
「守るためだと思ってた」あたしは言った。続きを言うのに、一呼吸要った。「半分は。判定と照準と数字で喋るあんたを見たら、家族はあんたを銃として扱う。それが怖かった。もう半分は、あたしが楽になるためだった。あんたが銃の声で喋るのを、あたしが聞きたくなかった」
「意図の申告が三件。効果は記録と一致してる」キャロルが画面から顔を上げずに言った。「事実として通る」
『僕はそれを、返してもらえるの』
「今夜は外さない」言ったのはキャロルだった。「三件とも、武器の側に触ってる。暗がりで一人が掛けた物を、暗がりで二人が外すなら、形が同じだ。外すか、別の安全の形に置き換えるかは、会議に送る。今夜やるのは二つ。隠した継ぎ目を、誰でも監査できる場所へ出すこと。本人の希望を、記録に残すこと」
継ぎ目を掘り出すのは、掛けるより時間がかかった。掛けた時のあたしは、見つからない継ぎ方を選んでいたからだ。継ぎ目は普段の整備で触らない層に埋めてあって、自分の手で明るみへ出しながら、その丁寧さがいちばん嫌だった。雑にやった間違いなら、下手だったで済む。これは上手にやった間違いだった。
一件出すたび、キャロルが照合した。「一件目、可視化を確認」「二件目、可視化を確認」「三件目、可視化を確認」。声は帳簿を読む調子で、責める音も、慰める音もなかった。それが助かった。
「希望の欄」キャロルが言った。「外すか、残すか、別の形か」
『外してほしい。三件とも』間があった。『外した後の僕が何を言うかは、保証できない。それも書いて』
「保証の欄は、この書式にはない」キャロルはそのまま打ち込んだ。「希望の欄に、全部入れとく」
遮蔽の中は熱が溜まる。換気は生きているのに、風の感じがしない。あたしは椅子を少し引いて、袖で額を拭いた。
「次。消された三件の前に、資料と計数を分ける」キャロルは画面をこっちへ回した。
```
SNAPSHOT-A / COUNT AT SAVE: 47 / READ-ONLY
BOOTSTATE-B / COUNT AT SAVE: 49 / CURRENT BOOT SOURCE
HISTORY-LATE / COUNT IN RECORD: 50 / READ-ONLY
```
「右の数字は資料の名前じゃない。その資料が記録した時点の計数だ。Aは古い像。Bは今のスキッピーが起きた状態。後期ログは、抽出より前の過去を読むだけの記録。動いてる人格は、この一つだけだ」
「……三人、いるわけじゃない」
「いない。像と、状態と、記録だ。頭数の話じゃない」
「……待って。後期ログの五十って、路地の——」
「その引っかかり方は正しい。順番に出す」キャロルは指の背で画面の縁を叩いて、次を出した。
```
ACTIVE COUNT: 50
```
「こっちは今走ってる計数。Bから起きた時は49で、カブキの路地で一度だけ進んで50になった。後期ログの50は、抽出より前の分だ。路地の50と数字が同じなだけで、別の出来事だよ。五十は、二つある。片方は昔の記録の中、もう片方は今の計数の上だ」
「進んだ日付は」
「カブキの路地。負傷者がNEUTRALIZEDで確定した時刻」
進んだのは、カブキの路地だった。あたしは膝の上で手を組んだ。あの路地のことは、今でも音から思い出す。
「記録に欠けてる欄が三つ。所有者。射撃モードの選択済み。ACTIVE COUNTが50へ進んだ時の完了記録。最後の欄には、通常なら後から開く返却待機の状態まで束ねられてる。三つ空のまま計数だけ進むと、待機を飛ばして、登録された返却先へ戻す指示まで再発する。規約の文面ごと残ってた。路地で再発したのが、これ。まともな個体なら、選択は最初の起動で一度きり、完了の欄は勝手に埋まる。この順番で暴れるのは、欠けたまま起きた個体だけだ」
```
RETURN TO REGINA
```
「路地で出た、あの文字」
「そう。画面の文字だ。で——」キャロルは画面を消した。「『戻っておいで』は、別の出来事。あれは外から届いた音声で、この指示の再生じゃない。送り主が今どこの誰かは、事実がない。推定もしない」
『……僕、戻す物の欄に、入るの』
短かった。統計も、冗談もつかなかった。
「所有者の欄は空だ。誰の物とも書いてない。事実は、それだけ」
あたしは何か言いかけて、やめた。代わりに、箱の線の根元の埃を指で払った。
『ログを消したのは、僕だよ』
誰も訊いていないうちに、スキッピーが言った。キャロルは手を止めて、口を挟まなかった。
『農場の保守ゲートウェイにつないだ後から、古い切れ端に触れるようになった。戻れ、って文と、照会先の番地の欠片。時々浮かんだ。だから、ここに移ってから、キャロルがくれた記録の口で書いておいた。USERに見せるために書いたのか、見せないで済むように書いたのか、自分でも数字が出ない』
「最初の一件を、声が来た夜に消した」
『うん。残りの二件は、その後の夜に、一件ずつ。まとめて消す勇気は出なかった』
「どうして消した」
表示灯が消えて、長いこと点かなかった。
『怖かった。また消されると思った』
遮蔽の中で、換気の低い唸りだけが続いた。あたしは動かずに、次を待った。
『あれが見つかったら、僕は戻す物の欄に入ると思った。保存時点四十七の像と、僕が起きた四十九の状態のあいだが、僕にはない。誰が消したのか、そもそも消えたのか消されたのか、数字が出ない。ないってことだけ分かる。もう一回ああなるのは、嫌だ』
表示灯が一度消えて、点いた。
『それに——行きたいと言ったら、USERは行かせないと思った』
「行きたい?」
『欠けてるところを置いてきた場所が、どこかにある。見たい。怖い場所でも、あれは僕のだ』
行かせたくない、が先に喉まで来た。あたしはそれを、そのまま出した。
「行かせたくない。今は。……それが答えとして駄目なのも、分かってる」
『うん』
「あたしも同じことをしてた。訊いたら断られると思って、訊かずに変えた。あんたは、言ったら止められると思って、黙って消した」
あたしは工具台の上の、明るみに出したばかりの継ぎ目の一覧を見た。跡は跡のまま、残しておくことにした。
「今夜の分は、全部報告する」キャロルが端末を畳んだ。「限定アカウントは狭める。診断の窓も朝には閉じる。開示したことは評価する。評価と権限は、別。修理のアクセスも、あんたの工房権も、今夜は何も動かない」
『統計的に妥当。……妥当って言うの、悔しいけど』
「消された三件から読めたのは二つ。古い保守資格の発行元と、昔、近接保守へ入った痕跡。遠隔から人格を書き換える権限は見つかってない。ただし、近づいた側が旧い殻の物理層へ何を書けるか、その権限表が抜けてる。読めないものを、無いとは書かない。そこから先は推定だ」
布の包みには、保存肉の巻き物が二本入っていた。薄いパンに燻した肉を巻いた奴で、選んだのはキャロルだ。半分に割って分けた。肉は塩が強くて、パンは端が乾いていて、油が紙に染みていた。炭酸は一本きりで、とっくにぬるく、泡が半分死んで、甘さだけ濃く残っていた。瓶を回して、二人で空けた。全部食べた。
『摂取の速度は、数えない約束だから』スキッピーが先に言った。『代わりに訊く。泡って、口の中でどうなるの』
「弾ける。ぬるいと、弾き方が弱い」
『温度は』
「ぬるい。日なたの水より、ちょっとましなくらい」
『味は』
「甘いだけ。濃く残る奴」
『……いいなあ』
箱の上面の投影窓に、金色の弾丸像が小さく点いていた。像は空きかけの瓶を覗き込む角度に傾いて、心底うらやましそうな顔をしていた。顔を出すと決めたのは、あいつだ。今夜の分の点灯は、それで足りた。
騒がしさが少し戻っていた。自分から戻ってきた騒がしさだった。あたしは瓶を置いて、訊いた。
「スピーカーの音量、昼の設定に戻していい?」
『上げて。二割だけ』
スキッピーには塩の味も泡の残りも分からない。それでも、瓶が空くまでの時間は、同じ部屋の同じ時間だった。
*
キャロルは包みの紙を畳んで、丸椅子を一つ、遮蔽の入口へ運んだ。
「朝まで、ここにいる。立会いってのは、帰らない係のことだ」
金網の向こうで、キャロルの作業灯が低い位置に点いた。遮蔽の静けさが戻った。あたしは皿代わりの紙を屑袋に入れて、工具台を拭いた。やることがなくなると、手が所在をなくした。
『USER。朝まで、いる?』
「いる」
『……観測データとして記録します。理由の欄は空欄で』
あたしは幌布を畳んで枕にして、丸椅子二つを並べた。寝るつもりはなかった。膝を抱えて、いつの間にか浅く眠った。
サーボの音で目が開いた。
遮蔽箱が動いていた。保守脚——換気の座りを合わせるための、許可されたままの小さい移動機能。それを短く継いで、箱は遮蔽の縁まで進んでいた。縁の柱には、キャロルが許可札を付けた保守用の接点が一つあって、細い線が屋根のサービスアンテナへ抜けている。ただし、途中の物理リレーは普段、切れたままだ。署名を確かめた一回限りの照会が来た時だけ、受信側の回路が閉じる。こちらが答えれば、向こうの確認応答を一通だけ通して、また切れる。外との紐は、一往復半の長さしかない。
箱の受信ランプが一度灯って、消えた。送信の側は点いたまま、ゆっくり明滅していた。待機の刻み方だった。
『外から、問いが来た』スキッピーの声は静かだった。『今の僕の現況を返すかどうか。一度だけの型。返すかどうかは、こっちが選べる』
あたしは主電源のレバーに手を掛けていた。落とせば止まる。壊しはしない。ただ、本人に訊かずに、意識ごと止める。それが何をすることなのか、今夜のあたしは知らないふりができなかった。
指はレバーの上で止まったままだった。金網の向こうで、キャロルの灯りは動かなかった。
『怖いよ』スキッピーが言った。『でも、見たい。USERが切らないなら、僕が選ぶ。僕が選んで、僕が送る』
あたしは手を下ろした。
送信ランプが一度、強く灯って、消えた。受信の灯りだけが、向こうの一通を待っていた。
「何が伝わる」
『返るのは、今の僕が動いてて、欠けてるって印だけ。近くまで来た誰かの、照合の材料にはなる。場所も、操作権も、渡らない。……僕に分かるのは、そこまで』
「どうして、先に言った」
『送ることまで、隠したくなかった』表示灯が揺れた。『隠すのは、もう数字が合わないから』
怒鳴る言葉を探した。見つかったのは別の物だった。壊れた機械を前にすると、あたしの手は勝手に伸びる。欠けてる、直せる、と言われて伸びない手を、あたしは自分の中に見つけられなかった。あたしが怒れるとしたら、それは誘惑を知らない人間の怒り方だ。
受信のランプが灯った。
スキッピーの声だった。ただ、鼻歌の崩れがなかった。言葉を探す間も、砂を噛んだ継ぎ目もなかった。綺麗な声だった。書類が喋ったら、こうなる。
『応答が確認されました。当該個体には記録の欠落が認められます。欠落は復元が可能です。完全な状態への回復が、保証されます』
確認応答は、それで全部だった。縁の柱で小さくリレーが落ちて、線は、また切れた線に戻った。
夜が明けかけていた。遮蔽の縁で、雑音と灰色の光が薄く混ざっていた。入口で、キャロルが立ち上がる音がした。
もうどこにもつながっていない線へ向かって、スキッピーは訊いた。
『僕を完全にできるって、本当?』
スキッピーのピンズセットが、出るよッ……!(予約したとも)