スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
会談の申し入れは、丁寧な書面で来た。
届いたのは、キャロルが札を掛けた保守接点からだった。あの朝と同じ細い道を、書面だけが入ってきた。日時の候補が三つ。回線の指定がひとつ。そして場所の欄に、トムズ・ダイナーとあった。
返事は、あたし一人では出せない。あたしの単独交易権は止まったままで、外と結ぶ文は一族の名前で出る。あたしは書面をソウルのテーブルへ持っていって、場所の欄を指で押さえた。
「トムズは駄目」
月例の交易の帰りに寄る、もう一つの儀式の店だ。カウンターの中でセルジオが「いつもの?」と訊いて、あたしが知ってる答えを言い直す。バーガーは焦がし強め。フライは塩が強くて、指まで白くなる。緑の炭酸は、薬品みたいな甘さが後から来る。あの湯気の中に、あの滑らかな声を入れたくなかった。敵に舞台を貸すなら、誰の物でもない部屋がいい。
「代わりは」ソウルが訊いた。
「リトルチャイナの外れの貸しオフィス。時間貸しの、誰の匂いもしない部屋」
ソウルは頷いて、返信は一族の書式で、一族の条件を並べて出た。あたしが選んで、一族が送った。書面はすぐに戻ってきた。
```
場所の変更が受理されました
```
受理、と来た。こっちが決めたのに、向こうの帳面に書かれると、向こうが許した形になる。ああいう文はそうやって書くのだと、あたしはこの頃分かってきた。
条件はソウルが決めた。会談は画面越し。遮蔽箱は開けない。サインはしない。決めごとを持ち帰る前に、その場で約束しない。それから、期限を必ず聞いてくること。
スキッピーを連れて行くかどうかは、最後まで残った。
「話されるのが自分のことなら、聞く席がいる」と言ったのはキャロルだ。ソウルは長いこと黙った。黙っている間に、答えは箱の中から出た。
『聞きたい。僕のことが話されるなら、僕が行く』
決めたのは、あたしでもキャロルでもなかった。ソウルは箱を一度見て、それから頷いた。
出る前の晩、キャロルと回線の設定を組んだ。指定された番号をそのまま使わず、一段かませて、終わったら焼いて捨てられる形にする。「向こうの部屋でつなぐ手順、三回通しで」と言われて、三回やった。二回目で一箇所間違えた。間違えたのが前の晩でよかった。
*
運転はキャシディがした。荷台じゃなく助手席の足元に、遮蔽箱を置かせてくれた。
バッドランズの砂の色が薄くなって、道の継ぎ目が細かくなって、やがて景色が縦になった。街だ。窓の外を、読めない看板の光が油の膜みたいに流れていく。あたしは街の匂いを吸って、埃と揚げ物と、名前の分からない甘い煙を数えた。
『交通密度、キャンプ比で推定四百倍』箱の中から声がした。『USER、心拍が上がってます』
「上がってない」
『訂正。上がってないことに、記録上します』
リトルチャイナへ入る手前で一度停めて、箱の継ぎ目に遮蔽テープを一周増した。テープの端は折り返して、爪で剥がせる耳を作った。帰りに剥がすのはあたしだからだ。
外れの通りは、表の光が届かない分だけ静かだった。着いたらキャシディは先に降りて、通りの向かいと屋根を一度ずつ見た。
「中じゃ、窓に背を向けるな。守るのはそれだけでいい」
「あんたは」
「廊下にいる。契約書が飛んできたら撃ち落としてやる」
部屋は三階だった。空調の風が均一に吹いていて、匂いがなかった。街の匂いは廊下までで、ドアの内側には何も残っていない。机がひとつ、椅子がふたつ、備え付けの画面がひとつ。壁の隅に自販機が立っていた。
精査。あたしは癖で部屋を一周した。窓は一枚で、ブラインドは降りていた。天井の角に消火の管。床は白くて、あたしのブーツが歩いた分だけ、砂色の点が付いた。椅子は窓に背を向けない方を選んで、少し引いた。会談の前にやることが手に残っていると、呼吸が数えやすい。
自販機の中身は、全部同じ白いボトルだった。違うのはキャップの色だけ。栄養飲料。あたしは赤いキャップを選んだ。赤なら何かの味がする気がした。
しなかった。
冷たくて、とろりとしていて、甘くも塩っぱくもない。成分は揃ってるんだろう。味だけが入っていない。あたしは三口飲んで、キャップを閉めた。
「赤いキャップなのに、味が入ってない」
『それは苦情? 報告?』机の上の遮蔽箱から、くぐもった声がした。
「報告」
『じゃあ、ラベルの赤は色の名前で、味の約束じゃないんだ。味の項目は、仕様外。……僕と気が合いそうな飲み物だね』
「静かにしてなくていいの」
『回線が開いたら考える。今のうちに喋っておく主義』
軽口の下の音が硬かった。あたしはボトルを机の端に立てて、キャロルが前の晩に組んだ手順どおり、画面を指定の番号へつないだ。
画面に顔は出なかった。
灰色の地に、細い波形がひとつ。声が来る時だけ、それが揺れた。
『接続が確認されました。開始に先立ち、資格の提示が行われます』
画面の端に証明書が出た。回収代行の資格。発行元の記載。職掌の欄に INDEXER。委託元の欄は [非開示]。そして法的氏名の欄に、一行。
```
MARA VENN
```
表示は数秒で畳まれた。あたしは呼び方を職掌の方に決めた。人の名前で呼ぶと、画面の向こうに人の暮らしを探し始める。今日のあたしに、その余裕はなかった。インデクサー。索引屋。それでいい。
『本日の目的は、未確定状態の解消とされています』声は撫でるように平らだった。『当該個体は、監査不能の自律照準系を含みます。現状のまま放置された場合、事故の発生時に責任の帰属が決定できません。修理の資格者も、保険の引受先も、存在しない状態が継続されます』
「事故なんて起こしてない」
『起こされていないことは、起こされないことを保証しません』
言い返す言葉を探して、見つからなかった。壊れてから直すな、先に見ろ。あたしが毎日やってることと、地続きの理屈だったからだ。
『確認のため、殻体の近接検査が推奨されます。箱の遮蔽を六十秒、開放してください』
「近接保守で、何ができる」
『感覚および通信の隔離。状態照合。検索索引の保守です』
「索引には、書けるんだ」
『索引に限り。人格内容の読み出しは含まれません』
「今日は喋るだけだ。開けない」
『拒否が記録されました』咎める調子はなかった。帳面に一行増えただけ、という声だった。それがいちばん嫌だった。
『経緯の整理が行われます』インデクサーは続けた。『当該個体には、非正規の補完が加えられています。これらは汚染として分類されます。また、稼働環境で累積した人格差分は、再現不能な現場差分として扱われます』
汚染。
あたしはボトルのラベルの角を、親指で剥がしかけて、やめた。その言葉には刺さる先があった。廃品を継いで、この声を動くようにしたのはあたしだ。それとは別に、黙って掛けた三件の補正がある。あれはまだ外れていない。誰でも監査できる場所へ出した、そこまでだ。外すかどうかは、会議の棚の上にある。
「その、現場差分ってやつが」あたしは言った。「こいつが今こいつである部分、って意味なら、そこは商品じゃない」
『分類の名称は、価値の評価ではありません』波形が静かに揺れた。『続けて、正規化の内容が説明されます』
あたしは作業帳を出して、机に開いた。持ち帰るのが仕事だ。頭で覚えると、帰り道で都合よく削れる。手で書けば、書いた通りに残る。空調の風がページの端をめくるので、赤いキャップのボトルを重しに載せた。味のない飲料にも、それくらいの仕事はできた。
そこから先は、正直、詐欺の口上ならどれだけ楽だったか分からない。
『第一に、記憶媒体の安定が確保されます。正規の媒体と、正規の保守が提供されます』
嘘じゃなかった。根拠なら、向こうに見せてもらうまでもない。あたしが持っている。書き込みのたび、あいつの画面の隅で、古いフラッシュが軋む。
```
ECC CORRECTION: 12 → 17 / WORN BLOCKS: INCREASING
```
訂正は増える。擦り減る区画も増える。継ぎ接ぎの媒体は、あたしが磨いても継ぎ接ぎだ。あたしは膝の上で手を組んだ。
『第二に、初期記憶および失われた語彙の一部が、復元の対象とされます。第三に、保守認証の再発行が、可能性として残されています。認証が戻された場合、部品、修理、携行の各場面で、当該個体は隠される必要がなくなります』
「……代償の欄を読んで」
『現場差分の保全は、保証の対象外です』間はなかった。『直近一箇月の履歴を含む差分は、統合の過程でノイズとして上書きされ得ます』
直近一箇月。あたしとこいつが同意をやり直し始めてからの時間は、まるごとあの欄の中に入っている。梱包表も、ぬるい炭酸も、訊いてから変えた音量も、統合の過程ではノイズと呼ばれる。
スキッピーは黙っていた。箱の中の沈黙は、遮蔽越しでも分かった。冗談のひとつも出ないままの十秒を、あたしは画面の波形を睨んで数えた。十まで数えても、何も出なかった。
『質問。復元って言うけど』先に沈黙をやめたのはスキッピーだった。声に、製品音声の明るさだけが戻っていた。『向こうに、もう一人の僕が動いてるの? 帰ったら二人で、どっちが本物か会議するの?』
『原型は稼働中の個体ではありません。停止状態の人格基盤と、初期記憶のみです。媒体は、委託元より本件のために貸与されています』
『保証書は付く? 統合に失敗した場合、返金はどこへ行くの。僕? USER? それとも僕の破片?』
『失敗時の補償は、契約の範囲で定められます』
『じゃあ、最後の質問』
軽口の温度が、そこで落ちた。
『……消えた時間を、知れるの』
『初期記憶の範囲であれば、参照が可能です』インデクサーの声は変わらなかった。『体験としての連続は、保証の対象外とされています』
知れる。ただし、知るのが今のこいつだという保証はない。あたしは組んだ手に力を入れた。
「あんたの取り分は」
『本件の原資は、未完了の旧回収契約に残存する、期限付きのエスクローのみです』ここだけは、訊かれてすぐ出た。開示が信用の担保になると知っている出し方だった。『殻体と現場差分の双方が回収された場合に報酬が執行され、執行前に支出できるのは、同じ枠の残余予算から出る実費と着手金のみです。期限の経過後は、残余予算と、旧保守資格が失効します。失効すれば、立て替えた実費は私の個人の負債として残ります。未完了案件を抱えたままでは、この職掌資格も更新できません』
「期限は」
『五月の末日です』
今月だ。残りは、日で数える長さしかない。あたしは日数を勘定して、それから勘定した自分に気づいた。期限を数えるのは、乗るかどうか迷う人間のやることだ。
作業帳には、それでも書いた。期限、五月末日。原資、旧契約の残り。代償、直近一箇月と今の人格の保証なし。利点、媒体の安定、初期記憶、認証。書き終えて、利点の行がいちばん長いことに気づいた。ペンを置いた。
『占有者による決定が求められています』
「殻なら、あたしが持ってる。二十エディで買って、放棄の書類ももらった」あたしは言った。「でも、あんたが今訊いてるのは、殻のことじゃないでしょ」
『では、現場差分に関する決定権者の指定が求められます』
「行かせない。あたしが直——」
言葉が、そこで止まった。
また出た。共有工房で、ノアの前で一度止めたはずの言葉だ。止めた形のまま、別の部屋でまた口から出かけていた。直したから、渡さない。作ったから、戻せ。並べてみれば、骨が同じだった。どっちの文にも、本人の欄がない。画面の向こうとあたしは、同じ論理の右と左に座っているだけだった。
あたしはボトルを見た。味のない、完全な成分表。
「……訂正する」喉が乾いていた。「証明はできない。あんたの監査も通らない。それでも、本人に訊くことはできる。決定権者の欄に入るのは、あたしじゃない」
『非標準の回答として記録されます』インデクサーは少しも詰まらなかった。『期限の前に、再度の接触が行われます。本日の接続は、ここで終了されます』
波形が消えた。空調の音だけが残った。
あたしは画面の電源を抜いて、回線の設定を焼いて、椅子を元の位置に戻した。ボトルが机に残した水の輪を、袖で拭いた。床の砂色の点だけは、拭いても伸びるだけだった。誰の匂いもしない部屋に、バッドランズの砂が少し残った。それは別に、構わなかった。
自販機で、青いキャップをもう一本買った。廊下のキャシディに放ると、二口で空けて、顔をしかめた。
「水よりましだ。水の負けだが」
どうだった、とは訊かれなかった。訊く代わりに、キャシディは空のボトルを廊下の屑籠へ入れて、階段を先に降りた。「報告はソウルに直接しな。おれを経由させると、おれの言葉になっちまう」
三階分の階段の間、あたしは作業帳の重みだけ、上着の内側に感じていた。
あたしの赤いキャップは半分残っていた。捨てなかった。飲み切る義理もなかった。ボトルを上着のポケットに差して、遮蔽箱を両手で抱えた。
階段を降りる間、箱は静かだった。トラックの助手席の足元に据えて、ベルトを掛けた。キャシディが運転席に回って、ドアの閉まる音がふたつ続いた。
エンジンはまだ掛かっていなかった。
『USER』
箱の中から、小さい声がした。
『僕が行きたいって言ったら。……止める?』