スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
エンジンは、まだ掛かっていなかった。
キャシディは鍵をつまんだまま、回さずにいた。回さないことで、答えの席をあたしに譲っていた。足元の遮蔽箱は静かで、線の根元の表示灯だけが、問いの続きの速さで点いて、消えた。
「止めたくなる」あたしは言った。「今も止めたい。それが正直なとこだ」
『……うん』
「でも、あんたの電源を勝手に落とすことは、しない。あんたの代わりに結論を出すことも、しない。あたしがやるのは三つだけだ。反対なら、反対と言う。危ないと思えば、危ないと言う。足りない情報は、足りないと言う。それから——あんたが選ぶことと、うちの家族が背負う危険は、別の帳簿に分けて、輪に持って帰る」
『分けられるの、それ』
「分けるんだよ。混ぜて記帳するなって、教わってきた」
箱の中で、駆動音が一拍だけ揺れた。
「先に、謝っとく」あたしは箱の継ぎ目を見た。「直したのは、あたしだ。でも、直したからって、所有したわけじゃなかった。ずっと、そこを混ぜてた。ごめん」
『……受け取る』間があった。『許すかどうかは、まだ数字が出ない。出ないまま、受け取っておく』
「それでいい」
キャシディが、黙って鍵を回した。エンジンの震えが床から箱へ伝わって、リトルチャイナの裏通りの灯が、後ろへ流れ始めた。
*
キャンプへ戻った夜のうちに、焚き火の輪へ全部を置いた。
作業帳を開き、利点、代償、旧契約の原資、五月末日の期限を、書いた順に読んだ。
スキッピーの箱は、輪の真ん中にいた。自分のことが話される席には、本人を置く。それだけは、もう崩さないことにしていた。
ソウルは最後まで聞いてから、まず、やらないことを切った。
「力ずくの回収にも、本人抜きの正規化にも応じない」ソウルが区切るたび、キャロルが家族の正式判断として記録した。「統合するかは、こいつが決める。うちが決めるのは、キャンプの安全だけだ」
その形の最初が、会議へ送ってあったあたしの三件だった。
「外すよ」キャロルが言った。「本人が外せと言った。一族が認めた。あたしが立ち会う。外した後は、隠し蓋の代わりに、誰でも監査できる安全を作る。作るのは——ユキ、あんたと、こいつだ」
解除は翌朝、三つ揃えてやった。あたしの手。キャロルの目。スキッピーの同意。一件外すたび、キャロルが照合を読み上げて、監査の欄に載せた。掛けた夜のあたしは一人だった。外す朝は、一人じゃなかった。違いはそれだけで、たぶんそれが全部だった。
工房の一角だけが、この一件に限って監督付きで開かれた。単独工房権も、単独交易権も戻らない。
修理の口は、スキッピーが自分で開けた。
『この作業に要る診断と修理の分だけ、僕が開ける。終わったら、その日のうちに僕が閉める』
「閉め忘れたら」
『USERが言って。開けっ放しは、僕も嫌だ』
*
設計の最初の晩、あたしたちは正面からぶつかった。
スキッピーの案は、緊急時のAI単独射撃だった。冗談の声じゃなかった。
『USERが倒れて、応答がない時。僕だけで判断して撃てる道が要る。守れない僕は、また役に立たない僕だ』
「却下」あたしは言った。「五十を怖がってるあんたに、五十一を数える係を一人でやらせる仕組みは、作らない」
あたしの案は、その裏返しだった。あんたが応答不能の時だけ、あたし一人の判断で、あんたの身体を使って撃てる例外。こっちも本気だった。壊れたあいつを抱えたまま、撃てない銃と立ち尽くす図を、あたしは何度も描いていた。
『却下』即答だった。『黙ってる僕を「承認」に数えるのは、集計ミスだよ。そこから出た一発は、誰の一発になるの』
答えは出なかった。出ないまま、気づいた。二人とも、自分の側の単独権にだけ「緊急用」の札を貼っていた。
「両方、捨てよう」
『両方、捨てる。……おそろいだ』間があって、あいつは足した。『でも、会議は残す。片方の拒否だけで閉じたら、それは会議じゃなくて一方通行だから』
拒否は一つずつ。引き分けのまま、作業は続いた。
名前はTWO-KEYにした。撃つための、二つの鍵。扱うのは、発砲一回ごとの相互承認、それだけだ。所有とも、本人証明とも、保守とも、人格の移し替えとも、通信とも、車の解錠とも、旧い回収の資格とも、ノースへの信号とも、束ねない。作業帳の一頁目には、作る物より先に、束ねない物の一覧を書いた。作らない欄のほうが長い設計を、あたしは初めてやった。
理屈は単純で、組むのは面倒だった。スキッピーが案を並べる。撃つ候補と、周りへの影響。それから必ず、NO FIREの案と、撃たずに情報だけ渡す案。同じ発砲案に二人の承認が重なった時だけ、一発ぶんの道が開く。どちらかが拒めば、閉じたまま。迷えば、閉じたまま。選んだ案が食い違っても、線が切れても、時間が過ぎても、閉じたまま。NO FIREや情報共有に二人で合意しても、それが撃つ口実に化けることはない。撃たない合意は、撃たない合意のまま完結する。
それから、スキッピーの側にだけ、操作を一つ足した。あいつがいつでも、自分の側の鍵を自分で止められる、明示の停止。人格を消す操作じゃない。TWO-KEYの三本目や四本目の鍵でもない。あいつの「嫌だ」を、あたしを含む誰も、外から解除できない。
『……嫌だの置き場所が、僕の中にできるんだ』
「あんたが自分で覚えた言葉でしょ。置き場所くらい、要る」
最後に、小箱の話をした。
最初の夜に外した、撃発の線。切らずに根元から外して、コネクタごと仕舞った、あの小箱だ。戻す日の形で保管する。修理屋の癖だった。戻す日は、交易の前の晩に来てしまった。あたしは二本を小箱から出して、つなぎ直した。小箱は今、空だ。空のまま、線は銃の中で生きている。あたし一人の判断で撃てた頃の道は、過去の棚じゃなく、今この銃の中につながっている。
「その道を、閉める。戻せない形で。……その前に、不便の側から言っとく。あんたが壊れて黙った時、この銃はただの重い箱になる。あたしは撃てない。それで守れない場面が、来るかもしれない」
長い沈黙の後で、答えが来た。
『閉めて。僕抜きで撃てる僕は、僕がいちばん怖い僕だ。不便の欄は、二人で背負う側に書いて』
キャロルの立会いで、つながっていた道は、二度と使えない形になった。手つきの中身は、キャロルの監査の帳簿にだけ残る。小箱は空の役目のまま棚に残って、開ける理由だけが消えた。
箱の開け方にも、形を決めた。作業と試験に要る時だけ、本人の同意と、キャロルの立会いで開ける。開けている間、外への線は全部抜く。終わったら、その日のうちに箱へ戻す。裸のまま何日も棚に置く便利は、閉め忘れの事故と同じ蝶番に付いている。
*
三日目、ソウルの許可を取って、家族の目の中で野外の試験をやった。
弾薬は、武器庫から試験用の一発だけを出した。弾倉へ入れ、キャロルが帳面の数を照合した。
的は廃車のドアだった。ミッチがロープで引いて、砂の上を走らせる。キャロルが記録の係。あたしとあいつが、鍵の係だった。
視界に候補が並ぶ。蝶番。ロープの結び目。NO FIRE。情報だけ。
「蝶番。ドアだけ落とす。ロープを切ると、飛ぶ先が読めない」
『周りへの影響、低。……承認』
二つの承認が重なって、グリップが一度だけ震えた。開いた、の合図だ。一発。走るドアが蝶番を失って、その場に落ちた。軽くなったロープが跳ねて、砂を擦っていった。
銃声は、やっぱりあたし自身の音だった。手首の奥で震えが跳ねて、膝の裏へ抜けた。消えない反応は、消えないまま連れて歩く。
『命中率、百パーセント! 統計的には——』明るい声が、そこで止まった。『……続きは、やめとく』
二回目は、わざと迷った。候補を選びかけて、承認を途中で止める。何も起きなかった。道は開かないまま、静かに閉じた。
「迷うと、閉じる」
『閉じる』スキッピーが言った。『迷いは、故障じゃない。仕様だ』
試験は、そこで終わるはずだった。
北の空に、予定にない機影が入った。小さい偵察機。誰の物かは読めない。読めない、がいちばん嫌だ。
スキッピーの案が先に出た。距離のあるうちに、撃ち落とす。
「却下。落ちる先が読めない。破片は風下の農場側へ流れる」
次はあたしの案だった。進む先と戻り道を、二発で塞ぐ。
『却下。二発目の線の先に、貯水の列がある。USERの案は、広すぎる』
拒否が、また一つずつ並んだ。並んだまま、誰も台を蹴らなかった。三つ目の欄に、二人の承認が重なった。撃たない。機影の記録と進路だけを、一族の帳面へ渡す。その合意で、撃発の道は開かない。開かない設計に、二人でしてあった。機影は高度を変えないまま、北へ抜けていった。
キャロルが記録板から顔を上げた。
「言っとくよ。これは完璧じゃない。承認は遅れる。遅れた分だけ危ない場面が来る。破片も出る。見間違いもする。巻き添えの芽も、ゼロにはならない」老眼鏡が西日を映した。「それでも、二人で止まれる銃ってのは、あたしは初めて見た。帳簿には、両方書いとく」
片付けは約束どおり、スキッピーが作業用アクセスを閉じ、キャロルが照合した。空の弾倉を抜き、薬室が空なのも二人で確かめた。弾倉は武器庫へ、銃殻は日のあるうちに遮蔽箱へ戻した。
試験の後、キャロルが市場のついでに買ってあった、バック・ア・スライスの冷めたやつと、ぬるい炭酸を分けた。冷めたピザは、熱いのとは別の食べ物の味がする。別の食べ物として、悪くなかった。
『摂取の速度は、数えない』スキッピーが先に言った。『約束だから』
「泡は、今日も半分死んでる」
『いいなあ』
あたしは最後の一切れを、耳まで食べ終えて、指の油を拭いた。
ノースとの約束は、夕方、フェンス越しに交わした。
「一回きりの救難信号。それだけだ。常時の追跡はできない造りにする。受け取るかも、応じるかも、誰かへ中継するかも、全部あんたが選ぶ。戦いに来いって約束じゃない」
『条件を確認します。一回。受信の後の選択は、すべて私。……信号を持つことと、応じることは、別です』
「別でいい。別なのが、あんたの側の鍵だ」
『では、持ちます』
白い車体は、それだけ言った。信号は、その日は使わなかった。TWO-KEYとも束ねなかった。束ねない物の一覧が、一行だけ伸びた。
ナザレには、触らなかった。札はWORK HALTED / CONSENT PENDINGのまま、ハンドルで揺れている。ノアの部品も、使っていない。演算の箱の寸法だけ確かめられる、脱着式の空の台を一つ、共有の作業台の上に置いた。どの車体の物でもない台だ。あいつがそこへ移ると決まったわけでもない。決めるのは、あいつの棚の話だ。
全部で、三日だった。五月の末日までは、まだ指が余っていた。
*
その夜、映像が届いた。
一族の受信の口に、宛名も名乗りもなく、一本だけ。
橋の下の露店主が——ウェイ爺が、狭い部屋の椅子に縛られて座っていた。頬がこけて、唇が乾いて、白く割れていた。生きている。目だけが、レンズをまっすぐ睨んでいた。おれのことは気にするな、と睨む目だった。縛られていない場所が、もうそこしか残っていない睨み方だった。
混合ロットの動かない箱から、この銃殻を二十エディであたしに売った人だ。あたしが引いた線の上で、爺さんは乾いていた。
映像の下に、文字が一行だけあった。読んだ。そこに書かれた夜は、五月の末日より、まだ手前だった。
```
明日の夜。銃と、直した娘を、連れてこい。
```