スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
もう一度、名前を呼んだ。返事は、なかった。
口を開けた分だけ砂が入って、奥歯で鳴った。耳の奥の家族の線も、欠けたきり戻ってこなかった。腕の中の重さは、さっきまでと同じはずの重さなのに、返事がないというだけで、知らない重さになっていた。フレームの継ぎの下、古い保守の面には、二行の表示が灯ったままだった。隔離されているのは、外の感覚と、通信。表示が言っているのは、それだけだ。ほかの場所に、新しい灯りはひとつもない。顔の出る口も、暗いままだった。灯っていない場所を、あたしは灯っていないまま、順に憶えた。
錆の陰から、灰色が出てきた。
いくつ、と決める前に、灰色は配置になっていた。レイスだ。その後ろから、灰色じゃない数人が続いた。動き方が違う。戦いに来た者じゃなく、荷を受け取りに来た者の動き方だった。銃口はこちらを向いていたが、急がせるための向け方で、撃つ気の濃い構えじゃなかった。派手な音は、最後までどこからも出なかった。出す必要が、向こうにはなかった。
連中は、撃たれない場所だけを選んで歩いた。水槽の縁の爺さんと、燃料設備の配管の列。その二つを背負う位置から、誰ひとり外れなかった。キャシディが先に引いた、撃たない線。あたしには見えないその線のありかを、灰色たちの歩き方のほうが正確に知っていた。
肩を掴まれた。
振り解く形に腕が動きかけて、止めた。ここで折られたら、あとで使えない。吸って、四つ。吐いて、四つ。癖の数に身体を預けて、力を抜いた。膝がコンクリートへ落ちて、冷たさが布を抜けて骨まで届いた。
銃殻が、腕から抜かれた。
取り返そうと、もう一度身体が動きかけて、もう一度止めた。重さが手を離れていく感触は、思っていたより長く続いた。離れてからも、腕は重さの形のまま、しばらく戻らなかった。遮蔽箱は、家族の車の中だ。裸のままの殻が、他人の両手で、水平に運ばれていく。壊れ物の運び方だった。壊す気なら、しない運び方だ。見送ったのは、そこまでだった。
力を抜いたままでいると、あたしを押さえる男の握りが、少しだけ変わった。全部は締めない握り。立ち位置は、右の後ろ。体重を掛け替えるたびに、短い緩みが来て、消えた。あたしはそれを、皮膚と目で拾っていった。逃げるためじゃない。見えるものを、見えるうちに見ておく。
顔を上げると、水槽の縁と目が合った。
爺さんは、生きていた。唇は乾いて、白く割れたままだった。その唇が一度だけ動いて、音は砂の向こうから届かなかった。目にはまだ睨む力が残っていて、暴れないあたしを見て、短く一度だけ頷いた。値札を見ないで値を当てた時の、あの短さだった。縛られた椅子ごと、爺さんは水槽の縁から動かされる気配がなかった。
鍵のことを、頭の中で一度だけ確かめた。
TWO-KEYは、相手が黙れば閉じる。今も、作ったとおりに閉じている。あいつが自分で覚えた「嫌だ」の置き場所も、外から触れる道はない。いまも中にあるかどうかを言い切る術は、あたしにはなかった。古い面の二行が告げるのは、外の感覚と通信の隔離だけだ。
スピーカーが鳴った。
撫でたみたいに平らな、あの声だった。リトルチャイナの貸しオフィスで聞いたのと、同じ平らさだ。姿は、今夜もどこにもない。
『確認は完了した。娘と銃を移送する。老人は置いていく』
何を確認したのかも、どこへ運ぶのかも、言わなかった。言わない声に問い返しても、口の中の砂が増えるだけだ。
命令のあと、灰色のひとりが空へ顔を上げた。点滅のある方角だ。上げた顔はすぐ戻ったが、戻るまでの短い間、連中の手も止まっていた。
手首を、後ろで留められた。
立たされて、砂地を歩かされる。首だけは、南へ残した。砂の幕の奥で、家族の車列の灯りが滲んでいた。動いているのか、止まっているのか、滲みの向こうは読めなかった。その上の高いところに、点滅がひとつあった。高さを保ったまま、砂に霞んで、また現れる。動き方で、ミッチの機体だと分かった。
箱型の車の、後ろの扉が開いた。押し込まれる姿勢になっても、首は残した。灯りは、まだそこにあった。滲んで、揺れて、それでもそこにあった。扉が閉まっていく最後の一筋まで、あたしは灯りから目を離さなかった。
閉まった。
キャロルは、線が切れた後に集まり直す手を、出発前に仕込んでいた。中身は、あたしも聞いていない。聞いていないことが、今夜は頼りだった。
*
車内は暗くて、よく揺れた。
後ろ手のまま、床へ座らされた。連中は仕切りの向こうへ消えて、こちら側には、あたしと殻だけが残された。殻は、向かいの壁際に固定されていた。手荷物の位置じゃない。貨物の位置だった。
車が走り出してから、膝と肩で床を漕いで、殻の横まで寄った。仕切りの向こうから、止める声は来なかった。額を、フレームへ寄せる。
温かかった。
普段の稼働の熱より、ずっと弱い。弱くても、消えてはいなかった。冷めていく途中の金属の温度じゃなく、続いている温度だ。中身がどうなっているのかまでは、分からない。分からない場所を、悪いほうの想像で埋めて回るのは、やめにした。表示の二行と、この弱い熱。今夜のあたしの手元で確かなのは、その二つだった。
耳の奥は、まだ欠けたままだった。家族の線も、あいつの線も。普段なら、黙っている時でも、回線の向こうに誰かがいる気配だけはあった。うるさい日は、黙れと思った。黙られてみると、あのうるささが、あたしの周りの広さを決めていたのだと分かる。気配ごと無い静けさは、耳より奥の場所で鳴り続ける。その静けさへ向かって、口を開けることにした。
「聞こえてるかどうか、分からないまま言う」額を付けたまま、小声で言った。「置いていかない。あんたを、戻す。……聞こえなかった分は、あとで全部、あたしが話す」
返事は、なかった。車の唸りが、あたしの声の残りごと、床下へ持っていった。
なくても、言い直さなかった。言い直すと、届かなかったことに決めてしまう気がした。身体を半分回して、後ろ手の指の背で、フレームを三度、叩いた。急がない速さで、三度。合図の意味は、決めていない。届いてから、二人で決めればいい。
いつもなら、ここで採点が始まるはずだった。この揺れは何点、この運転の荷重の掛け方は何点。頼んでもいないのに、あいつは乗り心地へ勝手に数字を付けて、あたしは、やめろと言いながら半分笑って聞く。今夜は、その声の入る場所が空いたままだ。空いた場所へ、あたしがあいつの台詞を作って入れは、しなかった。想像の声で埋めた沈黙は、本物の沈黙より質が悪い。作った台詞の代わりに、額を、実際にそこにある弱い熱へ戻した。
三度の音の返りは、なかった。フレームは叩かれた分だけ鳴って、それきりだった。熱だけは額の下で、弱いまま続いていた。
揺れの中で、怖さが形になりかけた。
形になる前に、数えるものを三つに決めた。車体の傾き。減速。床下の低い電源の唸り。傾きが来て、戻る。減速が来て、終わる。唸りだけが、ずっと続いている。三つの外は、数えない。道順を描くための数じゃなかった。数えているあいだだけ、震えが観察の側にいてくれる。今夜は、それで足りた。
仕切りの向こうで、通信がひとつ開いた。
『試験室を準備しろ』
声はそれだけ言って、閉じた。試験、という言葉が通り過ぎるあいだも、車内では何も起きなかった。殻は黙ったまま、弱い熱は弱いまま、続いていた。
ノースの信号は、出発時にはまだ使われていなかった。今どうなったかは、この床からは分からない。それも、数える三つの外へ置いた。
窓は、なかった。
外の灯りが、まだ砂の中を動いているのかどうか、ここからは見えない。見えないことを、消えたことにはしなかった。まぶたの裏には、扉の最後の一筋に残っていた灯りが、まだ点いている。家族の車の座席の脇には、口を二度折った携行食が立ったままだ。あれは、置いてきた物じゃない。帰りの分だ。
*
着いたのは、音で分かった。
床下の唸りが低くなって、止まった。扉が開いても、風の音が入ってこなかった。砂の音もしない。外があるはずの方向から、外の音がまとめて消えていた。屋根の下、というより、蓋の下の静けさだった。
腕を取られて、立たされた。長く床に座っていた脚は、最初の数歩を、うまく脚の仕事にしなかった。支えられているのか押されているのか、区別のつかない力で、あたしは蓋の下の静けさの中を歩かされた。靴の裏に、砂のない床の硬さが続いた。
ここへ来たのは、命令どおり、あたしと殻だけだった。水槽の縁の爺さんがいまどうなっているのかを、ここから確かめる道はない。
部屋は、平らな光でできていた。
影が、ほとんどない。天井のどこが光っているのか分からない光り方で、立っているあたしの足元にさえ、影は薄い染みほどしか残らなかった。工房の灯りは、必ずどこかに濃い影を作る。手元を影の側から読む癖で、あたしはずっと物を直してきた。読むための影が、この部屋には用意されていなかった。
扉のほうで気配が動いて、殻が運び込まれてきた。
男が二人、歩幅を合わせて水平を崩さないまま部屋を横切って、中央の台の上へ、音を立てずに殻を下ろした。壊れ物の運び方は、ここまで続いていた。試験のための台だと、置き方で分かった。据えられた殻へ、台の外から何本かの線が寄せられて、外側から順に取り付けられていく。あたしはその間、扉の内側で押さえられたまま、取り付けのひとつずつを目で追った。
線が付き終わる頃、手首の留め具が外された。
固まっていた腕は、すぐには下りてこなかった。肩から順に、他人の腕みたいにほどけていく。指は、最後にほどけた。後ろで組まされていた形を憶えたまま、開くのに時間の掛かる指だった。外れた手首には、締められていた痕が熱を持って残って、擦ると、痛みが一拍遅れて追いかけてきた。開いた掌は、影のない光の下で、皺まで平らに見えた。
殻の古い面は、こちらを向いていた。
外から線を受けても、二行は、二行のままだった。別の口が開いたと告げる表示も、どこにも増えなかった。中で何が保たれているのかを、この距離から言い切る術はない。殻は撃たず、話さず、平らな光の下で、黙って物の形をしていた。物の形の奥で、あの弱い熱が続いているはずだった。確かめられる距離に、あたしはまだいない。
男たちは何も言わずに出ていき、扉が閉まって、外側で施錠の音がした。蓋の下の静けさの中で、その音は長く尾を引いた。開ける手は、こちら側にはない。
扉。平らな光。台。黙った殻。見えているものを順に置いて、膝が震えたまま、台のほうへ一歩進んだ。一歩の分だけ、継ぎの溝に残ったわずかな暗さが近くなった。影のない部屋で、暗さと呼べるものは、もうそこにしか残っていなかった。
喉の奥に、砂と一緒に飲み込んだままの次の名前が、また上がってきた。呼ばなかった。ここで呼べば、向こうから来る音があっても、あたしの声で塞いでしまう。名前は、喉の手前で止めておいた。
どこかで、装置がひとつ、起きた。
低い唸りが立ち上がって、すぐに澄んだ。砂を噛まない、綺麗すぎる立ち上がりだった。同じ立ち上がりを、あたしは二度だけ、聞いたことがある。
『こんにちは、使用者様』