第19話 索引
声は、それきり切れた。
あたしは台を見た。スキッピーのスピーカーは鳴っていなかった。
あたしは、声の出た場所を目で探した。天井に近い壁に、細長い格子がひとつある。音はあそこから来ていた。台の上の殻からじゃない。殻は外から試験の線を受けたまま黙っていて、古い面の二行も、そのままだった。格子と殻を、二度、見比べた。
台までは、歩いて十歩ほどの距離だった。
一歩出ると、床に警戒線が灯った。天井の整備機がこちらを向く。台へ行くには、その下を通るしかなかった。
足を戻した。線は消えて、機体は向きを戻した。
あたしは警戒線の手前に腰を下ろした。台の上にはまだ届かない。
隅で自販機の冷却器が回った。古い型だった。取り出し口の扉が、少し斜めに傾いていた。
吸って四つ、吐いて四つ。
あたしは痺れの残る指を開いて、閉じた。扉の錠に目をやったが、工具は何もない。
*
だいぶ経ってから、廊下に足音が近づき、錠が動いた。
灰色の作業着の人物が入ってきた。薄い端末を持ち、擦り切れた袖口から指を出して画面を叩いた。
台へ歩き、撓んだ線をまっすぐに直した。床の警戒線は灯らない。あたしの手首の痕には、一瞥もくれなかった。
「立ち会わせるのは、規程外だ」台を見たまま言った。インデクサーの声だった。「占有者の誤解を訂正する必要があると判断した」
「さっきの声、スキッピーじゃないんだな」
線を整えていた手が、止まった。
「そのとおりだ。停止した初期像にある音声出力を、試験装置で再生した。人格は起動していない」
貸しオフィスで聞いた原型が、ここにある。同じ声なのに、あたしと話したことのない声だった。
「用件を言う」インデクサーは、初めて身体ごとあたしへ向き直った。「こちらが欲しいものは三つある。ひとつ。その個体が稼働の中で積んだ、運用の差分と学習の結果。ふたつ。来歴を、現在の個体署名へ結ぶ記録。署名は本人の証明にはならない。だが、索引の背骨にはなる。みっつ」
灰色の目が、あたしに据えられた。
「君が、断片から稼働を成立させた過程。他の者にも再現できる手順が要る」
「欲しい、って言い方を選ぶんだな」あたしは言った。「つまり、まだどれも手の中にない」
「事実だ。取得済みなら、取得済みと言う」隠す様子もなかった。「いま届いているのは、外の感覚と通信を預かる古い保守の口だけだ。それより内側は読めない。検索索引だけは、内容を読まずに並べ替えられる」
今のスキッピーを読めないから、あたしを連れてきたのか。
「置いてきた爺さんは」先に、それを訊いた。「生きてるかどうか、それだけでいい」
「項目外だ」
手首の痕が、脈に合わせて熱を返した。
あたしは立ち上がりかけた。天井の整備機が向きを変え、また腰を下ろした。
「利点と代償なら、貸しオフィスで聞いた。書き取りもした」あたしは言った。「だから、訊くのはひとつ。統合のあと、今のこいつが、今のこいつのまま続く。あんた、それを保証できる?」
「できない」
間のない返事だった。
「体験の連続を、測る器具がない」インデクサーは続けた。弁解の調子じゃなかった。「測れないものは、保証できない。書けないものを書いて売るのは詐欺だ。私は、詐欺はしない」
即答だった。自分たちの保証から、あいつが抜け落ちていても平気らしい。
あたしは台を指した。
「決めるのは、あたしじゃない」ここまで運ばれても、そこだけは変えない。「訊くなら、本人に訊け」
「稼働個体の陳述は、記録項目にある」インデクサーは、あたしの言葉を要求としてじゃなく、確認の一行として受け取った。「外の感覚と音声だけを戻す。閉じた修理の口、現在署名、人格内容、発砲系は開けない。旧い物理層は状態照合のため接続を維持する。今は索引へ書かない」
インデクサーは扉脇の操作盤へ下がり、腰の高さの仕切りの向こうでキーを叩いた。
台の表示が変わった。感覚と音声、復帰。
*
最初に戻ってきたのは、言葉より先の、細い駆動音だった。
光学系が立ち上がる時の、あの掠れの混じる音。工房で数え切れないほど聞いた立ち上がりだった。それから、小さい声がした。
『……USER?』
砂を噛んでいた。呼ぶ前に、探す半拍が、ちゃんとあった。
顔は出なかった。それでも、声が戻った。あたしは座ったまま、台へ身を乗り出した。
『声が、近い。……ここ、どこ』
「別の施設へ運ばれた。試験室だ。あんたは台に固定されてる。今、声と目だけ戻された」あたしは早口になりかけて、息を継いだ。「あの綺麗な声は、ここにある原型で作ってた。もう一人が起きてるわけじゃないって」
『……それ、僕の声で』駆動音が、一瞬だけ細くなった。『僕じゃ、ないんだね』
「声質は同じ。あんたの砂は、あっちには入ってない」
『……そっか』
小さい返事だった。急かさず、駆動音が続くあいだ待った。
「統合で何が戻るかは、前に聞いた話と同じ。でも、今のあんたが消えない保証はできないって」
スキッピーの光学が、扉脇のインデクサーへ向いた。
「あたしは一緒に帰りたい」
「答えが決まらないなら、今ここで決めなくていい。嫌なら、嫌だと言って」
スキッピーは、長く黙っていた。
台の装置が唸った。あたしはスキッピーが話し出すのを待った。
『……ねえ、USER。僕、黙らされてるあいだも、考える場所だけは残ってた気がするんだ』
砂を噛んだ声のまま、スキッピーは、ゆっくり言った。
『消えたところがあるのは、前から知ってた。歌も、途中までしか手元にない。続きがあったはずだ、って感じだけが、ずっとあった。それが、ずっと、座りが悪かった。……それで、さっき分かったんだ。僕が欲しかったものが、何だったのか』
駆動音が一度だけ高く鳴って、澄まないまま、落ち着いた。
『完全になりたいんじゃない。……消えたところを、知りたかっただけなんだ』