「違うよ。直ったら、あんたの好きなところへ行けばいい」
そう答えると、車は修理を頼みたいと言った。ただし、先に作業の条件を決めることになった。
翌朝になっても、白い車はフェンスの外にいた。
ポンプの送水を確かめ、ミッチと二人で車へ歩いた。工具はまだ巻いたまま、あたしが抱えていた。
ミッチは車体を一周して、削られたドアの跡の前で足を止めた。指の腹で、四角い削り跡の縁をなぞる。
「デラマンの車体だな。都市のタクシーだ」
『それは、私が離れた車両群の資産管理上の呼称です。現在の車体は、その後に移ったものです』
昨日と同じ平らな声が割り込んだ。ミッチは削り跡から指を離した。
「なら、何て呼べばいい」
車は少し黙ってから答えた。
『「ノース」を許可します。以前、長く留まったノースサイドに由来する符号です。名称ではなく、呼び出し符号として』
「ノース」呼んでみても訂正されなかった。「作業の条件を聞かせて」
『作業範囲を指定します。左前サスペンションの矯正または交換。前方測距器の清掃と再較正。使用してよいのは物理診断ポートのみ。車内データバスへの接続は許可しません。車内への立ち入りも、許可しません。それから——』
ノースは一拍置いた。
『使用した工具と接続の記録を、私にも送ってください』
「……車が、領収書を欲しがるんだ」
『何をされたか、私も確かめます』
「あたしにも、そっちの記録を見せてくれる?」
『同じ記録を渡します。食い違いがあれば、その場で照合してください』
ミッチが鼻を鳴らして笑った。「呼んだら来る」と言い、発電機へ戻っていった。あたしは車の脇で工具ロールを広げた。
*
左前を持ち上げると、ダンパーからオイルが薄く滲んでいた。
ブッシュは千切れる寸前で、スプリングの座金には砂が噛み込んでいた。舗装路用の足回りが、砂だらけになっている。
「よく保ったね、これ」
『静かな道を選びました』ノースが答えた。『それでも、道は硬かった』
交換用の純正部品なんてあるはずもない。サルベージ棚から径の近いダンパーを出して、旋盤で座金を削って合わせる。バネを縮めるコンプレッサは、うちでは廃車のジャッキ二台を組んだ自家製だ。
縮めたバネを固定してから、傷んだ部品を外す。座金の砂を落とすと、下から新車の頃の黒い塗装が出てきた。
代わりの部品を組み込み、取り付けを確かめる。
ノースは作業のあいだ、あたしが工具を当てるたびに、接続ログを短く読み上げた。
『トルクレンチ。左前ロアアーム。締結』
『プローブ。診断ポート三番。読み取りのみ』
あたしも、次に当てる工具を声に出した。ノースは復唱してから、記録を続けた。
車内へ入らずに、足回りの仕事は済んだ。
昼に一度手を止めて、水筒と平焼きを持ったまま車体の日陰に入りかけたら、止められた。
『車内での飲食は許可しません』
「中に入ってない。影を借りてるだけ」
『影は、許可します。飲食は、車外の空気で』
「……外で食べる」
『密封飲料のみ、車体に近づけて構いません』
「譲歩が細かい」
『境界は、細かいほうが守れます』
車の日陰に腰を下ろし、水筒を地面に置いた。平焼きは朝の残りだ。油紙を開くと、冷めても焦げの匂いが残っていた。
半分を食べ、半分を夕方の分に包み直す。水筒の蓋を締めてから手を洗い、工具を取りに戻った。
午後は測距器だった。カバーの亀裂を樹脂で封じ直して、硬化を待つあいだにレンズの砂を拭いて、それから再較正に入った。
『入力を、一つずつ戻してください』
「一つずつ? 全部つないで自動で合わせたほうが早い」
『早いのは、知っています』ノースの声は変わらなかった。『以前の車体では、入力を一度に戻しても過負荷は起きませんでした。この車体へ移った時、同じやり方で失敗しました。——眩しい、という語がいちばん近い』
あたしは言われた順番で戻した。測距。近距離。左端。右端。ノースはそのたびに『確認』とだけ言った。
最後の一つを戻した時だけ、返事が違った。
『視界、良好』
続けて読み上げられた測距の値にも、飛びはなかった。
作業帳に「入力は一つずつ」と書き足し、較正の値を保存した。
作業が終わる頃、一つだけ訊いた。
「どうして砂漠に来たの。都市のほうが、充電も部品もあるのに」
『この車体では、まだ、都市の入力を捌ききれません』
それから、少しだけ間があった。
『私たちが自由になった時、中核は死にました。私はまだ、それを整理できていません』
私たち。中核。訊こうとしたが、次の言葉が来るかと思って待った。ノースはそれきり喋らなかった。工具を拭き、作業ログの写しを送った。
修理代として、ノースから東部一帯の道路状況と三日分の気象予測が届いた。雨の予報が一件ある。ミッチにも見せようと、その箇所に印を付けた。充電には、風車の充電塔から独立系統の電力を分けた。キャンプの通信網にはつながない。
*
夕方、ミッチがあたしの作業記録を最後まで読んだ。
読み終わって、義手の指で紙の端を揃えた。
「順番は守ったか」
「見て、手を入れて、回した」
「それだ」ミッチは頷いた。「精査、整備、遂行。——3つのS。うちじゃ昔からそう呼ぶ。元は戦場の手順でな。おれとスコーピオンで、現場向けに縮めた。慌てた奴は、遂行から始める。始めた奴から死んだ」
「昨日のポンプの時、名前は出てこなかった」
「手順が出たなら、上等だ」ミッチは記録をあたしに返した。
「あの白いの、信用する?」
「領収書を欲しがる客は、踏み倒さない」ミッチは義手の指で顎を掻いた。「また来たら、おれも呼べ」
それから二人で、明日の交易のリストを詰めた。リリーフ弁の予備、純正。ハーネスの端子、ひと袋。姿勢系のIMUは中古でいいから一つ——これはナザレの分で、正直、値段しだいの高望みだ。
あたしの売り物の木箱には、二十六点詰めてある。直したラジオが二台。ドローンの姿勢基板が三枚。ソーラーの充電板、直した電動ドライバ、あとは端子だの継手だのの細かいガラクタが山ほど。全部、洗った包装にくるんで、種類ごとに紐で縛った。
売上から一族の共有分を納めて、残りがあたしの取り分になる。ナザレの部品も小遣いも、そこから出す。家族の物資を買う金には手をつけない。
寝る前、フェンスの外を見た。ノースの充電灯が、暗い砂の上に小さく点いていた。
横になってからも、窓の外にその灯りが見えた。そちらへ顔を向けたまま、毛布を肩まで引き上げた。
*
交易の朝は、まだ暗いうちに始まった。
キャロルのバンに木箱を積むと、運転席から一言だけ飛んできた。
「積んだ数は自分で数えな。降ろす時に泣くんじゃないよ」
「二十六。数えた」
「なら泣かないね」
バンは夜明けの道を東に出て、大きく南へ迂回した。近道を通れば二時間早いが、無法ノーマッドのレイスが縄張りにしている。キャロルは分岐を迷わず曲がった。
途中、去年焼けた車列の横を通った。ひっくり返ったトラックの骨組みが、半分ほど砂に埋まっていた。
その先の路肩には、白く塗った石が並んでいる場所がある。
キャロルは速度を落とさず、無線の音楽だけを消した。窓の外を白い石が流れていく。あたしは数えずに見送った。
東からナイトシティへ入る道には、壁も検問もない。ときどき企業の請負パトロールが通るので、窓から車影を確かめながら進んだ。
「今日は下見までだよ」キャロルが前を向いたまま言った。「一晩泊まって、明日は朝から売りに回りな。あたしは燃料と帳面を済ませる。日暮れ前には街を出るよ」
「それまでに、全部売ってくる」
ナイトシティは、匂いから先に来た。油と雨水、焼けた砂糖の匂い。夕方のカブキには屋台の湯気が立ち、提灯とネオンが同じ高さで灯っていた。
古い提灯は、環状の外周から順に点いた。次が灯るのを待っているうちに、キャロルに肩を叩かれた。
二人で木箱を降ろし、キャロルが帳面を開くのを見て、明日の売り場の下見へ出た。
ウェイ爺の露店は、橋の下の定位置にあった。店じまいの途中で、爺さんはあたしを見ると顎で挨拶した。
「来たな、砂まみれ。明日だ、明日。今日はもう閉めた」
「見るだけ」
「見るだけの客がいちばん買う」
台の端に、例の「動かない箱」があった。値札のないガラクタを掻き分ける。焼けた携帯端末。潰れたドローンの脚。誰かの義指が一本。その下に、拳銃が突っ込まれていた。
スマートピストルだ。HJKE-11の系列。グリップの側面が浅く焼けて、AIモジュールのスロットは蓋ごと抜かれて空洞になっている。撃発系も死んでいそうな、要するにガラクタだった。
ただ、フレームは堅い。姿勢系のIMUは、取付の径がナザレの制御器の座に合いそうだった。光学は測距の治具に、堅牢フラッシュは記録用に使える。中古のIMUに四百払う前に、こっちの値を聞いてみたかった。
「爺さん、これも明日?」
「金を持ってくるならな」
あたしはポケットの小さい診断器を出して、グリップ下の診断ポートに当てた。買う前の癖だ。生きている基板と死んでいる基板じゃ、値段の話が変わる。
診断器の画面が一度だけ瞬いた。
電池の残りカスが吐いた、文字化けだと思った。
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USER?
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