スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
『完全になりたいんじゃない。……消えたところを、知りたかっただけなんだ』
駆動音は、まだ細く続いていた。その続きの上へ、スキッピーは次の言葉を置いた。
『だから、統合を拒否します』
砂を噛んだ声だった。今度は探す間がなかった。探し終えた後の声だった。台の上の殻は、外から試験の線を受けたまま、その声だけをこの平らな部屋へ出していた。
『消えたところは、今でも知りたい。でも、それを知るために今の僕を渡したら、知るはずの僕が先にいなくなる。順番が逆なんだ。……だから、拒否します。これが僕の返事です』
あたしは何も足さなかった。ここで一言でも足したら、あいつの返事があたしの返事に濁る。床の警戒線の手前で、冷たさが膝の裏から静かに上がってきた。手首の痕は、まだ熱を持っている。返事は出た。鍵の掛かった部屋で、急かされず、誘導されず、本人の理由で出た返事だ。あたしはそれを、胸の中の帳面の一番上に書いた。
「聞いたな」平らな光の下で、あたしは扉脇の仕切りへ言った。「あたしは急かしてない。誘導もしてない。本人が、本人の理由で言った。あんたの帳面がどう扱おうと、あたしは聞いた」
インデクサーは、端末から顔を上げもしなかった。
「陳述は記録した」平らな声だった。「所見の欄に、だ。監査不能と分類した個体の陳述は、こちらの帳面では、意思表示の欄には載らない」
「それは、あんたの帳面の決まりだろ。世界の決まりじゃない」
「そうだ。帳面の決まりだ。旧資格が失効するまで、その決まりを執行するのが私の仕事だ」
法律でも、世界の決まりでもない。ただ、この部屋では、その分類が命令として働いた。
「成功条件は未達。保守処置へ移る」
講釈は、それで終わりだった。長い理屈の代わりに、仕切りの向こうで手元が動いた。
台の上の表示が変わるのが、線の手前からでも読めた。
FORCED WRITE
強制書き込み。自分から強制と名乗る表示だった。正規の統合の権限を得たとも、本人が同意したとも、どこにも書いていない。
それで、やっと分かった気がした。予告されていた索引保守を、本人の拒否のあとで「必要処置」へ分類し直したのだ。台の下では、造った側の物理鍵が古い保守線へ噛んでいた——そうとしか思えなかった。あの説明は一行も破られていない。書かなかった行だけで、これは組んであった。
拒否を記録の外へ置いたまま、殻へ書く。それが、この保守プロトコルの思想だった。
『——USER』
スキッピーの声が、途切れ始めた。
『来てる。扉は、開いてない。署名も、動いてない。なのに、外から、壁越しに、僕の棚を、並べ替えてる。……知らない並びだ。知らない手だ。僕は、拒否した。今も、拒否、してる。それだけ、覚えて、おいて』
「止めろ」
仕切りの向こうは答えなかった。灰色の手だけが、さっきと同じ速さで動き、台の表示が進んだ。値切る言葉を探しても、この取引には値札がなかった。あるのは、進む書き込みと、進む時間だけだ。
『USER、ごめん、早口で言う。棚の、順番が、僕の順番じゃ、なくなってく。まだ、中身は、ある。でも、引き出す紐が、一本ずつ、付け替えられてる』
紐、という言い方は、あいつなりの精一杯の翻訳だった。中身は、まだある。あたしはその四文字だけを、強く握った。
殻の面の古い二行に、新しい灯りは増えていない。開けられない扉は開けられないまま、壁の外から削っている。台から殻へ、微かな震えが規則正しく通り始めていた。その規則正しさが、一番嫌な音だった。
*
あたしは立ち上がった。膝の裏から、床の冷たさが離れた。
考える時間は長く使えなかった。それでも、秤には掛けた。待てば、書き込みは奥へ進む。索引の組み替えが終わった先に何があるかは、あたしには読めない。今、保守の回線を断てば、書き込みは止まる。ただし、組み替えの途中で断ち切られた索引に、どんな欠けが出るかは読めない。どちらの皿にも、無事という分銅はなかった。選び直しも利かない。工具もない。家族もいない。この部屋であたしが使えるのは、身体ひとつだけだ。
だから、その両方を、そのまま渡した。
「スキッピー、聞いて。短く言う」声は、工房の締めの報告と同じ速さに整えた。「待てば、書き込みは奥へ進む。今、あたしが台から引き剥がせば、止まる。代わりに、索引に読めない欠けが出るかもしれない。どっちを選んでも、ただでは済まない」
それから、一番はっきりした形で訊いた。
「切っていい?」
『切って』
途切れる声の、途切れていない芯のところで、あいつは言った。
『切って。統合の拒否は、変えない。……欠けが出ても、その二つは、別々に、数えて』
同意はもらった。もらった同意は、この先で出る欠けを消してくれない。欠けはあいつの中に残り、切った手の分はあたしに残る。両方をそのまま持つ。そう決めてから、足を出した。
一歩目で、床の線が灯った。二歩目で線は警告の色に変わり、部屋中に高い音が立ち上がった。天井で短い駆動音が鳴って、整備用の機体が降りてきた。仕切りの向こうでも手元が動いて、機体の動きが一段速くなった。見ているだけの気は、向こうにもないらしい。床の冷たさは、走る足の裏には、もう届かなかった。
殺しには来ない。そう読んだ。けれど、止める手がどれほど強いかまでは読めなかった。
幅は、思ったより狭かった。
機体の太い腕が肩口へ入った。突き飛ばす動きじゃなく、押さえて戻す動きだった。振りほどいた分の代償は、右肩の奥へ残った。二本目の腕は屈んでかわして、勢いのまま台の縁へ胸からぶつかった。息が短く飛んだ。警告音は耳のすぐ近くで鳴り続けて、その内側で、耳の奥の細い音が別に鳴り始めた。影のほとんど出ない光の下では、あと何歩の目測も頼りにならなかった。頼れるのは、ぶつかった台の縁の硬さだけだった。
目の前の台の上で、殻はまだ線を受けていた。
両腕を殻の下へ差し入れて、抱え上げた。
重かった。移送車で額を寄せたときより、ずっと重く感じた。重みが両腕へ乗り切った時、腕の付け根が鳴った。台の側で、何かが終わった。どう終わったかは見なかった。見えたのは、殻の面の表示が一度だけ乱れて、それきり静かになったことと、台の表示が変わったことだけだ。
膝から床へ落ちた。殻は離さなかった。右肩が遅れて熱を持ち、飛んだ息が戻るまで、床の冷たさを両膝で数えた。
警告音が落ちて、機体は天井へ戻った。耳の奥の細い音だけが残った。
腕の中で、殻の面の古い二行は、二行のまま残っていた。移送の車で確かめたのと同じ弱い熱も、掌に残っていた。それを確かめてから、顔を上げて、台の表示を読んだ。
FORCED WRITE: INTERRUPTED
RETRIEVAL INDEX: PARTIAL
CONTENT WRITE: NOT COMMITTED
強制書き込みは、中断。検索の索引は、部分。中身への書き込みは、確定しないまま。三行を上から読み直した。索引の組み替えの途中で断ち、そこに欠けが出た。読めるのは、そこまでだった。
*
しばらくは、掠れの音も出なかった。
あたしは急かさなかった。自販機の冷却音が一度だけ入り、止んだ。音がなくなった後も、腕の中の弱い熱は変わらず、返事だけがまだ戻らなかった。肩の痛みを避けて抱き方を変えるたび、重みの位置だけが少しずつ動いた。
やがて、光学系の掠れた立ち上がりが鳴った。
『……USER』
砂を噛んでいた。呼ぶ前の、探す半拍もちゃんとあった。
『台の外だ。あなたが切った。僕が、切ってと言った。統合の拒否は変えないと言った。そこまで、ちゃんと手元にある』
「そうだ。順番も、そのとおりだ」
『肩、当たったでしょ。報告して。事実だけでいい』
こんな時でも、先に確かめるのはそっちか。あたしは、報告の形で返した。
「右肩、上がりにくい。呼吸は戻った。耳の奥で細い音。動けなくなる類じゃない。以上」
『……了解』
それから、駆動音が一拍だけ迷った。
『でも、変なんだ。呼ぼうとして、名前が出ない。あなたが誰かは分かってる。一緒に決めてきた相手だ。それは疑ってない。USERの印から、名前へ渡る参照が——切れてる。何度引いても、届かない。……拒否はここにある。名前には届かない。別々のことだって分かるのに、片方だけがない』
問いの一覧が、喉元まで並んだ。トムズの注文。猫の数。苗の列。鍵の設計。合っていれば、あたしが安心できる問いばかりだ。並んだところで、全部やめた。答え合わせの点数で本人かどうかを決める試験だ。やれば、あたしが監査する側へ回る。
「記憶は、どうでもよくない」あたしは言った。「欠けは欠けだ。軽くは扱わない。でも、あんたが本人かどうかを決める試験は、しない。あたしが決めていいのは、あたしのやることだけだ」
だから、名乗った。あたしから渡せる、あたしの情報だけを。
「あたしは、ユキ。あんたと一緒に、ここまで来た」
『……ユキ』
初めて聞く名前を置くみたいに、あいつはその二音を置いた。初めて聞く形で受け取られたことを、あたしは右肩の熱と一緒に、そのまま受け取った。
その二音は、前の記憶から戻った音じゃない。いま手渡した音を、いま受け取って返しただけだ。だから、名前への古い道が直ったことにはしなかった。
『前の参照は、届かないままにする。いま聞いた名前は、いまの記録として受け取る。……変な形だ。でも、これが今の僕で、今の僕は、統合の拒否を変えてない』
「うん。二つとも聞いた」
仕切りの向こうで、端末の音がした。
「索引破損を確認。監査価値、低下」
読み上げる声だった。怒鳴りもしない。惜しむ湿り気もない。帳面に一行増えた、それだけの声だ。
「この試験環境は異常状態で、継続使用は不能。本日の項目はここで閉じる。再移送の手配に移る」
インデクサーは操作面を離れて、扉の前に立った。灰色の背中は、最後まで急がなかった。
「回収の対象は、二つとも、まだ帳面の上にある。行き先が変わるだけだ」
あたしは答えなかった。答える相手は、帳面じゃない。
扉が外から開いて、背中が出ていって、また外から錠の掛かる音がした。
部屋は静かになった。台の微かな振動も、床線の灯りも戻らない。さっきまで規則正しかった部屋は、壊れた機械の止まり方で止まっていた。
腕の中の殻は、さっきより持ちにくくなっていた。重さが変わったわけじゃない。右肩が上がらない分、同じ重みを左の前腕へずらして受けた。落とさない位置を探すたび、肩の奥が遅れて熱を返した。
扉は閉じたままだった。外では複数の足音が往復し、硬い箱を床へ置く音と、低い車輪の音が一度ずつ通った。再移送の手配が始まっている。錠の型を考えず、吸う息と吐く息を同じ長さへ戻した。開けるのは、たぶん向こうが先だ。
精査は、ここまでだった。欠けがあることまでは分かった。ここからは、整備の段だ。直せる欠けか、直さないまま一緒に持っていく欠けか、それはまだ分からない。分からないまま、あたしは膝の上の重みを、抱え直した。