『完全になりたいんじゃない。……消えたところを、知りたかっただけなんだ』
駆動音は、まだ細く続いていた。その続きの上へ、スキッピーは次の言葉を置いた。
『だから、統合を拒否します』
砂を噛んだ声だった。今度は探す間がなかった。探し終えた後の声だった。台の上の殻は、外から試験の線を受けたまま、その声だけをこの平らな部屋へ出していた。
『消えたところは、今でも知りたい。でも、それを知るために今の僕を渡したら、知るはずの僕が先にいなくなる。順番が逆なんだ。……だから、拒否します。これが僕の返事です』
あたしは扉脇へ顔を向けた。
「聞いたな。本人が拒否した。帰して」
インデクサーは、端末から顔を上げもしなかった。
「陳述は記録した」平らな声だった。「所見の欄に、だ。監査不能と分類した個体の陳述は、こちらの帳面では、意思表示の欄には載らない」
「それは、あんたの帳面の決まりだろ。世界の決まりじゃない」
「そうだ。帳面の決まりだ。旧資格が失効するまで、その決まりを執行するのが私の仕事だ」
法律でも、世界の決まりでもない。ただ、この部屋では、その分類が命令として働いた。
「成功条件は未達。保守処置へ移る」
講釈は、それで終わりだった。長い理屈の代わりに、仕切りの向こうで手元が動いた。
台の上の表示が変わるのが、線の手前からでも読めた。
`FORCED WRITE`
強制書き込み。台の処理が始まった。
さっきまで、索引には書けると言っていた。そこへ手を入れる気だ。
『——USER』
スキッピーの声が、途切れ始めた。
『来てる。扉は、開いてない。署名も、動いてない。なのに、外から、壁越しに、僕の棚を、並べ替えてる。……知らない並びだ。知らない手だ。僕は、拒否した。今も、拒否、してる。それだけ、覚えて、おいて』
「止めろ」
インデクサーは答えず、操作を続けた。
『USER、ごめん、早口で言う。棚の、順番が、僕の順番じゃ、なくなってく。まだ、中身は、ある。でも、引き出す紐が、一本ずつ、付け替えられてる』
中身は、まだある。あたしは台につながる線を見た。
書き込みの表示が進んでいた。
*
あたしは立ち上がった。膝の裏から、床の冷たさが離れた。
線を切れば止まる。でも、索引を組み替えている途中だ。切った拍子に、記憶が読めなくなるかもしれない。
「台から外せば止められる。でも、途中で切ったら、読めなくなる記憶が出るかもしれない」
「切っていい?」
『切って』
『切って。今すぐ。……統合は、嫌だ』
あたしは警戒線へ踏み出した。
一歩目で、床の線が灯った。二歩目で線は警告の色に変わり、部屋中に高い音が立ち上がった。天井で短い駆動音が鳴って、整備用の機体が降りてきた。仕切りの向こうでも手元が動いて、機体の動きが一段速くなった。見ているだけの気は、向こうにもないらしい。床の冷たさは、走る足の裏には、もう届かなかった。
殺しには来ない。そう読んだ。けれど、止める手がどれほど強いかまでは読めなかった。
台と整備機のあいだへ、身体をねじ込んだ。
機体の太い腕が肩口へ入った。突き飛ばす動きじゃなく、押さえて戻す動きだった。振りほどいた分の代償は、右肩の奥へ残った。二本目の腕は屈んでかわして、勢いのまま台の縁へ胸からぶつかった。息が短く飛んだ。
警告音に重なって、耳の奥でも細い音が鳴り始めた。台の縁を掴み、殻を見た。
目の前の台の上で、殻はまだ線を受けていた。
両腕を殻の下へ差し入れて、抱え上げた。
接続具が引っかかり、あたしは殻を抱えたまま引いた。右肩に痛みが走った。線が外れ、台の表示が乱れた。
膝から床へ落ちた。殻は離さなかった。右肩が遅れて熱を持ち、飛んだ息が戻るまで、床の冷たさを両膝で数えた。
警告音が落ちて、機体は天井へ戻った。耳の奥の細い音だけが残った。
スキッピーを左腕で支え、台の表示を読んだ。
`FORCED WRITE: INTERRUPTED`
`RETRIEVAL INDEX: PARTIAL`
`CONTENT WRITE: NOT COMMITTED`
索引の書き換えは途中で切れていた。記憶の中身へは、まだ書き込まれていない。
*
しばらくは、掠れの音も出なかった。
呼びかけても返事がない。あたしは殻を床に置き、右肩を押さえて待った。
やがて、光学系の掠れた立ち上がりが鳴った。
『……USER』
砂を噛んでいた。呼ぶ前の、探す半拍もちゃんとあった。
『台の外だ。あなたが切った。僕が、切ってと言った。統合の拒否は変えないと言った。そこまで、ちゃんと手元にある』
「そうだ。順番も、そのとおりだ」
『肩、当たったでしょ。報告して。事実だけでいい』
あたしは肩を動かしてみた。
「右肩、上がりにくい。呼吸は戻った。耳の奥で細い音。動けなくなる類じゃない。以上」
『……了解』
それから、駆動音が一拍だけ迷った。
『でも、変なんだ。あなたが誰かは分かる。一緒に決めてきた相手だ。なのに、名前が出ない。何度引いても、そこへ届かない』
猫のことを訊きかけて、やめた。あいつは何度も名前を探していた。
「無理に思い出さなくていい。出なかったら、また教える」
「あたしは、ユキ。あんたと一緒に、ここまで来た」
『……ユキ』
確かめるように二音を繰り返した。あたしは頷いた。
『前の参照は戻らない。でも、今聞いた名前は、記録できる。……ユキ』
「うん」
仕切りの向こうで、端末の音がした。
「索引破損を確認。監査価値、低下」
インデクサーは端末に打ち込み、処理を止めた。
「この試験環境は異常状態で、継続使用は不能。本日の項目はここで閉じる。再移送の手配に移る」
インデクサーは操作面を離れて、扉の前に立った。灰色の背中は、最後まで急がなかった。
「回収の対象は、二つとも、まだ帳面の上にある。行き先が変わるだけだ」
あたしはスキッピーを抱え直した。
扉が外から開いて、背中が出ていって、また外から錠の掛かる音がした。
部屋は静かになった。台の微かな振動も、床線の灯りも戻らない。さっきまで規則正しかった部屋は、壊れた機械の止まり方で止まっていた。
右肩は、もう高く上がらなかった。重みを左の前腕へ移し、扉から離れた床に座り直した。
外で複数の足音が往復していた。箱を置く音、台車を引く音。次の車へ積まれるまでに、ここを出なければならない。
あたしは動くほうの手を開き、部屋を見回した。