スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077   作:imamo

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第3話 カブキの猫

 カブキの朝は、匂いの層でできている。

 

 いちばん下に昨夜の雨水と油。その上に屋台の湯気。いちばん上に、揚げた合成油の甘い焦げ。環状交差点をぐるりと巡る市場は、朝の光の中でもネオンを消さない。消すという発想が、たぶん最初からない。

 

 あたしの仕事は単純だ。持ってきた二十六点を売って、ナザレの姿勢部品とポンプのリリーフ弁を買って、日が落ちる前に市場を出る。

 

 バンは環状の外側に停めて、キャロルは帳面と燃料の用事に消えた。別れ際に一言だけ。

 

「稼ぎは自分で守んな。ここのスリは挨拶より速い」

 

 売り場は、いつもの中古屋の軒先だ。場所代の代わりに、店主の棚の詰まった引き出しを直す。それがあたしと店主の、三年目になる取り決めだった。

 

 今月の詰まりは二段目だった。レールの砂を掻き出して、蝋を薄く引く。開け閉てが軽くなると、店主は「あと十年は戦える」と引き出しに向かって言った。あたしにじゃなく。直った物には直った物の挨拶がある街だ。

 

 直したラジオ二台は、鳴らして見せたらすぐ捌けた。

 

「音が出るだけだろう」最初の客は、値切りの顔で言った。あたしはダイヤルを回して、ノイズの海から局を三つ、続けて掴んで見せた。「音じゃなくて、直りを売ってる。三つぶんの値で」客は笑って、言い値で払った。

 

 音が売るんじゃない。直っている、という事実が売る。

 

 ドローンの姿勢基板は三枚とも、部品屋のおばさんが渋い顔で全部買った。

 

「渋い顔は、値段の顔」おばさんは金を数えながら言った。「品物の顔じゃないよ」

 

「知ってる」

 

 残りの細かいガラクタは、山にして量り売りにした。継手だの端子だの、一個ずつ売る手間のほうが高くつく連中だ。昼前に木箱が空になって、しめて四百と少し。そこから一族の共有分を取り分けると、あたしの手元は思ったより軽くなった。

 

 軽くなった分は、家族の水と燃料になる。そういう仕組みだと分かっていても、財布の軽さには、ため息が一つ出る。ため息の行き先は、もう決まっていた。四百の中古IMU。今日の買い物の、いちばん高い山だ。

 

 空いた木箱を担いで歩き出したところで、足元を砂色のものが横切った。

 

 猫だ。右耳の先が欠けている。市場の隙間を、水が流れるみたいに抜けていく。ナイトシティで生きた獣を見るのは、月に一度のこの日でも当たり前のことじゃない。鼠が増えた年に、市が野良猫を放ったという噂は聞いたことがある。噂の生き残りが、屋台の下に消えるまで、あたしは見送った。

 

 見送ってから、気づいた。あたしは息を一つぶん、ゆっくり吐いていた。獣は、いるだけで人の肩を少し下げる。都市がそれを珍しい物にしたのは、たぶん、街の側の損だ。

 

   *

 

 橋の下へ回る前に、寄る場所が二つある。

 

 一つ目は自販機だ。橋脚の陰の、交易路から少しだけ外れた位置に、古いSCSMが一台立っている。あたしはそいつを「二秒遅れ」と呼んでいる。

 

 買う前に、一周する。筐体の角の錆。サービスパネルの工具傷は、前に見た三本のまま増えていない。補充のシールだけ新しい。しゃがんで取り出し口の縁を覗くと、ヒーターの網に埃が薄く積もっていた。

 

 決済を通す。青い表示。一秒。二秒。内側でコイルが嫌そうに半回転して、ニコーラの缶が受け取り口に落ちた。

 

 今日も正確に遅い。

 

 この二秒のあいだ、世界には何も起きない。決済は済んで、缶はまだ落ちない。誰のせいでもない、ただの古い機械の癖の時間。あたしはたぶん、この二秒を買いに来ている。

 

 都市の機械は、待たせないことに命を懸けている。広告は客より先回りして、決済は瞬きより速い。そういう街の隅で、こいつだけが堂々と遅れる。直せると思う。直さないでほしい、とも思う。矛盾は、趣味の別名だ。

 

 端末の CITY FEED を開いて、筐体の頁に一行足した。

 

KB-0417 / 遅延2.1秒 / ファン軸ぶれ継続 / 補充日更新

 

 頁を繰る時、一つ前の項目が目に入った。そこだけ、型式番号じゃなくて名前で書いてある。

 

```

BRENDAN / H8 / OUT OF SERVICE

```

 

 親指が、頁の縁で一拍だけ止まった。あたしは頁を送って、端末を閉じた。閉じた端末の角が、掌の中で、まだ少しだけ温かかった。

 

 二つ目はピザだ。バック・ア・スライスの一枚一エディは、味の名前より温度で食うものだと思っている。都市の連中は発泡スチロールの味だと笑うらしい。笑えばいい。熱くて、油が多くて、塩が強い。冷えた朝の身体には、その三つで十分ご馳走だ。

 

 前の客が三枚を箱で買っていって、鉄板の湯気が一度、あたしの顔を洗った。一エディの店の列は、身なりで並び順が変わらない。それも好きだ。合成コーヒーを両手で持って、紙カップ越しの熱で指を温めながら、立ったまま食べ終えた。

 

 隣の食品屋の棚に、透明な瓶が並んでいた。リアルウォーター。本物の水。二十エディ。

 

 水に二十は払えない。缶の炭酸が二本と、端子がひと袋買える。払える日が来ても、たぶんあたしは炭酸と部品を選ぶ。棚の前を離れる時、ちょっとだけ振り返ったのは内緒だ。

 

 振り返った先で、瓶の水は澄ましたまま棚にいた。水のくせに、いい値段の顔をしていた。

 

   *

 

 ウェイ爺の露店は、朝から開いていた。

 

「来たな、砂まみれ」

 

 爺さんは挨拶代わりに、台の下から何かを放って寄越した。受け取ると、死んだ小型ポンプだった。

 

「三十秒」

 

「……軸の焼き付き。ばらせば直るけど、工賃のほうが高い。部品取りが正解」

 

「二十八秒。腕は落ちてないな」

 

 いつもの目利き試しだ。合格のご褒美は、たぶん、動かない箱を最初に漁る権利。

 

「弁はある? ポンプのリリーフ弁。それと六軸のIMU」

 

「弁はある。三十五」爺さんは台の下から油紙の包みを出して、それからあたしの顔を見て、にやりとした。「IMUは中古で四百。今日はそれ一個きりだ」

 

「四百……」

 

 頭の中で帳簿が開く。売上が四百と少し。共有分を引いて、弁に三十五、帰りの燃料の割り勘、来月の交易までの小遣い。四百のIMUを買えば、ナザレは一歩近づいて、他の全部が二歩遠のく。

 

 迷っているあたしの前で、例の「動かない箱」の上に、砂色の猫が飛び乗った。右耳の欠けた、朝のあいつだ。猫は箱の中の焼けた端末の上で丸くなって、あたしを見た。

 

「そいつはな、こないだ混合ロットで掴まされた分だ」爺さんは首を振った。「仕入れがまた値上がりでな。箱の中身をいちいち調べてる暇なんかない。動かん物は動かん値段で売る。それだけだ」

 

 爺さんは仕入れ先の名前を言いかけて、やめた。言えば愚痴になる名前なんだと思う。借金と仕入れは、市場の商人の持病だ。持病の話は、値段に響かない日にやるものだ。

 

 あたしは猫の下から、昨日の拳銃を引き抜いた。

 

 HJKE-11。手に載せると、見た目より重い。下半分は灰色がかった白で、スライドの上面は黄色。その黄色が、砂と爪の傷でまだらに剥げている。側面には青い塗料でSKIPPYと書いてあった。商品名なのか、前の持ち主の悪戯書きなのか。グリップの浅い焼け、蓋ごと抜かれて空洞のAIスロット、死んだ撃発系。弾倉は最初から付いていない。銃としては終わっている。

 

 でも、フレームの中身は別だ。姿勢を測る六軸のIMU。外を観る光学測距。記録を抱える堅牢フラッシュ。別々の仕事の部品が、この殻の中に三つ埋まっている。四百で買うはずだったIMUは、その一つ目で済む。ガラクタの値段で。

 

「どこが死んでる」爺さんが、試すみたいに訊いた。いつもの目利き試しだ。

 

「撃発アクチュエータ。スマート照準の基板は焼き切れ。モジュールは空洞。生きてるのは骨と、目と、たぶん記憶」

 

「五十」

 

「銃としては死んでる。二十」

 

「三十五」

 

「二十と、そこの端子の山から三個」

 

「……持ってけ」爺さんは笑って、油紙の包みと一緒に押し付けてきた。「目利きの客は嫌いだね。儲からん」

 

 二十エディ。一山いくらの値段で、あたしは銃を買った。猫が箱の上で、大きなあくびをした。

 

 爺さんは油紙をもう一枚、黙って寄越した。「錆びるぞ、そういうのは。包んどけ」商売物じゃなくなった途端、爺さんの声は、少しだけ商人じゃなくなった。

 

 油紙を仕舞う前に、予備をもう一本見つけたら取っておいて、と頼んだ。爺さんは「値段次第だ」とだけ言った。

 

   *

 

 市場を出る前に、バンの端末を市場の野良アクセスポイントにつないで、HJKE-11の整備図面を検索した。フレームのシリアルを打ち込むと、古い保守図面が一枚だけ引っかかった。分解手順。ポートの位置。ネジの規格。部品取りには、それで十分だ。

 

 野良回線の接続画面には、掠れたシールが貼ってあった。利用は自己責任。市場の言葉は、いつも半分だけ正しい。

 

 帰り道は、来た道と同じ迂回路だった。夕方のリトルチャイナで一度だけ停まって、あたしはトムズ・ダイナーの扉を押した。月例の、もう一つの儀式だ。

 

 カウンターの中で、セルジオが顔を上げた。

 

「いつもの?」

 

 知っていて訊くのが、この店の礼儀だ。あたしも、知っている答えを言い直す。

 

「バーガー、焦がし強め。フライは塩多め。飲み物は——」棚を見る。今日は緑の炭酸にした。「あれ」

 

 バーガーは熱くて、パティの焦げは香ばしいの一歩手前の苦さで、それがいい。フライの塩は指まで白くなる。緑の炭酸は、薬品みたいな甘さが後から来た。六・五点。悪くない。合格の帯だ。

 

 食べ終わる前に、数が合わないことに気づいた。フライが一本多い。端の焦げたやつだ。カウンターの中で、セルジオは背中を向けて鉄板を擦っていた。礼を言う筋の背中じゃなかったから、あたしは黙って、その一本を最後に食べた。

 

 指を拭いて、代金を払った。夜の分に、と包みを一つ追加で頼んだら、セルジオは何も訊かずに包んで、「気をつけな」とだけ言った。この店では、それが長い会話だ。

 

 長い会話の余韻で、あたしは店の湯気をもう一度だけ深く吸って、外の夜へ戻った。

 

 バンに戻って、荷台の隅に膝を抱えた。街の灯りが後ろへ流れていく。

 

「今日はいい商いだったかい」運転席からキャロルが訊いた。

 

「まあまあ。弁は買えた」

 

「上等。まあまあの日が続くのが、いちばんいい商いなんだよ」

 

 バンは市場の光の圏を抜けて、迂回路の暗さに入った。荷台の積み荷は行きより軽くて、あたしのバッグだけが、行きより重かった。

 

 膝の上の銃を、買った時の布ごともう一度開いた。ベンチ用の小さい電源を診断ポートにつなぐ。撃発系は死んでいるし、弾倉もない。薬室も指で確かめた。空だ。基板がどこまで生きているかだけ、見ておきたかった。値段の答え合わせだ。

 

 保守モードの表示が灯った。索引は空。人格モジュールは物理的に不在。教科書どおりの抜け殻だ。

 

 なのに、メモリの物理領域を診断器が舐めると、消され方の雑な古いページが、層になって、まだ息をしていた。

 

 部品取りなら、ここで全部ばらせばいい。IMUを抜けば、ナザレは今夜、一歩近づく。四百エディが、二十で済んだ計算になる。

 

 あたしの手は、ドライバーを取らなかった。代わりに、生きているページの数を、数え始めていた。

 

 十六。十七。層の下に、まだある。数えるほど、部品の値段の話が遠くなった。ページは部品じゃない。ページは、誰かが使った時間だ。時間に、一山いくらの値段はつけられない。

 

 その途中で、銃の中の小さい音声合成器が、砂の詰まったような音を立てた。

 

『ユー……ザー……?』

 

 運転席のキャロルが「後ろ、何か言ったかい」と言った。

 

「……何も」

 

 あたしは電源を切った。切ってから、膝の上の銃を布でくるみ直して、キャロルに見えていないことを、先に確かめた。

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