その夜、あたしは夕食を忘れて配線図の中にいた。
四月に入って最初の、風の強い夜だった。砂がトタンを叩く音が、ずっと遠くの雨みたいに続いていた。
スキッピーの光学を常時系に格上げして、小屋の入口へ向ける実験をしていた。三脚は溶接の余りで組み、動体検知の閾値は風の砂で誤作動しない高さまで上げた。番犬なら、家族も置いておくのを認めてくれるかもしれない。
家族に話す台詞は、あの晩から少しずつ書き足している。番犬。診断係。数える相棒。台詞は増えるのに、話す日は近づかない。四十七と四十九の説明を、あたしはまだ持っていなかった。
夕方の試運転は、上々だった。
戸口を横切ったエミリーに、スキッピーは元気よく『侵入者!』と鳴いた。あたしが慌てて音を絞る前に、エミリーは「ネズミでもいた?」と笑って通り過ぎた。
『誤報でした。訂正します。侵入者ではなく、豆の人』
「豆の人って言うな」
『識別名は大事です!』
その時は、笑い話だった。
風の砂にも三度誤報を出したから、閾値をもう一段上げた。上げながら、妙な気分だった。見張りの目を鈍くする作業は、見張りを作る作業より、ずっと手が重い。
砂を踏む足音が近づいたのは、日が落ちてだいぶ経ってからだ。
『対象接近』スキッピーの声が、聞いたことのない速さに変わった。『成人男性。腰に拳銃。歩幅、一定。……武装対象。脅威度、高。照準解を算出——保持します。指示を、USER』
背中が冷えた。
ミッチが来ただけだ。なのに、あの声は家族へ照準を合わせようとしている。
「やめろ。消灯。今すぐ」
電源ごと落として、布を被せて、工具箱の蓋を閉めた。蓋の上に、間に合わせの雑巾を一枚置いた。意味はない。意味のない一枚を置く程度には、あたしの手は焦っていた。
三秒後に戸が開いて、ミッチが入ってきた。腰の拳銃は、いつもの整備中の預かり品だ。あたしはそれを知っている。スキッピーは、知らなかった。
「まだ起きてたか」
「……配線。ちょっと」
ミッチは作業台をちらりと見た。あたしの心臓は工具箱の中にあった。ミッチの目は、箱の手前で止まって、それ以上進まなかった。代わりに、持っていた蓋付きの器を台の端に置いた。
「鍋の残りだ。エミリーが取っといた」
「あとで食べる」
「ああ」
ミッチは奥のナザレへ歩いて、シートをめくり、フレームに指を這わせた。例の亀裂の場所だ。手製のゲージを当てて、縦通材の曲がりを二か所、治具の当たり面の寸法を一か所、手帳に書き取った。
「二・八と、三・一」数字を口に出しながら書く癖は、昔からだ。「戻せる範囲だ。ゆっくりやればな」
あたしは工具箱に手を置いたまま、頷いた。
「明日から治具を組む。材料は東の廃車のリーフを使う。焼きが入ってて、ちょうどいい」
採寸のあいだ、あたしは息を数えていた。十四まで数えたところで、ミッチは手帳を閉じて、出ていく前に一度だけ振り返った。
「飯は、温いうちのほうがうまいぞ」
戸が閉まって、あたしは工具箱の上に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
ミッチは、見たんだろうか。箱を開けて話すつもりで、蓋に手を掛けた。もう戸の向こうに足音はなかった。
スキッピーは、ミッチを撃つ気だったわけじゃない。撃てもしない。撃発は死んでいて、弾もない。分かっている。
それでも、あの速さの声が頭から抜けなかった。照準解を保持します。家族に向かって、それを言う機械を、あたしは工具箱に飼っている。
*
器の中身は、とっくに冷めていた。
豆の表面には油の膜が張って、掬うと膜ごと持ち上がった。
あたしは最後まで食べ、器を洗って、工具箱を開けた。
「スキッピー、起きて。……悪い、すぐ寝てて。定期メンテだ」
『メンテ! 僕の健康管理だね。お任せします、USER! おやす——』
電源が落ちる。任せる、と言った声の素直さが、手の中に残った。あたしはそれを握ったまま、生きた媒体を作業モードで開いて、評価モデルの重みの表を出した。
脅威判定の階段が、表の中に見える。武装。距離。歩幅。夜間。そこから照準保持までの坂が、あいつの中では短すぎる。銃として生まれた機械の、銃としての反射だ。反射は、あいつの意見じゃない。だったら直していいはずだ。ダンパーの油漏れと同じだ。
あたしはその坂を、手で緩めた。脅威度の上限に蓋をして、照準系の自動起動を切って、応答の語彙から命中率の読み上げを外した。
保守画面の隅に、「変更を対象に通知する」という項目があった。カーソルが、その上を一度通った。
通っただけだった。あたしは印を付けずに、次の頁へ進んだ。
書き込みのたび、画面の隅で古いフラッシュが軋んだ。
```
ECC CORRECTION: 12 → 17 / WORN BLOCKS: INCREASING
```
媒体も老いている。書き込みのたび、どこかの区画が静かに擦り減る。寿命を縮めている。警告を閉じて、あたしは作業を続けた。
ノースのダンパーを換える時は、作業範囲を先に決めた。スキッピーの目をつなぐ時も、つないでいいかと訊いた。
今夜のことは、訊かなかった。訊けば説明がいる。説明すれば、あの数字の話になる。四十七。四十九。あいつがまだ答えを持っていない数字の上に、照準の癖の話を積みたくなかった。積めば、あいつはきっと、自分を怖がる。
作業を終えて、呟いた。
「……安全にしただけ」
寝床に入っても、画面の「変更を対象に通知する」が目に浮かんだ。印は付けていない。明日、訊かれたらどう答えよう。
*
治具づくりは、次の日から始まった。
東の廃車から外したリーフスプリングを、ミッチが炉で焼きなまして、当て板の形に起こしていく。焼きなました鋼は、朝の光の中で藍色の膜をまとっていた。ミッチはそこへ青ニスを薄く塗り、フレームに当てて、当たりの高い場所だけ色が剥げるのを読む。機械のやる千分の一ミリを、うちでは色と勘でやる。あたしはヤスリ掛けを手伝いながら、寝不足の目で寸法を読み違えて、二度直された。
「二・八だ。二・三じゃない」
「……ごめん」
「謝るな。読み直せ」
昼は、治具の脇で家族と食べた。器にはいつもの豆。補給便と北の谷の井戸の話が続いた。エミリーに同じことを二度訊かれて、あたしは慌てて顔を上げた。
「よく見ろ。精査の目が濁ってる日は、遂行までいくな」
「……はい」
ミッチは削りかけの当て板を光に透かして、縁の直線を確かめた。それから、思い出したみたいに言った。
「いい道具ってのは、使い手を映す鏡だ。ロージーのナザレは、元は都会の澄ました走り屋だ。あれを砂漠の道具に作り替えた手つきが、あいつによく似てた。雑で、頑丈で、嘘がなかった」
ミッチはヤスリを取り直した。あたしも、当て板を押さえる手に力を入れた。
昼過ぎ、家族の外との取引や伝言を取り次ぐ正規の窓口——ダコタのガレージ経由の無線板に、あたし宛ての伝言が残っていた。
無線板の三件目に、ウェイ爺からの伝言があった。
——注文の品、都合がつかなくなった。今月は店に来るな。
二度読んだ。在庫が切れた、なら分かる。値が上がった、でも分かる。来るな、は爺さんの言葉じゃない。あの人は、見るだけの客がいちばん買うと言う人だ。本人が書いたんだろうか。
それに、伝言の末尾に判がなかった。いつもなら「魏」の一字を崩した癖のある判が付く。それも気にかかった。
考えすぎだ、と思おうとした。思えなかった。
夕方には、もう一つ引っかかりが増えた。ゲートウェイの点検に来ていたキャロルが、画面を睨んで舌を鳴らした。
「近頃、外から妙なスキャンが来る。うちの中継を突いて、機器の型番を訊いて回るやつ」
「……型番?」
「保守網の癖だよ。どこかの業者が在庫でも探してるんだろ。落としてるから心配ないけどね」
「……どこから来てるの」
「中継が三つ噛んでて、先は読めない。読ませない造りだね。まあ、うちの機器の型番なんて、訊かれて減るもんじゃないさ」
キャロルの肩越しに、ログが一行見えた。
```
INBOUND QUERY: FRAME SERIAL HJKE-11-**** / SOURCE: WATSON RELAY / DROPPED
```
ワトソン。フレームの、シリアル。
喉が詰まった。あたしはキャロルに気づかれないうちに、画面から顔を背けた。
夜、あたしは一人で、もう一度ゲートウェイのログを開いた。落とされた照会は、三日で四件。全部、同じ発信元。全部、同じ型番を訊いていた。
小屋に戻って、保管用の複製イメージを棚の奥へ押し込んだ。袋の角が壁に当たるまで、手を離せなかった。
その夜、工具箱の蓋を開けると、スキッピーはいつもの調子で起動の挨拶をした。チュートリアルの冗談。今日の有用性の集計。数える遊びの続き。猫の台帳に、想像の二匹目を足していいかという相談。
『想像の猫は、数に入れていいの?』
「入れない。見た数だけ」
『厳しいなあ。じゃあ、見に行く理由が、また増えた』
あたしはカレンダーを見た。次の交易まで、もう日がない。
でも、消灯の前に、少しだけ声の速度が落ちた。
『ねえ、USER。変なことを訊いていい?』
「どうぞ」
『僕の答え、昨日と違わない?』