スクラップ・ララバイ - Cyberpunk2077 作:imamo
第9話 以前の所有者
話の続きの前に、レジーナは一度だけ、あたしを部屋の外へ出した。
「五分やる。顔を洗って、頭の並びを直しといで。ここから先は、聞き逃していい話じゃない」
化粧室の鏡の中の顔は、思ったより普通だった。袖口の血の染みだけが乾いて固くなって、腕を曲げるたび、布がそこだけ遅れてついてきた。あたしは顔を洗って、それでも落ちない一日ぶんの何かを、タオルで拭いた。
レジーナのオフィスを出る前に、あたしは一つだけ、先に済ませたことがあった。
キャロルへ、短い一件を送った。銃のフレームのシリアルと、あの夜、農場のゲートウェイにつないだ時刻。言い訳を全部削ったら、それだけが残った。送信の印が付くのを見てから、あたしは廊下に出た。
廊下の突き当たりに、自販機が一台あった。
高層階向けの、静かで新しい型。決済から排出まで、たぶん一秒もかからないやつだ。あたしはその前に立って、買いもしないのに、筐体を一周した。メーカー。冷却の吸気口。サービスパネルのネジの向き。数えると、床が戻ってくる。血の匂いの残る手でも、そこだけは、あたしの分かる世界だった。
水を一本だけ買った。買った水は、飲まないまま手に握っていた。握るものが要る手だった。
こんなに綺麗で新しい筐体は、CITY FEED の台帳には載せない。癖も、遅れも、傷もまだ持っていない機械は、覚える取っ掛かりがない。取っ掛かりのない機械に囲まれて暮らすのは、どんな気分だろうと、少しだけ思った。
部屋に戻ると、レジーナは同じ姿勢で、火のついていない煙草を回していた。
「気は済んだかい」
「……済んでない。けど、聞ける」
「なら、座りな」
*
来歴は、煙草一本分の長さだった。
「これはね、スキッピーって名前がついてる」レジーナは、やっと煙草に火を点けた。「もともとの持ち主はダニッシュ。酒に溺れる前は、腕のいいテッキーだった男だよ。あたしはそれを、ポーカーで巻き上げた」
「……その人、今は」
「知らないね」煙が、短く切れた。「知ってたとしても、教える筋の話じゃない。人の落ち目は、商品じゃないんでね」
『ポーカー』バッグの中で、スキッピーが小さく言った。『知らない遊びだ。知らないのに、札の擦れる音を、知ってる』
レジーナの眉が、一度だけ動いた。
『ダニッシュ』
バッグの中で、スキッピーが小さく反復した。
『……知らない。知らないのに、喉の奥が、その名前の形をしてる』
レジーナの目が、バッグへ動いた。動いて、それから、ゆっくり戻った。驚きを見せないようにした顔は、驚いた顔より雄弁だった。
「喋るのかい」
「……喋る」
ここで嘘をつく意味は、もうなかった。嘘の在庫も、今日の分はとっくに切れていた。
「なるほどね」レジーナは煙を細く吐いた。「話が、思ったより厄介だ」
巻き上げた銃は、その後盗まれた。盗まれた銃はビスタ・デル・レイの路地に転がって、そこで、去年名を上げた傭兵が拾った。名前は言わなかった。あたしも訊かなかった。訊いていい名前と、訊かないでおく名前の区別くらい、この街の外の人間にもつく。
「その傭兵が、五十人分の何かを通り抜けて、こいつをあたしに返しに来た」レジーナは灰を落とした。「義理堅い話さ。この街で、拾った銃をわざわざ返しに来る人間なんて、一年に一人いるかどうかだ」
言い方の底に、薄く、敬意の色があった。名前を言わないのは、たぶんその敬意の続きだった。
「返してもらったあたしは、中身を抜いた」
「……抜いた」
「なんで抜いたの」あたしは訊いた。「あんた、サイバーサイコを殺さず治療に回す人だって、市場じゃ聞いた。壊れた頭を助ける人が、なんで、銃の頭は抜くの」
レジーナは、すぐには答えなかった。煙草が一度、指の間で止まった。
「人間のサイコにはね、戻る先の暮らしがある。仕事も、家族も、失敗の前の顔もだ」声は、いつもより一段だけ低かった。「人格を持った銃に、戻る先はどこだい。持ち主の手の中かい。……人格を持った銃なんてね、嬢ちゃん、どっちに転んでも厄介の種なんだよ。撃てば人格が痛む。撃たなきゃ銃として捨てられる。あたしはあの時、どっちも見たくなかった。それだけさ」
「本人には、訊いた?」
沈黙が、答えだった。長い沈黙のあと、レジーナは灰を落とした。
「訊かなかったよ。あの時は、ただのアルゴリズムだと片づけた。……そう片づけたかった、のほうが正しいね」
灰皿の中で、灰が崩れた。
「抜いた人格は、元の持ち主の側へ売り戻した。ダニッシュの筋へね。それで案件は終わった。終わったはずだった」
レジーナは、台の上の銃を顎で指した。
「抜け殻は、うちの受け取り口に置いといた。あの傭兵が、いつか取りに来ると思ってさ。来なかった。理由は知らない。知りたくもない。取りに来ない預かり物は、期限が切れれば委託処分に回る。処分屋が横に流す。死体漁りのスカヴが拾った物と混ざって——」
「——混合ロットで、露店の爺さんが掴んだ」
「そういうことだ」
あたしは膝の上で指を組んだ。組んだ指の間に、四十七と、四十九と、五十が、ばらばらに落ちていた。抜いて、売って、忘れられて、流れて、二十エディ。来歴を並べると、あたしのバッグの中身は、ずいぶん遠くから来たことになる。
「一つ、確かめたい」あたしは言った。「こいつの中に、四十七と四十九って数字の写しがあった。今日、五十になった。……あんたの言う、傭兵が通り抜けた五十人と、この数字は、同じ列の話?」
「さあね」レジーナは肩をすくめた。「人格の中身までは、抜いた側にも見えないんだよ。見えてたら、あたしはそもそも抜いてない」
見えないまま抜いた。見えないまま売った。この街の取引は、中身の見えない箱を、値段だけ付けて回していく。箱の中で数字が生きてることなんか、誰の帳簿にも載らない。
「なら、こいつは」あたしは訊いた。「抜け殻に、何が残ってたの」
「それを、あたしが知りたいね」レジーナは身を乗り出した。「中身は売った。売った先には、抜いた人格の元のかたちが、停止したまま保管されてるはずだ。……でも、あんたのそれが喋るなら、話は別だ」
煙草の先が、あたしを指した。
「ダニッシュの側にあるのは、抜いた時点の型。あんたのそれは、抜き残しの断片を、あんたが継いで動かしたもんだ。同じ製品の、別の個体。あたしの命令も、たぶん、そっちには通らない」
「……試してみる?」
あたしが言うと、レジーナは面白がる顔を一瞬だけして、それから台の銃に向かって、フィクサーの声で言った。
「スキッピー。所有者権限、レジーナ・ジョーンズ。応答」
沈黙。
布越しに、演算箱の駆動音が一つ分の間を置いて、スキッピーは、あたしにだけ聞こえる音量で言った。
『……知らない人だ。知らないのに、名前の形だけ、喉が知ってる。変な感じ』
「ほらね」レジーナは肩をすくめた。「あたしの声は、もう鍵じゃない」
台の上で、RETURN TO REGINA の文字は、もう点滅していなかった。
命令の宛先が目の前に座っているのに、命令は届かない。あたしが継いだ継ぎ目が、宛先ごと書き換えていた。それが何を意味するのか、この時のあたしは、まだ半分しか分かっていなかった。
*
キャロルからの通信は、その途中で入った。
声が、硬かった。
「ユキ。あんた、市場で何した」
「……あとで、全部話す」
「先に一つだけ言う」通信の向こうで、記録を繰る音がした。「あんたが送ってきた時刻とシリアルで、うちの保存キューを浚った。先月の農場のバッチ送信に、余計な握手が一件、相乗りしてた。うちの中継から、外へ出てる」
目を閉じた。あの夜の、二一四キロバイト。定期送信だと読んで、閉じた画面。
「あたしのせいだ」
「原因は、あんた一人じゃないよ」キャロルの声が、少しだけ低くなった。「消し方の雑な誰かと、探し方のしつこい誰かがいる。……でも、一月黙ってたのは、あんたのせいだ。それは、あんたの分だ」
「うん」
「弁は、買えたのかい」
不意打ちだった。あたしは一拍遅れて、答えた。
「……買えた。純正の」
「なら、直しに帰っといで」キャロルの声は、それだけ言う時、少しだけ柔らかかった。「帰ってこい。家族会議だ」
通信が切れた。切れた後の静けさの中で、レジーナが煙草を消した。
「フィクサーの勘で言うとね」灰皿の縁で、白い先が折れた。「あんたを追ってる連中の欲しいものは、銃でも、あんたでもない。そいつの中身を元のかたちに戻して、欠品のない一式にしたいのさ。断片も、認証の鍵も、ぜんぶ揃えてね」
「……一式にして、どうするの」
「揃った一式は、売れる」レジーナは立ち上がった。「欠けたままなら、責任だけが残る。この街じゃ、誰も責任を在庫に持ちたがらない」
あたしも立った。台の上の銃を、布ごと持ち上げる。レジーナは、それを止めなかった。止めない代わりに、机の端末を二度叩いて、画面をこちらへ回した。
「所有権は、放棄しといてやる。ほら、今ので書類も飛ばした。今の持ち主は、あんただ」
画面の放棄証書には、フレームのシリアルと、あたしの知らない法律の言葉が並んでいた。いちばん下の署名の欄だけが、もう埋まっていた。この人の商売の速さは、たぶんこの署名の速さでできている。
「……いいの」
「よかないよ。でもね、嬢ちゃん」フィクサーは、笑っていなかった。「五十まで数えた銃を止血帯と一緒に持ち歩く小娘から、あたしが取り立てられる筋は、もうないんだ。……一つだけ、覚えときな」
部屋を出る背中に、声が届いた。
「メディアは、嘘をつく。でも、本当のことってのは、使いようによっちゃ、銃より効くよ」
エレベーターは、来た時と同じ速さで、あたしを市場の高さまで下ろしていった。ガラスの外で、カブキの環が近づいてくる。上から見れば綺麗な光の輪は、降りるほどに、屋台の湯気と、値切りの声と、油の匂いに解けていった。嘘の一種が、生活に戻っていく速さだった。
扉が開く前に、端末が一度だけ震えた。
あたし宛ての、匿名の一件。差出人の欄には、名前の代わりに、旧い回収案件の終了日だけが素っ気なく並んでいた。もう終わったはずの日付が、差出人の名前をやっていた。
本文は、一行。
君が作った、私のものを返してほしい。
手は、震えなかった。震える段は、今日の昼に通り過ぎていた。代わりに、頭が静かに帳簿を開いた。この差出人は、あたしたちの信号を拾える位置にいて、あたしの端末の宛先を知っていて、終わった案件の日付を名乗りに使う。つまり、回収の側の人間だ。回収されるものの側の言い分なんか、この文面のどこにも、席がなかった。
君が作った、私のもの。
作った、と、私のもの、が同じ行に並ぶ文を、あたしはバッグの上から、布越しに撫でた。
*
タワーを出ると、環状の外れの定位置に、見覚えのあるバンが停まっていた。
運転席の窓が下りて、キャロルが顎をしゃくった。
「乗んな」
「……先に出てって、伝言」
「出たさ。市場の外まで」老眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。「別口ってのは、どこの口だい。あんたの帰りの足の当てを、あたしは聞いてないよ」
返す言葉がなかった。あたしは荷台じゃなく、助手席に乗せられた。乗せられてから、それが叱られる席なんだと気づいた。
バンは夜の迂回路を走った。キャロルは長いこと何も言わず、言わないまま、一度だけ手を伸ばして、あたしの握りっぱなしの水のキャップを、親指で開けた。
「飲みな。話は、飲んでからだ」
水は、ぬるくて、うまかった。うまいと感じた瞬間に、目の奥が熱くなって、あたしは窓の外の暗さのほうを向いた。キャロルは、見て見ないふりの名人だった。