無職転生 過去に戻って本気出す   作:むささび五郎

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ただ一度の帰還

死ぬことそのものは、もう怖くなかった。若い頃ならば命への執着もあったのだろうが、今の私には、それを惜しむ理由がほとんど残されていない。守るべき家族は死に、共に戦った者たちも去り、最後まで手を伸ばし続けた未来さえ、とうの昔に閉ざされていた。

 薄暗い研究室の中央で、私は椅子に腰掛けたまま、床一面に刻まれた魔法陣を見下ろしていた。石床を覆う線は幾重にも重なり、その一つ一つが召喚魔術、転移魔術、結界魔術、重力魔術の理論を組み合わせて構築されている。壁際には使い切った魔力結晶が積まれ、棚には古代龍族の石板や魔族の古文書、私自身が何十年もかけて書きためた研究記録が乱雑に押し込まれていた。

 研究室の片隅には、三つの遺品が置かれている。手入れのされなくなった杖と、色褪せた髪飾りと、刃こぼれした剣だった。意識して見ないようにしていても、それらは常に視界の端にあった。ここには私以外の人間はいない。それでも、その三つだけは捨てることができなかった。

 私は杖を支えに立ち上がり、ゆっくりと魔法陣の外周を歩いた。足腰はとうに弱り、かつて戦場を駆けた面影など残っていない。魔力だけはまだ衰えていなかったが、それも今日ですべて使い切るつもりだった。

 

「四十三年か」

 

 術式の完成までに費やした歳月を口にすると、その長さよりも、そこへ至るまでに失ったものの多さが胸に残った。

 人は昔から、過去を変えようとしてきた。時間魔術と呼ばれる研究も、古今を問わず存在している。だが、それらの大半は時間そのものを巻き戻そうとしたために失敗した。世界全体の時間を逆行させるには、世界を構成するあらゆる物質、生命、魔力の状態を過去へ戻さなければならない。そのために必要となる力は、個人どころか一つの世界が保有する魔力量すら上回る。

 ならば、自分の肉体だけを過去へ送ればよいと考える者もいた。しかし肉体は、時間軸に強く固定されている。空間を越える転移とは異なり、時間を越えようとした肉体には、過去と現在の双方から矛盾した存在情報が与えられる。その瞬間、肉体は一つの形を維持できなくなり、術者は過去へ到達する前に崩壊する。

 記憶だけを送る方法も試した。私自身、最初はそれが最も現実的だと考えていた。記憶を魔術的な情報へ変換し、過去の自分の脳へ定着させる。理屈だけならば単純だったが、実際には記憶は魂から切り離した瞬間に意味を失った。生涯の出来事を記号へ変換することはできても、その記号を見た者が同じ感情と人格を得るわけではない。記憶とは情報ではなく、魂が経験によって変化した痕跡だった。

 ならば、魂そのものを送るしかない。

 その結論へ至るまでに十五年を費やし、それが可能であると証明するまでに、さらに十年以上かかった。

 魂は肉体の中に閉じ込められているわけではない。肉体を器として世界へ定着しながら、一部は世界の外側に近い領域へ伸びている。死とは、その定着が失われ、魂が肉体から切り離される現象にすぎない。ただし、肉体を失った魂は長く現世に留まれず、世界の法則に従って別の場所へ引かれていく。

 その流れに逆らうことはできない。少なくとも、普通の魔術では不可能だった。

 私は重力魔術の研究を進める中で、重力が単に物体を引き寄せる力ではなく、世界の位置そのものへ干渉する現象であると知った。空間を歪ませることができるのならば、魂が流れていく方向も歪ませられるのではないか。そう考え、転移魔術の座標理論と召喚魔術の魂識別術式を組み合わせた。

 この術は、世界の時間を巻き戻すものではない。現在から過去へ道を作ることすらしない。術者の魂を肉体から剥離し、時間軸への固定を一時的に解除したうえで、過去に存在する同一の魂を目標として落下させる。

 過去の自分へ移動するという表現は、正確ではない。未来の魂が過去の肉体を奪うのでも、幼い自分を殺して成り代わるのでもない。同じ根を持つ魂同士を重ね合わせ、分かれていた時間上の状態を一つに統合する。私の記憶と人格は過去の魂へ加わるが、過去の私そのものが消えるわけではない。少なくとも、理論上はそうなる。

 もっとも、その理論を人間で確かめることはできなかった。動物では魂の構造が単純すぎ、十分な記憶を保持したまま定着したか確認できない。人間で試せば、それは実験ではなく殺人になる。結局、最初の成功例は私自身になるしかなかった。

 術式はすでに完成している。中央にあるのが魂を肉体から切り離す剥離陣、その周囲を囲む三重の術式が、魂の形を保つ固定陣である。さらに外側には重力魔術によって時間軸への定着を弱める干渉陣があり、最外周の召喚陣が過去の同一魂を探し出す。対象を指定するための媒介は必要ない。私自身の魂が、過去の私を示す唯一無二の座標になるからだ。

 問題は、魂が時間を越える負荷に耐えられないことだった。

 肉体には自然治癒力がある。傷ついた筋肉も骨も、時間をかければある程度は修復される。しかし魂には、そのような完全な再生能力がない。魂を時間軸から引き剥がした時点で、その構造には修復不能な亀裂が入る。

 私はそれを、魂位相の破断と名付けた。

 一度目であれば、魂は辛うじて形を維持できる。過去の肉体へ定着した後も、人格と記憶を保ち、生き続けることは可能だろう。魔力を扱うことにも、おそらく大きな支障はない。

 だが、二度目はない。

 破断した魂をもう一度時間軸から切り離せば、亀裂は全体へ広がり、魂は一つの存在としての形を失う。それは死とは違う。死者の魂は世界のどこかへ流れ、輪廻する可能性が残されている。しかし砕けた魂には、流れていくためのまとまりすら存在しない。記憶も人格も意志も、意味を持たない断片となって散り、二度と一つには戻らない。

 つまり、この術は一生に一度しか使えない。

 いや、正確には二度目も発動できる。ただし、その結果は必ず完全な消滅になる。術式が失われるわけでも、魔力が足りなくなるわけでもない。使用者である私の魂が、それに耐えられないのだ。

 私はその結論を得てから、何度も計算をやり直した。術式の構成を変え、魂の固定を強め、重力干渉の時間を短くした。だが、破断そのものを防ぐことはできなかった。時間軸から外れるという行為が、魂の構造にとって致命的なのだ。

 それでも、術式を破棄する気にはならなかった。

 一度あれば十分だった。

 私が望んでいるのは、失敗するたびに何度でも人生をやり直す力ではない。たった一度、すべてが失われる前へ戻り、ヒトガミへ至る道を作る機会だった。

 私は魔法陣の中央へ進み、ゆっくりと腰を下ろした。目を閉じると、意識して押し込めていた顔が次々に浮かんだ。

 シルフィは、困った時ほど穏やかに笑った。ロキシーは本を読み始めると、周囲の声が聞こえなくなった。エリスは不器用で、言葉よりも先に拳や剣が動いたが、最後には誰よりも真っ直ぐ私を見ていた。

 子供たちの顔も浮かんだ。成長した姿を見届けられなかった者もいる。私を恨んだまま死んだ者もいるかもしれない。父親らしいことをしてやれたのかと問われれば、胸を張って答えることはできなかった。

 

「すまなかった」

 

 口にしても、返事はない。ここには私しかおらず、謝罪を受け取る者はとうに死んでいる。

 それでも、続けずにはいられなかった。

 

「私の知っている未来を押し付けたりはしない。お前たちはお前たちの人生を生きてくれればいい」

 

 過去へ戻ったとしても、そこにいる彼女たちは、私が失った妻たちそのものではない。同じ名と姿を持っていても、まだ何も選んでいない別の人間だ。未来の記憶を理由に近づくことも、愛されて当然だと思うことも許されない。

 ただ、生きていてほしかった。

 私を選ばなくても構わない。別の誰かを愛しても、遠い場所で暮らしてもいい。彼女たちが自分の意志で未来を選べるのなら、それでよかった。

 私は目を開き、術式へ魔力を流し始めた。

 床に刻まれた線が淡く輝き、研究室全体が低く震えた。最外周の召喚陣が起動し、私の魂を座標として過去の同一存在を探し始める。続いて重力干渉陣が世界との結びつきを弱め、体の感覚が少しずつ遠ざかっていった。

 指先の感覚が消え、足が他人のもののようになる。心臓の鼓動だけが不自然に大きく聞こえたが、それさえ次第に遠のいていった。

 魂剥離陣が起動した瞬間、痛みはなかった。代わりに、自分という存在の輪郭がほどけていく感覚があった。長年使い続けた肉体が、急速に空の器へ変わっていく。

 恐怖はあった。本当に過去へ届くのか。魂が定着せず、途中で消えるのではないか。幼い自分の人格を壊してしまうのではないか。四十三年をかけても、最後まで確かめられなかったことはいくつも残っている。

 だが、術式はもう止められなかった。

 最後の魔力を流し込むと、世界の向きが変わった。目の前にあったはずの研究室が遠ざかり、空になった老人の肉体が魔法陣の中央へ倒れていく。

 私はそれを見ていた。肉体から離れた魂に目などあるはずもないのに、なぜか確かに見えていた。

 長い間、私を運び続けた体だった。多くを失い、数え切れない過ちを犯し、それでも最後まで研究を続けた体である。

 

「もういい」

 

 誰に向けた言葉だったのかは分からない。老いた自分に向けたのか、それとも失敗し続けた人生そのものへ告げたのかもしれない。

 次の瞬間、研究室は完全に消えた。

 光の中を落下する感覚があった。周囲には過去の記憶が断片となって流れ、幼少期から老年までの出来事が、順序を失って交差している。家族の声、戦場の音、誰かの泣き声、ヒトガミの笑顔。それらが次々に遠ざかっていく。

 魂の奥で、何かが割れた。

 激痛とともに、自分の存在へ亀裂が刻まれたことを理解した。計算どおりだった。これで二度目はない。次に同じ術を使えば、私は死ぬことさえできず、完全に消える。

 それでも後悔はなかった。

 やがて光も音も途絶え、自分がまだ存在しているのかすら分からなくなった。

 失敗したのかもしれない。そう考えた時、遠くから小さな音が聞こえた。

 鳥の鳴き声だった。

 続いて、風が窓を揺らす音と、木の床を踏む足音が聞こえてきた。

 私は重い瞼を開いた。

 見覚えのある木造の天井があった。白い漆喰の壁、朝日の差し込む窓、記憶よりも大きく見える机と椅子。そのすべてを、私は知っていた。

 腕を持ち上げると、皺も傷もない小さな手が視界に入った。指を動かせば、思いどおりに動く。胸へ手を当てると、幼い心臓が速く脈打っていた。

 

「……成功したのか」

 

 喉から出た声は、老人のものではなかった。

 私はしばらく自分の手を見つめていた。四十三年を費やした術式は成功し、私の魂は過去の自分へ定着した。計算どおりなら、記憶も人格も失われていない。そして魂には、すでに修復不能な亀裂が刻まれている。

 もう一度はない。

 失敗しても、逃げることはできない。

 部屋の外から、誰かがこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。その歩き方を、私は知っていた。

 胸の奥に、数十年ぶりの痛みが走った。

 私は小さな手を握り締め、扉を見つめた。

 これは与えられた二度目の人生ではない。私がすべてを賭け、自ら奪い取った最後の機会だった。

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