無職転生 過去に戻って本気出す 作:むささび五郎
扉の向こうから聞こえていた足音は、私の記憶よりも軽かった。
一定の速さで廊下を進み、部屋の前で止まる。蝶番が小さく軋み、朝の光とともに一人の女性が顔を覗かせた。
「ルディ? もう起きていたの?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが、堰を切ったように溢れ出した。
金色の髪。柔らかな目元。白い肌と、穏やかな笑み。
ゼニスだった。
まだ若く、記憶の中で失われた姿とはまるで違う。けれど、私が幼い頃に毎朝見ていた母の姿そのものだった。
私は口を開いたが、声が出なかった。
何かを言えば、すべてが崩れてしまうような気がした。母さん、と呼んだだけで、四十年以上積み重ねてきたものが一気に押し寄せ、幼い体では受け止めきれなくなる。
ゼニスは不思議そうに首を傾げながら、こちらへ歩み寄ってきた。額へ手を当てられ、その温かさに息が止まりそうになる。
「熱はないみたいね。怖い夢でも見たの?」
夢ではない。むしろ、これまでの人生すべてが悪夢だったのではないかと思うほど、目の前の光景は現実味を欠いていた。
私は震えそうになる声を押さえ込み、幼い子供らしく聞こえるように答えた。
「……だいじょうぶ」
自分のものとは思えない高い声だった。
ゼニスは安心したように笑い、私の髪を撫でる。たったそれだけの仕草で、視界が滲んだ。
未来の私は、この人を救えなかった。
あの時、もっと早く気付いていれば。別の選択をしていれば。何度そう考えたか分からない。だが、死者へ向けた後悔は何も生まなかった。
今、目の前にいるゼニスは生きている。温かく、笑い、私を心配している。
その事実だけで、長い年月をかけて作り上げた覚悟が揺らぎそうになった。
「朝ご飯にしましょう。今日はお父さんも早く起きているわ」
ゼニスが部屋を出ていく。私は少し遅れてベッドから降りた。
足が床へ届くまでの距離さえ懐かしかった。体は軽く、関節に痛みもなく、呼吸も楽だった。何十年も老人の体で生きてきたせいか、幼い肉体は不自然なほど自由に感じられる。
だが、心までは若返っていない。
廊下を歩きながら、私は何度も深呼吸を繰り返した。次に会う人間が誰なのか分かっている。それでも、心の準備ができているとは言えなかった。
居間へ入ると、パウロが椅子に座っていた。剣の手入れを終えたところらしく、鞘へ収めながらこちらを見る。
「おう、ルディ。今日は早いな」
記憶の中の父よりも若い。髪にも肌にも老いはなく、体には剣士として鍛えられた力が満ちていた。
私は立ち尽くした。
パウロは善人ではなかった。無責任で、女にだらしなく、父親として正しかったとは言い難い。それでも、私にとって父だった。
私は彼を理解しようとするのが遅すぎた。ようやく親子らしい関係を築けると思った時には、すべてが手遅れになっていた。
「どうした?」
パウロが眉を寄せる。
抱きつきたいと思った。
同時に、殴りたいとも思った。
無事だったことへの安堵と、かつての恨みと、自分自身への後悔が混ざり合い、どの感情を表に出せばよいのか分からない。
「なんでも、ない」
「変な奴だな」
パウロはそう言って笑った。
その笑い方まで昔のままだった。
朝食は、焼いたパンと簡単なスープだった。ゼニスがパンを切り分け、パウロが昨日の出来事を大げさに話している。内容は、近隣の畑へ出た魔物を追い払ったというだけのものだったが、パウロはまるで強敵との死闘を潜り抜けたかのように身振りを交えていた。
「あなた、昨日はすぐに帰ってきたじゃない」
「それは俺が一瞬で片付けたからだ」
「村の人は犬みたいな魔物だったって言っていたけれど」
「犬に似ているだけで、実際はもっと恐ろしい奴だ」
くだらない会話だった。
未来の私がどれほど望んでも、二度と戻らなかった時間だった。
私はほとんど味を感じないままパンを噛んだ。涙をこぼさないようにするだけで精一杯だった。
この二人を救える。
今なら、まだ間に合う。
そう思った瞬間、頭の中にいくつもの計画が浮かんだ。
転移災害が起こる前に、家族を遠ざけることはできる。フィットア領から避難させ、危険な場所へ近づけなければいい。転移事件そのものを止める方法を探すことも、不可能ではないかもしれない。
だが、私はすぐにその考えを打ち消した。
未来を変えることは簡単だ。少なくとも、小さな出来事ならば、私の知識と力でいくらでも変えられる。
問題は、その先が見えなくなることだった。
私が知っている未来は、失敗に満ちていた。それでも、オルステッドへ至った唯一の道でもある。魔大陸へ飛ばされ、エリスと旅をし、龍神と遭遇する。あの出会いがなければ、私はヒトガミの正体を知ることも、奴を倒す可能性へ辿り着くこともなかった。
転移事件を避ければ、家族は救えるかもしれない。
しかし、その代わりにオルステッドと出会えなくなる可能性がある。ヒトガミが私の変化へ気付き、別の手を打つ可能性もある。
私はまだ何も知らない。
時間を遡る術式を完成させても、ヒトガミを倒す方法までは完成させられなかった。必要なのは私の知識だけではない。オルステッドの力と、彼が持つ情報が不可欠だった。
ならば、それまでは歴史を壊してはならない。
完全に同じ未来を再現することはできないだろう。私が過去へ戻った時点で、すでに小さな差異は生まれている。それでも、可能な限り大きな流れを維持する必要がある。
家族を危険へ晒すことになる。
その結論に胸が痛んだ。
救うために戻ったはずなのに、すぐには救えない。転移事件が起こると知りながら、何も知らないふりをしなければならない。
それでも、目先の一人を救うためにすべてを失えば、以前と同じだった。
私は感情に任せて動き、多くの選択を誤った。今度は、苦しくても必要な道を選ばなければならない。
「ルディ、食べないの?」
ゼニスの声で我に返った。
「たべるよ」
私は残っていたパンを口へ運んだ。
朝食が終わると、二人はそれぞれの用事へ戻っていった。私は自室へ戻り、扉を閉めた。
机の上には、幼い頃に使っていた紙と筆記具がある。私は椅子へ座り、一枚の紙を前にしながら考えた。
この先、記憶だけを頼りに動くのは危険だった。
私は長く生きすぎた。未来の出来事は鮮明に残っているものもあれば、年月の中で曖昧になったものもある。感情と事実が混ざり、都合よく記憶を変えている可能性も否定できない。
だから記録する必要があった。
私は紙の一番上に、いくつかの言葉を書いた。
一、オルステッドとの接触までは、大きな歴史を可能な限り維持する。
二、ヒトガミへ情報を与えない。
三、重力魔術と魂に関する研究を再構築する。
四、魂時間遡行術は二度と使用しない。
そこまで書き、手を止めた。
次に書くべきことは分かっていたが、文字にすることを躊躇った。
シルフィ。ロキシー。エリス。
彼女たちは、まだ私の妻ではない。私を愛してもいない。未来の記憶を持つ私にとっては大切な人間でも、この時代の彼女たちにとって、私はただの子供か、見知らぬ他人にすぎない。
未来を利用して近づくことはできる。何を言えば喜ぶのか、どのような時に弱るのか、私は知っている。それを使えば、以前よりも簡単に好意を得られるかもしれない。
だが、それは彼女たちの選択ではない。
未来を知る私が用意した道を歩かせるだけだ。
私は筆を動かした。
五、未来の関係を、現在の彼女たちへ要求しない。
その一文を見つめる。
彼女たちが私を選ばなくても構わない。私ではない誰かを愛し、別の人生を歩んだとしても、それを受け入れる。
口で言うほど簡単ではないだろう。実際にその瞬間が来れば、私は嫉妬し、苦しむかもしれない。それでも、未来の記憶を理由に彼女たちを縛ることだけはしてはならない。
私は紙を折り畳み、机の奥へ隠した。
いずれ、より安全な記録方法を考える必要がある。ヒトガミに知られれば、すべてが終わる。この内容を誰かに読ませるつもりもなかった。
少なくとも、オルステッドへ会うまでは。
窓に映った自分の姿を見る。そこにいるのは幼いルーデウスだった。老人の顔も、長い年月を刻んだ傷もない。
だが、その目だけは子供のものではなかった。
私はこの体へ戻った。けれど、昔の私へ戻ったわけではない。
無知だった子供を演じながら、未来を知る者として行動する必要がある。
それでも、老いた自分という亡霊のまま生き続けるつもりはなかった。
この時代で出会う人々は、未来の記憶の中にいる者たちとは違う。彼らが新しい選択をするのなら、私もまた、この時間の中で選び直さなければならない。
私は鏡の中の自分を見つめた。
「私は、ルーデウスとして生きる」
言葉にすると、わずかに胸が軽くなった。
未来を忘れるわけではない。老いた私が積み重ねた知識も、後悔も、憎しみも捨てられない。
それでも、この世界で生きるのは過去へ取り憑いた老人ではない。
ルーデウス・グレイラットだ。
部屋の外から、ゼニスが私を呼ぶ声が聞こえた。
私は紙を隠した机へ一度だけ目を向けてから、扉へ向かった。
失ったはずの家族が、その向こうで待っている。
今はまだ、守るために何もできない。
だからこそ、必ず最後まで辿り着く。