無職転生 過去に戻って本気出す   作:むささび五郎

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神童

 翌朝、目を覚ました時、最初に感じたのは体の重さだった。

 病や老いによるものではない。むしろ逆で、幼い肉体が眠りを求めているのだ。意識はとうに覚醒しているというのに、瞼は重く、手足にはまだ熱が残っている。長い間、夜明け前に目を覚ます生活を続けてきたが、この体まで同じように動いてくれるわけではないらしい。

 無理に起き上がろうとしたところで、扉の外から足音が聞こえた。

 

「ルディ、起きている?」

 

「……うん」

 

 返事をすると、ゼニスが扉を開けて入ってきた。寝台の上で半身を起こした私を見ると、少し意外そうに目を丸くする。

 

「今日も早いのね。まだ寝ていてもいいのよ」

 

「もう、おきる」

 

 そう答えたものの、寝台から降りようとした足が思うように動かず、危うく前へ倒れかけた。すぐにゼニスの腕が伸び、体を抱き留められる。

 

「ほら、まだ眠いんでしょう?」

 

 反論する気にはなれなかった。

 精神がどれだけ長い年月を経ていても、肉体は幼い。眠気も空腹も、気力だけで無視できるものではないらしい。

 ゼニスに抱き上げられたまま廊下へ出る。以前ならば子供扱いされることに多少の居心地の悪さを覚えただろうが、今はその腕の温かさを振り払う気にはなれなかった。

 居間では、パウロが剣帯を腰へ巻きつけていた。

 

「お、今日は抱っこか。珍しいな」

 

「眠いだけよ。あなたみたいに朝から元気が余っているわけじゃないの」

 

「俺だって眠いぞ」

 

「それで剣を振り回すの?」

 

「目が覚めるからな」

 

 くだらない会話だった。

 けれど、私にはその一つ一つが妙に鮮明に聞こえた。

 ゼニスの呆れた声。パウロの軽薄な笑い。食器の触れ合う乾いた音。窓から入り込む朝の光。

 失ってから何度も思い出した光景よりも、実物はずっと騒がしく、そして温かかった。

 視界の端がわずかに滲み、私はゼニスの肩へ顔を寄せて誤魔化した。何かに失敗したわけでも、叱られたわけでもない。ただ、ここにあるものが一度は永遠に失われたのだと思うと、感情を完全には抑えられなかった。

 食卓のそばでは、リーリャが朝食の準備をしていた。赤い髪を後ろでまとめ、隙のない動作で皿を並べている。若い頃から落ち着いた雰囲気は変わらないが、記憶にある彼女よりも表情は硬く、まだこの家へ完全に馴染み切っていないことが見て取れた。

 私の視線に気付くと、リーリャは手を止めて一礼する。

 

「おはようございます、坊ちゃま」

 

「おはよう」

 

 短く返す。

 彼女もまた、生きている。

 アイシャはまだ生まれていない。この先に起こることも、彼女がどのような母親になるのかも、私は知っている。

 だが、今ここにいるリーリャにとって、それらはまだ存在しない未来だ。私の中にある記憶を理由に、彼女を見る目まで変えるべきではない。

 朝食を終えると、パウロは村の見回りへ向かい、ゼニスとリーリャは家事に戻った。私は一人で居間に残り、部屋の隅に置かれた本棚を見上げる。

 幼い体では、本棚が記憶よりもずっと高く感じられた。

 下段には料理や薬草についての本が並び、その隣に歴史書や冒険譚が置かれている。背表紙を順に目で追い、やがて目的の一冊を見つけた。

『魔術入門』

 題名を見た瞬間、指先が止まった。

 かつて、この本を手に取ったことで私の人生は動き始めた。

 前世では、学ぶことから逃げた。努力する前に諦め、失敗する可能性から目を逸らし、最後には部屋の中だけで人生を終えた。

 この世界では違った。

 文字を覚え、本を開き、魔術というものを知った。最初はただ、前世では存在しなかった力への好奇心だったはずだ。それでも、この一冊がなければロキシーと出会うことも、家を出ることも、多くの人間と関わることもなかっただろう。

 人生を変えた本。

 そう呼ぶには、あまりにも薄く、装丁も簡素だった。

 私は椅子を本棚の前まで引きずり、その上へ乗って本を取り出した。表紙には細かな傷があり、紙からは古いインクの匂いがする。

 最後にこの本を最初から読んだのは、いつだっただろうか。

 少なくとも四十年以上は前のことになる。

 机へ運び、表紙を開く。

 火、水、風、土。

 四大属性の基礎。魔力の感覚。詠唱による術式の補助。初級魔術を発動するまでの流れ。

 書かれている内容は、ほとんど記憶どおりだった。

 だが、同じ本でありながら、以前とはまるで違うものに見えた。

 当時の私は、ここに書かれた内容を世界の真理だと思っていた。今なら分かる。これは真理ではなく、初学者が魔術へ触れるために整えられた入口にすぎない。

 例えば、魔力は体内を巡り、詠唱によって形を与えられると記されている。間違いではない。だが、実際には魔力の流れは肉体だけで完結しておらず、精神状態や魂の輪郭とも深く関係している。

 それを初心者へ説明したところで、混乱するだけだろう。

 本質を省き、扱える部分だけを示す。

 昔は不完全だと思っていた説明も、今読み返せば、よく考えられていることが分かる。

 数ページ進んだところで、魂について触れた短い項目があった。

『魂とは生命を形作る不可視の核であり、魔力の源でもある』

 説明はその一文だけだった。

 私は指で文字をなぞる。

 魂の構造も、肉体との結びつきも、時間軸に固定される仕組みも、この時代にはほとんど知られていない。

 当然だ。

 私自身、そこへ辿り着くまでに何十年もかかった。

 あの術式は、天啓によって生まれたものではない。この一文から始まり、転移、召喚、重力、そして数え切れない失敗を積み重ねた先に完成したものだった。

 本を閉じかけたところで、背後から声がした。

 

「坊ちゃま」

 

 振り向くと、リーリャが立っていた。手には小さな盆があり、その上に水の入った杯が載せられている。

 

「随分と熱心にご覧になっていますね」

 

「うん」

 

「文字がお読みになれるのですか?」

 

 問いかける声は穏やかだったが、視線は私の手元と開かれたページを静かに観察している。

 リーリャは昔から、よく人を見ていた。

 ここで不自然な受け答えをすれば、ゼニスなら笑って済ませても、彼女は疑問として覚えておくかもしれない。

 私は表紙へ指を置き、少し考えるふりをしてから答えた。

 

「まじゅつ、の本」

 

「題名を読まれたのですか?」

 

「まえに、お母さまにおしえてもらった」

 

 完全な嘘ではない。ゼニスはすでに簡単な文字をいくつか教えてくれていた。

 リーリャは一度だけ本へ目を落とし、それから私を見る。

 

「中の文字も分かりますか?」

 

「すこしだけ」

 

 答えると、彼女はかすかに目を細めた。

 

「そうですか。坊ちゃまは賢くていらっしゃるのですね」

 

 褒め言葉ではあったが、単純に感心しているだけではないように聞こえた。

 私は幼い頃から、周囲に賢い子供だと思われていた。多少の違和感があっても、今までどおりの範囲に収まるなら問題はない。

 重要なのは、知識を持っていることではなく、その知識をどこまで見せるかだった。

 すべて隠せば、かえって不自然になる。

 以前の私も、本を読み、魔術へ興味を持ち、周囲から神童のように扱われた。ならば、その流れは変えない方がいい。

 ただし、以前以上に目立つ必要もない。

 リーリャが去った後、私はもう一度本を開いた。

 本気で読めば、短時間で読み終えられる。内容を理解するだけなら、読む必要すらない。

 それでも、私はゆっくりとページをめくった。

 今の私がこの本を初めて読む速度を想像し、難しい単語では指を止め、挿絵を眺める。未来を知っていることを隠すためというより、かつて歩いた道から大きく外れないためだった。

 夕方になっても、本の半分ほどしか進まなかった。

 ゼニスは、私が一日中机へ向かっていたことを知ると、大げさなくらい褒めてくれた。パウロは本ばかりでは体が弱くなると言い、明日は剣を持たせようとしたが、ゼニスに止められていた。

 そのやり取りを聞きながら、私は本を胸に抱える。

 未来について考え続けなければならない。

 ヒトガミのことも、オルステッドのことも、転移事件のことも忘れるわけにはいかない。

 だが今日、私が最も長く考えていたのは、そのどれでもなかった。

 この本のことだった。

 魔術を初めて知った時のこと。水球を作ろうとして失敗したこと。家の壁を吹き飛ばしたこと。そして、青い髪の師匠がこの家へやってきた日のこと。

 未来へ戻るために過去へ来たのではない。

 私は今、この時間の中にいる。

 ならば、やるべきことは一つずつ積み重ねるしかない。

 夜、寝台の中で『魔術入門』を開き、初級水魔術の頁を見つめた。

 詠唱も、魔力の流れも、術式の構造も知っている。

 しかし、この幼い肉体で同じように扱えるかは分からない。

 指先へ、ほんのわずかに魔力を集める。

 昔と同じ感覚で動かそうとした瞬間、魔力は思いがけない方向へ揺らいだ。

 私はすぐに流れを止め、暗い部屋の中で自分の手を見つめる。

 知識はある。

 技術も失ってはいない。

 だが、この体は私の記憶どおりには動かない。

 口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

 どうやら、最初からやり直す必要があるらしい。

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