無職転生 過去に戻って本気出す 作:むささび五郎
魔術書というものは、知識を与えるために存在しているはずなのに、二度目に手にしたその一冊は、私に知識ではなく現実を突き付けてきた。
幼い指先でゆっくりと頁を閉じると、乾いた紙の擦れる音が静かな部屋に小さく響き、その余韻が消えるまで私は膝の上へ本を置いたまま動かなかった。書かれていた内容は一言一句違わず記憶している。水の生成、火の制御、風の流れ、土の形成。そのどれもが懐かしく、そして今さら読み返すまでもないほど身に染み付いた理論であり、かつての私はその先にある応用や発展を当たり前のように扱っていた。
だからこそ、本を閉じたあとも胸の奥に残ったのは期待ではなく、僅かな不安だった。
知識があることと、使えることは違う。
そんな当たり前の事実を、私はどこかで軽く考えていたのかもしれない。
部屋の中央へ歩き、小さく息を整えると、右手を静かに前へ差し出した。無詠唱で魔術を発動すること自体は難しくない。幼い頃から私は詠唱を介さず魔力を組み上げる感覚を覚えていたし、その理屈も今の私の中には寸分違わず残っている。問題は、その感覚をこの身体が再現できるかどうかだった。
目を閉じ、意識だけを身体の内側へ沈める。
魔力は確かに存在していた。
暖かな熱が血液とは別の流れとなって全身を巡り、意識を向ければ向けるほど輪郭をはっきりと浮かび上がらせていく感覚は、前世の最後に感じていたものと少しも変わらない。
ならば、と私は自然に術式を組み始めた。
魔力を圧縮し、流れを整え、形を与え、水という現象へ変換するための最後の一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
術式は完成する寸前で音もなく崩れ、集めた魔力だけが霧のようにほどけて消えていった。
失敗。
理由が分からないわけではない。
しかし納得もできなかった。
私はもう一度同じ手順をなぞり、今度はさらに慎重に魔力を組み直したが、結果は何も変わらず、三度目には小さな水滴が一粒だけ宙へ浮かんで床へ落ち、四度目には形になる前に術式そのものがほどけてしまう。
成功とは到底呼べない。
それでも何度も繰り返しているうちに、私はようやく違和感の正体へ辿り着いた。
理論は間違っていない。
魔力も不足していない。
にもかかわらず術式だけが完成しないのは、私の思考ではなく、この身体そのものが魔術という行為をまだ覚えていないからなのだと理解した瞬間、数十年という歳月の中で積み重ねてきた技術とは、知識だけでも経験だけでもなく、肉体そのものへ刻み込まれた膨大な反復の集積だったのだと、今さらながら思い知らされることになった。
「……そういうことか。」
思わず苦笑が漏れる。
老人だった頃の私は、魔術をあまりにも自然に扱い過ぎていた。歩くことを意識しないように、魔術もまた身体が勝手に応えてくれるものになっていたから、その技術を一から積み上げた時間そのものを忘れてしまっていたのだ。
幼児の身体が、四十年以上鍛え続けた身体と同じように動くはずがない。
むしろ今まで気付かなかった自分を笑うべきだろう。
そう結論付けると、不思議と焦りは消えた。
失ったのではない。
まだ戻っていないだけだ。
ならば、もう一度積み上げればいい。
そう考えながら今度は魔術そのものではなく、魔力だけへ意識を向けると、術式を一切組まずに魔力を右手へ集め、その流れを一本の細い糸のように伸ばしてみた。
その瞬間だった。
あまりにも自然だった。
細くした魔力は乱れることなく一直線に伸び、さらにその一本を十本へ分けても揺らぎは生まれず、今度は逆に十本を一本へ束ねれば、まるで最初からそうであったかのように滑らかな流れへ戻っていく。
試しに速度を変える。
密度を変える。
循環を逆転させる。
右腕から左腕へ。
胸から背中へ。
全身を巡らせながら一点へ圧縮し、再び均等に拡散させても、魔力は寸分違わず私の意思へ応え続け、その従順さに私は思わず息を呑んだ。
違う。
これは前世と同じではない。
もっと滑らかだ。
もっと静かで、もっと精密だ。
老いた身体では避けられなかった僅かな乱れや遅れが、今の私はまるで存在しないかのように感じ取れる。
そこで私はようやく、一つの確信を得た。
魔術の技術は身体が覚える。
だが、魔力を扱う感覚そのものは、もっと深い場所へ刻まれている。
その答えを言葉にすることはしなかった。
ただ静かに机へ向かい、新しいノートを一冊取り出すと、表紙へ『研究記録』とだけ書き込み、最初の頁から今日得られた結果を整理し始める。
知識はある。
身体は未熟。
ならば今必要なのは、未来を急ぐことではなく、この身体をもう一度育て直すことだ。
それだけを書き終えたあと、私は最後の頁をゆっくりと開き、少しだけ筆を止めた。
そこへ記した文字は六つ。
それを書き終えた私は、その文字をしばらく眺めていたが、やがて静かにノートを閉じると、それ以上は一文字も書き足さず、本棚の一番奥へそっと仕舞い込んだ。
今はまだ、その頁を開く時ではない。
そう心の中でだけ呟きながら。