無職転生 過去に戻って本気出す   作:むささび五郎

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境界の手前2

その日から私の日常は、傍から見れば何一つ変わらない穏やかな幼児の生活でありながら、その実、同じ一日など一度として存在しない研究の積み重ねになった。

 

 朝になれば目を覚まし、ゼニスに着替えを手伝ってもらい、パウロやリーリャと言葉を交わして朝食を済ませる。その後は庭へ出たり、自室へ戻ったりと幼い子供らしく自由に過ごしているように見せながら、その合間には必ず魔力を限界まで使い切り、身体の変化と回復速度を確かめることを欠かさず続けていた。

 

 前の人生でも魔力量を増やすために魔力枯渇を繰り返していたが、当時の私は何も分からない子供であり、ただ闇雲に魔力を使い切っていただけだった。今なら、その日の体調や睡眠、食事の量によって回復速度に僅かな差が生じることも、成長期の身体は無理に限界を超えさせるよりも安定した反復を積み重ねた方が結果として効率が良いことも理解している。

 

 だから私は焦らなかった。

 

 一日で得られる成果は僅かでも、それを一年積み重ねれば決して小さな差では終わらないことを知っていたからだ。

 

 魔力を使い切るたびに感じる倦怠感も、翌日に残る疲労も、全てをノートへ書き留めては翌日と比較し、少しでも効率の良い方法が見つかれば翌日にはそれを試すという作業を繰り返しているうちに、研究記録の頁は気付けば何冊にも増えていた。

 

 魔術についても同様だった。

 

 水球を作るだけなら何十回でも成功するようになった頃には、次は形を崩さず維持する時間を測り、その次は同じ大きさの水球を十個連続で作り出すことを目標にし、さらに魔力消費を限界まで削りながら同じ威力を維持する訓練へと移っていく。火属性も風属性も土属性も決して例外ではなく、一つの魔術を成功させて満足することはなく、どこまで精度を高められるかという一点だけを追い続けていた。

 

 その積み重ねの中で最も大きな変化を見せたのは、やはり魔力操作だった。

 

 魔術そのものは身体へ覚え込ませる必要がある以上、一朝一夕で完成するものではない。それでも魔力を操る感覚だけは日を追うごとに洗練され、前世の私が長い年月を掛けてようやく辿り着いた精度へ幼い身体が少しずつ追いつき、やがて追い越していく感覚さえあった。

 

 ある日、何気なく指先へ集めた魔力を髪の毛ほどの細さにまで圧縮したまま部屋中へ巡らせ、それを一切乱すことなく元の位置へ戻した時、私は思わず笑ってしまった。

 

 老人だった頃の私なら、ここまで滑らかには操れなかった。

 

 身体能力は圧倒的に劣っている。

 

 魔術技術もまだ遠く及ばない。

 

 それでも魔力そのものを扱う感覚だけは、今の私の方が間違いなく優れている。

 

 魂が覚えているものと、身体が覚えるもの。

 

 その境界は思っていた以上にはっきりしていた。

 

 そんなある日のことだった。

 

 いつものように庭の隅で魔術の練習をしていた私は、周囲に誰もいないことを確認した上で、小さな水球をいくつも浮かべていた。十個、二十個と増やし、それらを同時に維持しながらゆっくりと回転させる。

 

 その時だった。

 

「……ルーデウス?」

 

 背後から聞こえた声に、私は思わず動きを止めた。

 

 振り返ると、そこにはゼニスが立っていた。

 

 驚きと戸惑いが入り混じった表情で、宙に浮かぶ水球を見つめている。

 

 しまった、と思ったが、もう遅い。

 

 隠す理由はあったが、隠し続ける必要があるかと言われれば、そうでもない。

 

 むしろ、このタイミングは悪くないのかもしれない。

 

「……お母さん」

 

 私はゆっくりと水球を消し、ゼニスの方へ歩み寄る。

 

「今の……あなたがやったの?」

 

「うん」

 

 素直に頷くと、ゼニスはしばらく言葉を失ったように私を見つめていた。

 

 やがて、少しだけ震える声で言う。

 

「いつから……?」

 

「少し前から。本を読んで真似してみたら、できるようになった」

 

 嘘ではない。だが、真実でもない。

 

 ゼニスはその言葉をどう受け取ったのか、しばらく考え込むように視線を落とし、やがて決意したように顔を上げた。

 

「お父さんに話しましょう」

 

 その日の夕方、私はパウロの前で改めて魔術を見せることになった。

 

 最初は半信半疑だったパウロも、水球をいくつも同時に操る様子を見て、目を丸くする。

 

「……おいおい、冗談だろ」

 

 呆れたように笑いながらも、その目は真剣だった。

 

「誰かに教わったのか?」

 

「ううん。自分でやってみたらできた」

 

 パウロは腕を組み、しばらく考え込む。

 

 そして、ふっと息を吐いた。

 

「……天才ってやつか」

 

 軽く言ったようでいて、その声にはどこか慎重さが混じっていた。

 

「このまま放っておくのはまずいな。ちゃんとした奴に教わらせた方がいい」

 

 ゼニスも頷く。

 

「ええ。危ないことになってからじゃ遅いもの」

 

 こうして、私が魔術を使えることは家族に知られることになり、そして――

 

 気付けば季節は静かに巡り、窓の外を彩っていた若葉は濃い緑へと変わり、それがやがて赤く染まり、初雪が屋敷の庭を白く覆う頃には、私の身体もまた一年という歳月を確かに刻み込んでいた。

 

 ノートを開く。

 

 研究を始めた日に書き留めた最初の記録と、今日の結果を見比べる。

 

 魔力量は予想を上回る速度で増加を続け、魔力操作はもはや前世を基準にしてもなお改善が見られ、そして何より魔術そのものが、ようやく身体へ馴染み始めていることを実感できた。

 

 もちろん完成には程遠い。

 

 感覚としては六割程度。

 

 それでも一年前、水滴一つ満足に生み出せなかったことを思えば十分すぎる進歩だった。

 

 私は一冊目の研究記録を閉じると、最後の頁へ視線を向ける。

 

 あの日から一文字も増えていないその頁は、まるで時間だけが止まってしまったかのように静まり返っていた。

 

 私は何も書き加えず、ただ静かにノートを閉じる。

 

 順番を間違えない。

 

 それだけは決して忘れてはならない。

 

 未来を知っているからこそ、急ぐべき時と待つべき時がある。

 

 今はまだ、その時ではない。

 

 部屋の外から、慌ただしい足音が聞こえた。

 

「ルーデウス坊っちゃま。」

 

 リーリャの声だった。

 

「旦那様がお呼びです。」

 

「分かった。今行くよ。」

 

 椅子から飛び降りると、私は本棚へ研究記録を戻し、いつものように何食わぬ顔で部屋を出る。

 

 廊下を歩きながら自然と呼吸を整えている自分に苦笑し、玄関へ近付いたところで、一足の小さな革靴が目に入った。

 

 見覚えがある。

 

 いや、正確には何十年ぶりと言うべきだろう。

 

 胸の奥が不思議なほど静かだった。

 

 会いたかった。

 

 その気持ちは確かにある。

 

 けれど、それ以上に胸を満たしていたのは、ようやくここまで辿り着いたという安堵だった。

 

 運命はまだ、大きくは変わっていない。

 

 だからこそ、この再会にも意味がある。

 

 応接間の扉が開き、パウロの明るい声が部屋へ響く。

 

「ルーデウス、今日からお前に魔術を教えてくれる家庭教師だ。」

 

 視線を上げる。

 

 青い髪。

 

 小柄な体格。

 

 少し緊張したように背筋を伸ばしながらも、その瞳だけは真っ直ぐこちらを見つめている少女は、一歩前へ出ると小さく胸へ手を当てた。

 

「初めまして。ロキシー・ミグルディアです。これからよろしくお願いします。」

 

 その声を聞いた瞬間、忘れたはずの記憶が次々と胸の奥から溢れ出しそうになるのを感じながらも、私はそれを表情へ出すことなく、幼いルーデウスとして自然な笑みを浮かべた。

 

「よろしくお願いします、ロキシー先生。」

 

 その一言に込めた想いだけは、きっと今の私以外、誰にも分からない。

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