無職転生 過去に戻って本気出す 作:むささび五郎
ロキシーの授業は、翌朝から始まった。
場所は屋敷の裏手にある、少し開けた草地だった。畑からは距離があり、万が一魔術が逸れても家屋に被害が及びにくい。幼い頃の私には十分すぎるほど広く見えたその場所も、今の目で見れば、せいぜい小さな訓練場に過ぎない。
それでも、懐かしかった。
朝露に濡れた草の匂いも、少し湿った土の感触も、杖を手に立つロキシーの姿も。
すべてが、遠い昔に失ったものだった。
「それでは、今日から本格的に魔術の授業を始めます」
ロキシーは私の正面に立ち、わずかに背筋を伸ばした。
教師として振る舞おうとしているのだろう。声には少しだけ緊張が混じっていたが、表情は努めて平静に保たれている。
私は両手を膝の前で揃え、頭を下げた。
「よろしくお願いします、ロキシー先生」
「はい。よろしくお願いします」
一瞬だけ、彼女の目が泳いだ。
先生と呼ばれることに慣れていないのだろう。
それも覚えていた。
「まずは、魔術について簡単に説明します。ルーデウス君は、魔術にはどのような種類があるか知っていますか?」
「攻撃魔術と治癒魔術、それから召喚魔術です」
「そうですね。大きく分ければその三つです。今日は、その中でも攻撃魔術について学びます」
知っている。
何度も聞いた。
かつて、この場所で。
その後も、学校で、戦場で、研究室で、数え切れないほど魔術について学び直した。
属性の相性も、術式の構造も、魔力の流れも、詠唱が精神に与える影響も、私はロキシーより深く知っている。
それでも、不思議と退屈ではなかった。
彼女が言葉を選びながら説明する様子を見ているだけで、胸の奥が静かに満たされていった。
「攻撃魔術には、火、水、風、土の四つの基本属性があります。さらに、それらを組み合わせることで、複合魔術を使うこともできます」
ロキシーは杖を持ち上げ、先端を少し離れた地面へ向けた。
「例えば、水と風を組み合わせると――」
短い詠唱。
空気中の水分が集まり、淡い水球が生まれる。そこへ風が絡みつき、水球は細長く引き延ばされていく。
直後、水の槍が地面へ突き刺さった。
湿った土が弾け、細かな泥が周囲へ飛び散る。
「このように、性質の異なる魔術を組み合わせることができます。ただし、最初から複合魔術を覚えようとする必要はありません。まずは一つずつ、正確に使えるようになりましょう」
「はい」
ロキシーは満足そうにうなずき、それから私の前に小さな木製の桶を置いた。
「では、水球を作ってみてください」
私は桶へ視線を落とした。
以前の人生であれば、迷うことなく水球を作っていただろう。
だが、今の体はまだ魔術を完全には思い出していない。
魔力を動かす感覚は鮮明だ。
魂に刻まれた制御の技術は、老いた体で扱っていた頃よりも滑らかですらある。
しかし、術を形にする最後の部分だけが、わずかに噛み合わない。
体が追いついていない。
――それだけではない。
ロキシーが目の前にいる。
ずっと会いたかった人が、こうして教師として立っている。
良いところを見せたい。
驚かせたい。
認められたい。
そんな感情が、胸の奥で渦を巻いていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
だが、意識すればするほど、魔力の流れが微妙に乱れる。
私は右手を桶へ向け、魔力を流した。
水が生まれる。
だが、完全な球形にはならず、歪な楕円を描いた。
焦りが生まれる。
整えようとした瞬間、魔力の流れがさらに乱れた。
次の瞬間、形を保ち切れなくなった水が、桶の縁へぶつかって零れた。
「……すみません」
「いえ、謝る必要は――」
言いかけて、ロキシーは言葉を止めた。
そして、ゆっくりと私を見た。
その目が、大きく見開かれている。
「……今の、詠唱は?」
「していません」
「……え?」
ロキシーは一歩、私に近づいた。
まるで信じられないものを見るように、私の手元と顔を交互に見つめる。
「無詠唱……ですか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
彼女はしばらく言葉を失っていた。
桶の縁に残った水滴を見つめ、それからもう一度私を見る。
「誰かに教わりましたか?」
「本を読みました」
「本……?」
ロキシーの眉が寄る。
「本を読んだだけで、無詠唱を?」
「何度か練習しました」
嘘ではない。
この一年、私は何度も繰り返した。
かつての技術を取り戻すため、幼い体に無理をさせない範囲で、毎日少しずつ。
ロキシーはしばらく黙り込んだまま、私を見つめていた。
その視線には、明確な驚きと、戸惑いが混じっている。
「……もう一度、やってみてもらえますか?」
「はい」
私はうなずいた。
今度は、余計なことを考えないようにする。
見せようとするな。
ただ、やるべきことをやれ。
そう自分に言い聞かせる。
「今度は、形を作ろうと意識しすぎないでください」
ロキシーの声が、少しだけ慎重になっていた。
「形を意識しない?」
「はい。水球を作るとき、大切なのは正しい形を想像することですが、形だけを追いかけると魔力の流れが止まってしまうことがあります。まずは、水が生まれる感覚を大切にしてください」
正しい。
初歩的ではあるが、間違ってはいない。
私はもう一度、桶へ手を向けた。
今度は、完成した水球を思い描くのではなく、魔力が水へ変わる瞬間だけを意識した。
冷たさ。
重さ。
表面を伝う張力。
小さな水球が生まれ、わずかに揺れながら空中へ浮かんだ。
「……できましたね」
ロキシーの声には、先ほどとは違う種類の驚きが混じっていた。
安堵と、そして確信。
彼女は一歩近づき、水球をじっと見つめた。
「本当に……無詠唱で……」
小さく呟く。
その様子を見て、私は少しだけ胸が軽くなった。
今度は、ちゃんとできた。
認めてもらえた。
その実感が、じんわりと広がる。
ロキシーは顔を上げ、私を見た。
そして、ゆっくりと笑った。
「すごいですね、ルーデウス君」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥にひどく懐かしい感情が込み上げた。
褒められたことが嬉しかった。
四十年以上を生きた人間が、幼い少女のような見た目をした師に褒められただけで、どうしようもなく嬉しくなっている。
おかしな話だ。
だが、その感情を否定する気にはなれなかった。
「次は、少し大きくしてみましょう」
「はい」
水球を少しずつ膨らませる。
直径十センチ。
二十センチ。
魔力の供給量を一定に保ち、表面の揺らぎを抑える。
「そのまま維持してください」
ロキシーは水球の周囲を歩き、様々な角度から観察した。
だが、その視線には先ほどまでとは違う熱があった。
単なる指導ではなく、興味と驚きが混じっている。
「魔力は苦しくありませんか?」
「大丈夫です」
「頭が重くなったり、気分が悪くなったりは?」
「ありません」
「……そうですか」
彼女は小さく息を吐いた。
「では、少しだけ続けましょう」
私は彼女の言葉に従った。
実際には、魔力の消費などほとんど感じない。
今の私の魔力量は、まだかつての領域には遠く及ばない。それでも、同年代の子供と比べれば異常な量になっているはずだ。
だが、それを見せる必要はない。
今はまだ、ロキシーの弟子でいればいい。
「もう解除して構いません」
私は魔力の供給を止め、水球を桶の中へ落とした。
水面が揺れ、小さな波紋が広がる。
ロキシーは腕を組み、難しい顔をしていた。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
彼女は少し考えた後、言葉を選ぶように口を開いた。
「ルーデウス君は、魔術を使うとき、何を考えていますか?」
「何を、ですか?」
「例えば今の水球なら、水の形や温度、それから魔力の流れなどです」
私は答えに迷った。
正直に話せば、彼女には理解できないだろう。
魔力の圧力差、変換効率、術式の不安定性。
幼い子供が使う言葉ではない。
「失敗しないように、と考えています」
ロキシーは少し目を細めた。
「なるほど」
見抜かれたわけではない。
ただ、私の答えに何かを感じたのだろう。
彼女は桶の水を杖で軽くかき混ぜた。
「確かに、失敗しないことは大切です。魔術は使い方を誤れば、自分や周囲の人を傷つけます」
「はい」
「でも、それだけを考えていると、あまり楽しくありません」
その言葉に、私は顔を上げた。
ロキシーは桶の中から小さな水の塊を浮かせ、それを二つ、三つに分けた。
小さな水球は彼女の周囲をゆっくりと回り始める。
「魔術って、楽しいんですよ」
水球が跳ねる。
一つが高く飛び、もう一つがその下をくぐり、残った一つが細かな雫となって陽の光を反射した。
虹のような光が、ほんの一瞬だけ宙に浮かぶ。
「火を灯したり、水を出したり、風を吹かせたり。できなかったことができるようになるのは、嬉しいものです」
私は何も言えなかった。
魔術は、戦うためのものだった。
守るためのものだった。
敵を殺し、味方を救い、未来を変えるためのものだった。
やがては研究対象となり、ただの道具になった。
いつからだっただろう。
ただ魔術を使うことが楽しいと思わなくなったのは。
目の前で、小さな水球が踊っている。
何の役にも立たない。
敵を倒せるわけでも、傷を治せるわけでもない。
ただ綺麗で、少し面白い。
「やってみますか?」
ロキシーが杖を差し出した。
私はうなずいた。
「はい」
魔力を流す。
一つの水球を作り、二つに分ける。
片方が少し崩れた。
それを見たロキシーが笑う。
私も、もう一度試す。
今度は三つ。
一つが勢い余って彼女の肩にぶつかり、青い髪を濡らした。
「あっ」
「……ルーデウス君」
「すみません」
叱られると思った。
しかし、ロキシーは濡れた髪を指でつまみ、少しだけ頬を膨らませた後、杖を振った。
小さな水球が私の額へ飛んできた。
冷たい水が顔を濡らす。
私は呆然と彼女を見た。
「これでおあいこです」
ロキシーは、少し得意そうに笑っていた。
その顔を見ていると、自然に笑いが込み上げた。
抑える必要はないと思った。
私は声を上げて笑った。
ロキシーも笑った。
何がおかしいのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、楽しかった。
屋敷の窓からこちらを見ていたゼニスが、驚いたように目を丸くしているのが見えた。
その隣で、リーリャがわずかに口元を緩めていた。
私はもう一度、水球を作った。
今度は失敗してもいいと思いながら。
授業が終わる頃には、二人とも服のあちこちが濡れていた。
「今日はここまでにしましょう」
ロキシーは髪の水気を払いながら言った。
「明日は火属性について勉強します。ただし、火は水よりも危険です。勝手に練習してはいけませんよ」
「分かりました」
私は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「ありがとうございました、先生」
「……そんなにかしこまらなくてもいいですよ」
「でも、先生ですから」
ロキシーは困ったように眉を下げた。
「そうですか」
「はい」
「では、どういたしまして」
その返事を聞いてから、私は顔を上げた。
彼女はまだ少し照れていた。
私は知っている。
この人は、自分が偉大な教師だとは思っていない。
魔術師としても、もっと優れた者がいると思っている。
実際、純粋な知識や技術だけを見れば、いずれ私は彼女を遥かに超える。
だが、それでも彼女は先生だった。
魔術の使い方だけではない。
できなかったことが、できるようになる喜び。
知らないものを知る楽しさ。
そして、閉じた場所から一歩外へ出る勇気。
それを最初に教えてくれた人だった。
未来でどれほど遠くまで進もうと、どれほど多くの理論を完成させようと、それだけは変わらない。
私はきっと、死んでもこの人の弟子なのだ。