無職転生 過去に戻って本気出す 作:むささび五郎
ロキシーとの授業が始まってから、私の一日はずいぶんと規則正しいものになった。
朝は家族と食卓を囲み、食事が終われば庭へ出て魔術を学ぶ。昼食の後は木剣を手に取り、今度はパウロと向き合う。夕方にはその日に教わったことを思い返し、夜は文字や計算、歴史や地理についてロキシーに与えられた本を読む。
眠りに就き、目を覚ませば、また同じような一日が始まる。
以前の私であれば、代わり映えのしない生活だと思ったかもしれない。
だが、今は違った。
ロキシーが私の前に立ち、パウロが庭で木剣を構え、ゼニスが食事を作って待っている。それだけのことが、どれほど得難いものなのかを私は知っている。
明日になれば、また会える。
来年になっても、同じように笑い合える。
かつての私は、それを疑ったことすらなかった。
だが、人は死ぬ。
別れは、こちらの都合など待ってはくれない。
その事実を知ってしまった今の私にとって、同じように見える毎日は、決して同じものではなかった。
「今日は火属性の魔術を教えます」
ある朝、ロキシーは庭の中央に小さな石板を置き、その前に私を座らせた。
いつもの杖を手にしているが、今日は水属性を教える時よりも少しだけ表情が硬い。
「火は便利な属性ですが、水よりも扱いが難しい魔術です。炎そのものだけでなく、その周囲に何があるかまで考えなければなりません。乾いた草や木の近くで不用意に使えば、自分が傷つかなくても、誰かの家や畑を燃やしてしまうことがあります」
「使えることと、使っていいことは別、ということですか」
「そうです」
ロキシーは満足そうに頷いた。
「魔術師にとって大切なのは、強い魔術を使えることだけではありません。いつ、どこで、どの程度の魔術を使うべきなのかを判断することも同じくらい大切です」
その言葉は、以前の人生でも何度か聞いた覚えがあった。
だが、あの頃の私は、どこまで真剣に受け止めていただろうか。
威力を高めること、効率を良くすること、より早く発動すること。目に見える技術ばかりに意識を向け、魔術を使う者としての責任については、後から身につけていったように思う。
それでも最後まで大きな過ちを犯さずに済んだのは、最初にロキシーがこうして教えてくれたからなのかもしれない。
「まずは、小さな火を作ってみましょう。炎を大きくしようとは考えず、蝋燭の火を思い浮かべてください」
「はい、先生」
私は右手を石板へ向け、体の内側にある魔力を静かに動かした。
炎を作ること自体に難しさはない。未来の私は、火属性を含め、さまざまな魔術を何度も扱ってきた。
重要なのは、今の体に合わせることだった。
幼い肉体は、私が覚えているほどの魔力を一度に受け止められない。制御を誤れば魔術が失敗するのではなく、肉体の方を傷つける可能性がある。
そのため、私は自分の中にある技術をなぞるのではなく、今の体がどこまでなら自然に動かせるのかを確かめながら魔力を流した。
石板の上に、小さな炎が生まれる。
赤みを帯びた火は揺らぐことなく、指先ほどの大きさを保っていた。
ロキシーは黙って炎を見つめた後、私の手元へ視線を移した。
「もう少しだけ大きくできますか」
言われた通り、魔力の量をわずかに増やす。
炎は緩やかに膨らんだが、形は崩れなかった。
「では、小さくしてください」
今度は魔力を絞る。
「消してみましょう」
魔力の供給を絶つと、炎は煙を残さずに消えた。
ロキシーは石板へ近づき、表面に触れる。すぐに手を離したところを見ると、それなりに熱は残っていたらしい。
「初めてとは思えないほど安定しています」
「先生の説明が分かりやすかったからです」
「説明を聞いただけで、普通はここまでできませんよ」
ロキシーは少し困ったように笑った。
私が魔術を一度で成功させることにも、すでに慣れてきたのだろう。以前のように露骨に驚くことは少なくなっていたが、時折こちらを観察するような視線を向けることがあった。
詠唱もせず、教えられた魔術を一度で再現し、しかも必要以上に威力を出そうとしない子供。
教師として興味を持たない方が難しいだろう。
「ルーデウス君は、魔術を使う時に迷いませんね」
ロキシーは石板の熱が冷めるのを待ちながら言った。
「迷っているように見えませんか」
「はい。普通は初めての魔術を使う時、もっと力を入れすぎたり、反対に怖がって魔力を出せなかったりします。けれど、ルーデウス君にはそれがありません。自分の魔力がどのように動くのか、最初から知っているように見えます」
胸の内を見透かされたような言葉だった。
私は少し考え、嘘にならない範囲で答える。
「魔力を動かす感覚が、好きなのだと思います」
「感覚が好き、ですか」
「はい。先生に魔術を教えてもらっていると、自分の中にあるものが、きちんと形になるように感じます」
ロキシーはしばらく黙っていた。
やがて、その表情が柔らかくなる。
「それなら、私と同じですね」
「先生もですか」
「私も、魔術を使うことが好きです。知らない魔術を覚えたり、今までできなかったことができるようになったりするのは、とても楽しいですから」
その答えを聞いて、胸の奥に小さな熱が生まれた。
以前の人生で、私は魔術を道具として使うことが多くなっていった。
戦うため、守るため、移動するため、研究するため。
必要に迫られ、より強く、より正確に、より効率良く使うことを求め続けた。
それ自体が間違っていたとは思わない。
だが、魔術を初めて知った頃、私はもっと単純に心を躍らせていたはずだ。
水が生まれることに驚き、土が形を変えることを面白がり、自分の手の中に炎を作れることを喜んでいた。
その気持ちを教えてくれたのも、ロキシーだった。
「私も、楽しいです」
そう答えると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「では、次は火を移動させてみましょう。ただし、家の方へは向けないでくださいね」
「分かりました」
授業は昼前まで続いた。
火の大きさを変え、位置を動かし、途中で消す。複数の火を作ることも試したが、ロキシーは成功するたびに新しい課題を与えた。
彼女は、私ができることを見て喜ぶだけではない。
できた理由を考え、次に何を教えるべきかを考えている。
私の成長が早いことで、彼女自身も教師として試されているのだろう。
それでも、投げ出すことなく毎回授業の内容を考えてくれていた。
そのことが、私は何より嬉しかった。
昼食を終える頃には、パウロが庭で待っていた。
「遅いぞ、ルディ」
口ではそう言いながらも、パウロに怒っている様子はない。
私が木剣を手に取ると、彼は顎で庭の中央を示した。
「昨日の続きをやる。構えてみろ」
私は両手で木剣を握り、言われた通りに構えた。
パウロの剣術は、ロキシーの授業とは大きく異なる。
彼は細かい理屈を長々と説明しない。まず自分で動いて見せ、私に真似をさせ、違っていれば木剣や手で姿勢を修正する。
右足の位置、腰の向き、肩の力、剣先の高さ。
教え方は感覚的だが、何を直すべきかは的確だった。
「力を抜け」
「抜いています」
「抜けてない。そんなに腕に力を入れたら、振った後に戻せないだろ」
パウロは私の木剣を片手で押し下げる。
「剣は強く振ればいいってもんじゃない。相手に当てて、次の動きに繋げるまでが一回だ。振り切ったところで止まるなら、外した時に死ぬぞ」
幼い子供へ教えるには、ずいぶんと物騒な言い方だった。
だが、その内容は正しい。
戦いにおいて、一度の攻撃で相手を倒せるとは限らない。むしろ、初撃を避けられた後にどう動くかで、生死が決まることの方が多い。
私は何度もそれを経験してきた。
魔術師であっても、敵が遠くにいるとは限らない。
詠唱を必要とせず、魔術を素早く発動できたとしても、体勢を崩されれば威力も精度も落ちる。接近され、腕を押さえられ、魔力を練るより早く刃を向けられることもある。
そして何より、魔術が使えない状況は存在する。
だからこそ、剣術を疎かにするつもりはなかった。
才能がないから学ばないのではなく、才能がなくても必要だから学ぶ。
私はパウロの動きを見ながら、腕の力を抜き、腰から木剣を振った。
先ほどよりも剣先が滑らかに走る。
「そうだ。今の感覚を忘れるな」
「はい」
「もう一回」
私は同じ動きを繰り返した。
何度振っても、完全に同じ軌道にはならない。少しでも足の位置がずれれば、腰の回転が変わり、剣先の速度も変わる。
魔術であれば、長年の経験によって動きを修正できる。
だが、今の幼い体で剣を扱うことには、以前とは異なる難しさがあった。
記憶の中では理解していても、筋力と骨格が追いついていない。未来の体でできた動きを無理に再現しようとすれば、かえって姿勢が崩れる。
それは魔術と同じだった。
今の体で、今できることを積み重ねるしかない。
「少し休むか」
しばらくして、パウロが木剣を肩に担いだ。
「まだできます」
「そういう問題じゃない。お前はまだ小さいんだから、壊れる前に休め」
彼はそう言うと、庭の端に置いてあった水差しを私へ渡した。
私は素直に受け取り、木陰へ腰を下ろす。
パウロもその隣に座った。
しばらくの間、二人で黙って水を飲む。
風が庭を通り抜け、火照った体を冷ましていった。
「お前、本当に剣が好きなのか」
不意に、パウロが尋ねた。
「嫌いではありません」
「魔術の方が好きだろ」
「魔術は好きです」
「正直だな」
パウロは笑ったが、すぐに私の方を見た。
「だったら、剣は適当でもいいんじゃないか。お前は魔術だけでも、かなり強くなるだろ」
試すような口調だった。
私は水差しを膝の上に置き、少し考える。
この年齢の子供が答えるには、重すぎる理由しか思い浮かばなかった。
「魔術が使えない時もあると思うからです」
「どんな時だ」
「相手が近すぎる時や、後ろから襲われた時です。魔力がなくなったり、誰かが近くにいて大きな魔術を使えなかったりすることもあります」
パウロは目を細めた。
「ロキシーに教わったのか」
「少しは。でも、自分でも考えました」
「そうか」
それ以上、彼は追及しなかった。
子供らしくない答えだと思っただろうが、最近のパウロは、私が多少変わったことを言っても深く考えないようにしている節がある。
しばらく黙っていた後、彼は立ち上がった。
「なら、手は抜かないぞ」
「お願いします」
「泣いてもやめないからな」
「できるだけ泣かないようにします」
「そこは絶対泣かないって言えよ」
呆れたように言いながら、パウロは笑っていた。
私も立ち上がり、木剣を構える。
父と向き合い、剣を教わる。
以前の人生では、それをどこか煩わしく感じていた時期もあった。
パウロの言葉に反発し、自分の方が賢いと思い込み、彼の教え方の粗さばかりを見ていた。
今なら分かる。
パウロは決して学者ではない。魔術について詳しいわけでもなく、剣術を言葉で体系的に説明することも得意ではない。
それでも、戦士としての経験は本物だった。
相手の癖を見抜き、わずかな動きの乱れを察し、今の私に必要な課題を選ぶ。褒めすぎることはなく、かといって失敗を笑うこともない。
教え方が上手いというより、相手をよく見ているのだろう。
以前の私は、父が自分をどれほど見ていたのかを知らなかった。
あるいは、知ろうとしなかった。
パウロが踏み込み、木剣を振るう。
私は受けようとしたが、木剣は私の剣を軽く弾き、そのまま肩の寸前で止まった。
「今のは足が遅い」
「はい」
「もう一度だ」
私は構え直す。
何度打ち込まれても、何度崩されても、不思議と嫌にはならなかった。
剣術が楽しいからだけではない。
パウロが目の前にいて、私に剣を教えている。
その時間を、私は失いたくなかった。
それからの日々も、同じように続いた。
ロキシーからは火、風、土の各属性を学び、やがて初級魔術だけでなく、中級魔術へと進んでいった。座学では計算や文字だけでなく、各地の文化や種族、魔大陸や中央大陸についても教わった。
私はすでに知っている内容にも初めて聞くように耳を傾けた。
記憶と、ロキシーの言葉が完全に同じとは限らない。以前は聞き流していた細かな話の中に、新しい発見があることもあった。
午後にはパウロと剣を振った。
足運びから始まり、攻撃を受ける方法、避ける方法、相手との距離の測り方を学んだ。成長するにつれて訓練の内容も少しずつ厳しくなり、時には木剣を取り落とし、庭へ転がされることもあった。
それでも、私は立ち上がった。
体が育つたび、魔術も剣術も少しずつ変化していった。
扱える魔力の量が増え、より複雑な魔術を無理なく使えるようになる。剣を振るう腕にも力がつき、足元も以前ほど簡単には崩れなくなった。
季節の移り変わりを意識するより先に、服の袖や裾が短くなり、その度にゼニスが新しい服を用意してくれた。
ロキシーが屋敷へ来た頃には、私はまだ三歳だった。
それが、気がつけば五歳になろうとしていた。
二年という時間は長い。
だが、過ぎてしまえば、驚くほど短く感じられた。
ある日の午後、ロキシーはいつものように私の魔術を確認した後、珍しくすぐに次の課題を出さなかった。
私は発動させていた魔術を消し、彼女の様子を窺う。
「先生?」
「……いえ」
ロキシーは杖を胸の前で抱えたまま、考え込むように視線を落としていた。
「何か間違っていましたか」
「そうではありません。今日の魔術も問題ありませんでした」
そう答えた後も、彼女の表情は晴れなかった。
私は黙って待った。
やがてロキシーは顔を上げ、少しだけ寂しそうに笑った。
「ルーデウス君に、次は何を教えればいいのか考えていたんです」
「まだ教えてもらいたいことは、たくさんあります」
「そう言ってもらえるのは嬉しいです。でも、私が教えられる魔術については、ずいぶん少なくなってしまいました」
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
分かっていたことだった。
最初から、この日が来ることは知っていた。
ロキシーはいつまでもこの家にいるわけではない。私が一定の水準まで魔術を身につければ、家庭教師としての役目を終え、旅立っていく。
それが正しい。
彼女には、彼女の人生がある。
引き止める権利など、私にはない。
それでも、知っていることと受け入れられることは、同じではなかった。
「先生」
「はい」
「明日も、授業をしてくれますか」
ロキシーは一瞬驚いたような顔をした後、穏やかに頷いた。
「もちろんです」
「では、明日もお願いします」
「はい。こちらこそ」
その日は、それ以上の話をしなかった。
だが、授業が終わり、ロキシーが屋敷へ戻っていく背中を見送りながら、私は理解していた。
当たり前のように続いてきたこの日々にも、終わりが近づいている。
そして私は、以前と同じように、その背中を見送らなければならない。