無職転生 過去に戻って本気出す 作:むささび五郎
待ち合わせ場所に指定されていたのは、大学ではなかった。
シャリーアの北門。まだ朝日が昇って間もない時間で、夜の冷気が街道の上に薄く残っている。門を出入りする人影もまばらで、荷馬車の車輪が石畳を軋ませる音が、朝の静けさの中を遠くまで響いていた。
ディーンがそこへ着いた時、門の脇にはすでに一人の女性が立っていた。
背丈はディーンより少し高い。年齢は三十前後だろうか。褐色の肌に、灰色がかった短い髪。その髪の間から左右へ小さな角が伸びている。魔族だ。
厚手の上着に革の長靴。腰には短剣と水筒を下げ、背中には大きな背嚢まで背負っている。どう見ても大学で教鞭を執る研究者という格好ではない。冒険者ギルドの前に立っていたなら、これから数日がかりの依頼へ向かう冒険者だと思っただろう。
女性は近づいてきたディーンの顔を一瞥すると、挨拶より先にその足元へ視線を落とした。
「靴は?」
「これです」
「見せて」
「え?」
「靴底」
何を確認されているのか分からないまま、ディーンは言われた通り片足を上げた。女性はしゃがみもせず、泥の付き方と靴底の厚みを確かめるように眺める。
「もう片方」
今度は反対側を上げる。
「まあいいでしょう」
それだけ言うと、女性は踵を返して歩き出した。
「ちょっと待ってください」
呼び止めると、ようやく足が止まった。
「あなたがハルフェン先生の紹介してくれた人ですか?」
「そう」
「名前は?」
女性が振り返り、わずかに眉を寄せた。
「聞いてないの?」
「先生、靴と服のことしか言ってませんでした」
「あの男……」
呆れたように小さく息を吐き、肩からずれた背嚢を直す。
「リゼット・カルマー。魔物生態学。大学では非常勤で教えてる」
「ディーンです」
「知ってる。エドガーから手紙が来たから」
エドガー。
一瞬、誰のことか分からなかった。
ハルフェンを名前で呼ぶ人間を、ディーンは初めて見た気がする。大学では教師も学生も皆、ハルフェンと呼んでいる。それをまるで昔からの知人でも呼ぶように口にした。
少し気になったが、それより先に確認しておきたいことがある。
「どこ行くんです?」
「森」
「何しに?」
「魔物を見に」
それだけ答えると、リゼットは今度こそ北門を抜けて歩き始めた。
あまりにも当然のように言われたので、ディーンも一瞬遅れてその後を追った。
*
北門を出てから一時間ほど経った。
リゼットは速かった。
街道を歩いている間だけならともかく、道を外れて森へ入ってからもほとんど速度が落ちない。根を跨ぎ、低い枝を避け、湿った地面を迷いなく選んで進んでいく。ディーンも冒険者として長距離を歩くことには慣れているが、まさか研究者の背中を追って森を進むことになるとは思っていなかった。
「先生」
前を歩くリゼットが振り向きもせずに答える。
「リゼットでいい」
「じゃあ、リゼットさん」
「なに」
「何の魔物を見るんです?」
「灰尾栗鼠」
ディーンは危うく足を止めかけた。
「栗鼠?」
「そう」
「魔物ですよね?」
「そうよ」
それは分かっている。問題はそこではない。
「もっと強いやつじゃなくて?」
今度はリゼットが立ち止まり、肩越しにディーンを見た。
「強い方が研究しやすい理由は?」
「……魔術も強そう」
「魔術の強さを調べに来たの?」
言葉に詰まる。
違う。
ディーンが知りたいのは、強力な魔術の作り方ではない。人間が詠唱や魔法陣を必要とする一方で、なぜ魔物はそのどちらも使わずに魔術を発現できるのか。その違いの中に、魔術そのものの仕組みを知る手掛かりがあるのではないかと思ったから、ハルフェンに魔物の研究者を紹介してもらったのだ。
「灰尾栗鼠は小さい。数が多い。縄張りが分かりやすい。警戒時に風を使う。それに何より、人間を見てもすぐ襲ってこない」
リゼットは一つずつ指を折りながら数えていった。
「観察するには都合がいい」
「なるほど」
「強い魔物が見たいなら冒険者ギルドに行きなさい。私は生きてる魔物を見たいの」
その言葉だけが、妙に耳に残った。
「生きてる魔物?」
「着けば分かる」
リゼットは説明を終えたつもりらしく、再び歩き出した。
またそれだ。
最近、説明してくれない大人が多い。
そう思いながらも、ディーンは黙ってその背中を追った。
*
さらに森の奥へ入ったところで、リゼットが突然立ち止まった。
反射的にディーンも足を止める。
「ここから静かに」
それまでと違って、声が囁くほど小さくなっていた。
リゼットの視線の先には大きな木が一本立っている。幹は太く、枝葉が周囲の木々へ重なるほど広がっているが、ディーンが目を凝らしても特別なものは見当たらない。
リゼットは茂みの陰に身を沈めると、背嚢から一枚の布を取り出した。それを湿った地面へ敷き、その上に腹這いになる。
「隣」
ディーンも言われるまま同じ姿勢を取った。
「どこです?」
「探して」
「教えてくれないんですか?」
「私が見つけたら、私の観察になるでしょう」
もっともだった。
ディーンは口を閉じて木を見る。
幹。枝。葉。
風に揺れる枝葉の隙間まで目を凝らしたが、それらしいものは見えない。
五分。
十分。
じっと同じ姿勢を続けていると、肘の辺りがじわじわと痛くなってきた。虫が袖を這い上がってくる感覚もある。それでも隣のリゼットは微動だにしない。
「……いないんじゃないですか?」
「いる」
「どこ?」
「探して」
結局、同じ答えしか返ってこない。
仕方なく再び木へ目を戻した。
さらにしばらく経った頃、一本の枝がわずかに揺れた。
風ではない。
周囲の葉とは違う動きだった。
目を凝らす。
灰色の小さな何かが、幹を這っている。
「あ」
思わず声が漏れた。
すぐにリゼットの視線が飛んできて、ディーンは慌てて口を閉じる。
灰尾栗鼠は普通の栗鼠より一回り大きかった。名前の通り長い尾の先端だけが灰色に染まっている。それ以外は、ディーンの知る栗鼠と大して変わらない。枝から枝へ移り、前脚で木の実を抱え、器用に殻を割って齧っている。
魔物だと言われなければ、ただの動物にしか見えなかった。
ディーンはすぐに帳面を取り出そうとした。
その手首を、横からリゼットに掴まれる。
「まだ」
小さな声だった。
「なんで?」
「まず見て」
仕方なく帳面から手を離す。
栗鼠を見る。
木の実を食べる。少し移動する。立ち止まる。また食べる。
それだけだ。
魔術を使う様子はない。
何も起こらない時間が延々と続く。
十五分ほど経った頃、不意に遠くで鳥の群れが飛び立った。
羽音が森を横切った瞬間、灰尾栗鼠の動きが止まった。
先ほどまで木の実を抱えていた身体が固まり、頭がわずかに持ち上がる。尾がゆっくりと上を向いた。
次の瞬間だった。
周囲の葉が、一斉に揺れた。
風だ。
栗鼠を中心として、枝葉が外側へ押し広げられるように開く。ほんの一瞬だけ吹いた風はすぐに消え、灰尾栗鼠は木の実を捨てると枝から枝へ跳び、そのまま木々の奥へ姿を消した。
今度こそディーンは帳面を開いた。
『警戒時、風』
その下へ続ける。
『詠唱なし』
さらに、
『魔法陣なし』
そこで筆が止まった。
三行を眺める。
何か足りないような気がしたが、何が足りないのかは分からない。
「どうだった?」
隣からリゼットが聞いた。
「風魔術を使いました」
「それだけ?」
「詠唱してない。魔法陣もない」
「それだけ?」
また同じ問いが返ってくる。
ディーンは栗鼠がいた枝を見た。
「……何がです?」
「あなた、魔術を使った瞬間しか見てなかったでしょう」
図星だった。
「だって、それを調べに来たので」
「だから駄目なの」
リゼットは腹這いの姿勢を崩さないまま、灰尾栗鼠が消えた方向を見ている。
「灰尾栗鼠はいつ風を使った?」
「警戒した時」
「何に?」
「鳥が飛んだ音……たぶん」
「その前は?」
「木の実を食ってた」
「身体は?」
ディーンは先ほどの光景を頭の中で巻き戻した。
「止まった。尾が上がった」
「その前後で?」
「姿勢が変わった」
「他には?」
そこで答えがなくなった。
見ていたはずなのに、思い出せない。
リゼットはようやく自分の帳面を取り出した。開かれた頁を見て、ディーンは言葉を失った。
細かな文字がびっしりと並んでいる。
時刻。天候。風向き。推定される個体の大きさ。出現した位置。移動経路。食餌。周囲の音。姿勢。尾の位置。そして最後に、使用した魔術。
ディーンの帳面には三行しかない。
「魔術だけ切り取っても分からない」
リゼットが言った。
「生き物が魔術を使うなら、その魔術は生き物の行動の一部よ」
ディーンは自分の帳面へ目を落とした。
そこには確かに、魔術のことしか書かれていなかった。
*
その日は午後まで同じ場所で観察を続けた。
灰尾栗鼠は三度姿を見せたが、魔術を使ったのは最初の一度だけだった。二度目は木から木へ移動し、しばらく餌を探した後、そのまま姿を消した。三度目に現れたのは別の個体で、縄張りの端を通り過ぎただけだった。
以前のディーンなら、その二回を「何も起こらなかった」と処理していただろう。
だが、リゼットの帳面を見てからは書き方を変えた。
現れた時刻。どこから来たか。どの枝を通ったか。何をしていたか。周囲で何が起きたか。そして魔術を使った場合は、その直前と直後に何をしていたか。
書いているうちに、頁は少しずつ埋まっていった。
「これでいいですか?」
休憩の際、リゼットに帳面を差し出した。
彼女は数頁をめくり、鼻を鳴らす。
「最初よりは」
「最初、三行しかなかったですからね」
「見たものが三つしかなかったからね」
「見てましたよ」
「目を向けていたのと、観察したのは違う」
少し腹が立った。
だが、自分とリゼットの帳面を並べれば、言い返す気にはなれなかった。
ディーンは木の幹へ背を預け、少し考えてから尋ねた。
「リゼットさんは、なんで魔物を調べてるんです?」
「好きだから」
即答だった。
「魔物が?」
「変?」
「いや。魔術を研究したいとかじゃなくて?」
「魔術も好きよ。でも、魔物の一部としてね」
リゼットは足元に落ちていた木の実の殻を拾い、指先で転がした。
「人間は魔物を見ると、すぐ『何をしてくるか』を考えるでしょう」
「まあ」
冒険者なら当然だ。相手が何をしてくるかを知らなければ、死ぬ。
「火を吐く。毒を出す。風を起こす。危険度はこれくらい。倒し方はこれ。取れる素材はこれ」
リゼットは木の実の殻を摘まんだまま、先ほど灰尾栗鼠がいた木を見上げた。
「どれも必要な知識よ。でも、それだけじゃ、その生き物のことは分からない」
「じゃあ何を見るんです?」
「全部」
「全部?」
「何を食べるか。どこで寝るか。群れるか、一匹でいるか。何を怖がるか。どうやって子供を育てるか。魔術をいつ使うか。そして、使わない時は何をしているか」
そこまで言って、リゼットは少し笑った。
「全部見ても、全部は分からないけどね」
ディーンもつられて笑った。
その言い方は、嫌いではなかった。
*
それから数か月、リゼットとの調査は断続的に続いた。
毎日ではない。そもそもリゼット自身、大学にいる日の方が少なかった。北の森へ入る日もあれば、街道から外れた草原を何時間も歩く日もあった。洞窟へ潜ったこともある。目的の魔物が見つからず、一日中歩いただけで帰った日もあったし、冒険者ギルドで目撃情報を集めるだけで終わることもあった。
その間に、ディーンはいくつもの魔物を観察した。
警戒時に風を起こす灰尾栗鼠。
口から火を吐く赤喉蜥蜴。
地面を局所的に盛り上げ、巣穴を作る穴潜り。
見続けているうちに分かってきたのは、同じ種であっても常に魔術を使うわけではないという、ごく当たり前のことだった。
驚いた時。獲物を追う時。敵から逃げる時。縄張りを守る時。
魔物は必要な状況で魔術を使い、必要がなければ使わない。
言葉にしてしまえば当然だった。
しかし、ディーンの興味は次第に別のところへ向かい始めていた。
「リゼットさん」
「なに」
赤喉蜥蜴を岩陰から観察していた時、ディーンは帳面から顔を上げた。
「こいつ、火を吐く前に喉が膨らんでません?」
「膨らむわよ」
「毎回?」
「私が見た限りでは」
リゼットから過去の記録を借りる。
何年分も積み重なった観察記録を遡っていくと、確かに同じ記述が何度も出てきた。
『発火前、咽頭部膨張』
そして数頁先で、ディーンの指が止まった。
『発火失敗時も同様の動作あり』
「失敗?」
「火が出なかった時」
「それでも喉は膨らんだ?」
「そうね」
ディーンはその一文をもう一度読んだ。
成功した時に起きる現象だけなら、それが魔術に必要なものなのか、単に付随して起きているだけなのか分からない。
だが、失敗した時にも途中まで同じことが起きているなら。
「見たい」
「失敗を?」
「はい」
リゼットが笑った。
「あなた、失敗好きね」
「分かりやすいので」
成功した現象には、必要なものも不要なものも全部含まれている。どれを抜けば失敗するのか分からない。
失敗には、何かが欠けている。
その違いを見つけられれば、必要なものを絞れるかもしれない。
それから二週間、二人は赤喉蜥蜴を追った。
一度目は成功。
二度目も成功。
三度目は魔術そのものを使わない。
四度目も成功。
都合よく失敗してくれるわけではない。
「失敗しないな」
ディーンがぼやくと、リゼットは当然のように答えた。
「生き物だからね。失敗ばかりしてたら死ぬでしょう」
「それもそうか」
そして六度目の観察だった。
若い赤喉蜥蜴が、小型の獲物へ向かって頭をもたげた。
口が開く。
喉が膨らむ。
その奥が、赤く光った。
――いや。
光ったように、ディーンには見えた。
次の瞬間、蜥蜴の口から小さな火が漏れた。
炎と呼ぶにはあまりにも弱い。獲物へ届く前に空中で揺らぎ、そのまま消える。
「今の」
「見た」
リゼットもすでに帳面を開いていた。
だがディーンは書かなかった。
今見たものではなく、自分の中に残っている感覚を探した。
魔力が見えたわけではない。
それでも、何かを知っている。
無詠唱で魔術を使う時。
身体の内側で魔力を動かし、発動させたい場所へ集める時。
それと、どこか似ていた。
「……口から出す前に、もう何かやってる」
思わず呟いた。
「そりゃそうでしょう」
リゼットは平然と答えた。
「え?」
「人間だって、詠唱が終わった瞬間に突然全部が始まるわけじゃないんでしょう?」
ディーンは答えなかった。
答えられなかったのではない。
あまりにも当然のことを、自分が見落としていたことに気づいたからだ。
*
大学へ戻ると、ディーンはハルフェン、サフィア、ミレイユ、ニコを研究室へ集めた。リゼットから借りたものも含め、数か月分の観察記録を机いっぱいに広げる。
魔物ごとに身体は違う。行動も違う。使う魔術も違う。
それでも、記録を並べて比較すると、いくつか共通して見えるものがあった。
魔術の発現前に、特定の姿勢や身体変化を伴う種がいる。同じ種であれば、ほぼ同じ身体部位から魔術を発現する。そして発動に失敗した場合でも、その直前までの身体動作が残ることがある。
「身体の中に魔法陣があるとか?」
ニコが言った。
「分からない」
ディーンはすぐに答えた。
以前の自分なら、その言葉を面白がって、そのまま仮説として帳面へ書いていたかもしれない。
今は、一度止まる。
見ていないものを、見たことにはしない。
「でも、魔術が出る前に何か起きてる可能性はある」
「そこまでですね」
サフィアが頷き、ミレイユは赤喉蜥蜴の身体図を見ながら考え込んでいる。
「死体は?」
やがて彼女が尋ねた。
「あります」
答えたのはリゼットだった。この日は珍しく大学まで同行している。
「ギルドから状態のいい個体を譲ってもらえる。ただし――」
「解剖したい」
ディーンが言った。
リゼットは呆れたように笑った。
「そう言うと思った」
「駄目ですか?」
「駄目じゃない。でも、勘違いしないで」
そこで表情が少しだけ真面目になる。
「死体を開いて見つからなかったからって、生きている時にもなかったとは限らない」
「なんで?」
「死んでるから」
あまりにも当然の答えだった。
ディーンが黙っていると、リゼットは机の上に広げられた身体図を指で叩いた。
「形として残るものと、生きている時にだけ働くものは違うかもしれない。だから私は先に、生きてるところを見せたの」
その言葉を聞きながら、ディーンはこれまで調べてきたものを思い返した。
魔法陣は残る。
魔道具も残る。
線を追える。部品を外せる。壊して中を調べることもできる。
だが、人間や魔物の中で起きていることは、同じようには残らないのかもしれない。
死んだ瞬間に失われるものがあるのなら、死体だけをいくら詳しく調べても辿り着けない。
「……面倒だな」
「生き物はそういうものよ」
リゼットが笑った。
「でも面白いでしょう?」
ディーンも笑った。
「はい」
*
その後、ギルドから譲り受けた赤喉蜥蜴の死体を解剖した。
喉には、他の蜥蜴には見られない特徴的な器官があった。
最初に見つけた時は、これだと思った。
だが調べれば調べるほど、簡単には決められなくなった。
それが魔術そのものを生み出す器官なのか。炎を吐き出す際に必要な身体構造なのか。それとも魔術とは直接関係なく、別の役割を持つ器官なのか。
一体を調べただけでは分からない。
別の個体と比較した。
さらに近縁の種とも比べた。
それでも答えは出なかった。
けれど、その過程でディーンの中には一つの考えが残った。
魔法陣。
魔道具。
人間。
そして魔物。
どれも仕組みは違って見える。
魔法陣には線がある。魔道具には内部構造がある。人間には詠唱や無詠唱による発動感覚があり、魔物には種ごとに異なる身体変化がある。
だが、少なくとも一つだけ同じことがある。
結果だけが、突然現れているわけではない。
ディーンは机に向かい、帳面を開いた。
『魔法陣――線・分岐・合流』
『魔道具――内部経路・供給部』
『人間――発動前の感覚あり。実際の移動かは不明』
『魔物――発動前に種ごとの身体変化あり』
四つを縦に並べる。
同じものだ、と書きたくなった。
だが、筆を止めた。
まだ早い。
似ているものを同じものとして扱えば、見たいものしか見えなくなる。それはリゼットと森へ入る前の自分と変わらない。
だから、その下には断定ではなく問いを書いた。
『共通しているのは何?』
筆先を紙の上に浮かせたまま、しばらく考える。
答えは出なかった。
ならば、答えを書く必要はない。
代わりに新しい頁を開いた。
『次は、同じ魔術で比べる』
火を使う人間。
火を生み出す魔法陣。
火を発生させる魔道具。
そして、火を使う魔物。
今までは方法の違うものを、それぞれ別々に見ていた。
今度は結果を揃える。
同じ「火」が現れるなら、その手前に何があり、どこが同じで、どこから違うのか。
翌朝、ディーンはその帳面を持ってハルフェンの研究室を訪れた。
ハルフェンは最初から最後まで黙って読み、最後の頁まで来たところで帳面を閉じた。
「やっと比較らしくなってきたな」
「遅いですか?」
「早い」
意外な返事だった。
ディーンが顔を上げる。
「だから急ぐな」
ハルフェンはそれ以上説明せず、帳面を差し出した。
ディーンも問い返さなかった。
「はい」
受け取って研究室を出ようとする。
扉へ手をかけたところで、ふと思い出して振り返った。
「先生」
「なんだ」
「リゼットさん紹介してくれて、ありがとうございます」
書類に向かっていたハルフェンの手が、一瞬だけ止まった。
「本人に言え」
「もう言いました」
「ならいい」
それだけだった。
ディーンは研究室を出た。
答えは、まだない。
むしろ調べるものは以前より増えていた。
魔法陣だけを見ていた頃より、ずっと遠回りをしている。リゼットが加わり、サフィアが加わり、ミレイユやニコの視点まで入れば、一つの仮説を簡単に正しいと決めることさえできなくなった。
けれど、それでいいのだと思う。
一つの現象を、一つの場所からしか見ていなかった頃には見えなかったものがある。
ディーンは帳面を抱え、大学の廊下を歩いていく。
次に確かめることは決まっていた。
同じ火を、違う方法で起こす。
火を見るのではない。
火になる前を見る。
魔法陣では何が起こるのか。
魔道具では。
魔物では。
そして、自分の身体では。
それらを同じ条件の下に並べた時、初めて比較できるものがあるはずだった。
ディーンは歩きながら帳面の表紙を指でなぞった。
まだ仮説ですらない。
誰かに説明するには曖昧すぎる。証拠も足りない。
だから、まだ頁の外へ出すつもりはなかった。
――『流向』。
その二文字は今も、ディーンの帳面の中だけにあった。