マキマVS藍染惣右介VS羂索 作:夢女
勝利の後に訪れる静寂ほど、デビルハンターや戦士にとって五感を狂わせる危険なものはない。
戦闘中、人間の脳は信じられないほど急速に情報を切り捨てる。視界にあるのは敵の肉体、味方の位置、そして「生存」と「勝利」という二文字だけ。だからこそ、熱狂が去り、現実の冷気が肌を刺した瞬間、人間は否応なしに次の問題へと引き戻される。
――タッ、タッ、タッ……。
遠くのアスファルトを叩く、小気味よく統率された足音。迷いがなく、複数が一定の距離を保って包囲網を狭めてくる。
悪魔と日常的に戦う者たちが纏う、あの特有の鉄錆のような気配だ。
「……公安だな」
俺の呟きに、レゼが肩を微かに強張らせて静かにこちらを観察してきた。
「アゲハくん、まずい? 私、ソ連の検体だってバレたら……」
「ああ、かなりまずい。全力で面倒な事態だ」
公安は市民を守る組織であり、決して悪ではない。だからこそ厄介なのだ。悪魔なら『暴王の月』で塵にすればいいが、彼らには彼らなりの「正義」がある。正義と正義が衝突するとき、そこに生まれるのは綺麗な勝敗ではなく、泥沼の価値観の押し付け合いだけだ。
「一度引こう。公安のトップがどんな思惑で動いているか、まだ情報が足りない。ここで無駄な交戦をするのは悪手だ」
「……ふふ、意外。アゲハくんなら、力尽くで全員伸しちゃうのかと思った」
「俺を戦闘狂か何かに分類するな。生き残るための潜伏や隠蔽の技術なら、前回の人生で嫌というほど仕込まれてる」
俺はレゼの細い手首を掴むと、公安の包囲網の隙間を縫うようにして夜の路地裏へと滑り込んだ。路地の構造、光の死角。数十分のチェイスの末、完全に追跡の気配を振り切る。
「……ふぅ、なんとか逃げ切った、かな?」
壁に背を預け、息を整えるレゼ。しかし、安堵したのも束の間、俺の首筋の産毛が逆立った。
殺意はない。明確な敵意すら希薄だ。だが、圧倒的な質量を持った「異物」の気配が、袋小路の出口を完全に塞いでいた。
白い制服の滅却師。
「――そこまでだ、夜科アゲハ」
月光のなかに佇んでいたのは、汚れ一つない白い制服を纏った眼鏡の青年だった。背筋を真っ直ぐに伸ばした美しい姿勢。
その手には、大気中のエネルギー――霊子を編んで作られた、青白く輝く一本の弓が握られている。
「……滅却師」
俺の口から漏れた単語に、青年は眼鏡の奥の瞳を僅かに細めた。
「僕たちの血統を知っているのか。……やはり、君はこの世界の住人ではないな」
「お前は、石田雨竜……!」
脳内の知識が火花を散らして繋がる。世界融合によって流れ込んできた、悪魔とは全く異なる法則で戦う『死神』の宿敵。霊子を操り、虚を完全に消滅させる一族の末裔。
「君に個人的な恨みはない」
石田は静かに、だが一切のブレを許さない声音で弓を構えた。
「だが、世界の秩序を乱す異物は看過できない。とりあえず、身柄を拘束させてもらう。――夜科アゲハ。君がそこの『武器人間』を置いていくなら、君だけは見逃そう」
「なんでだよ。お前らの天敵は死神だろ。なんで人間を狙う。それにわざわざ警告をするんだ」
俺の問いに、石田は淡々と、しかし極めて冷徹な哲学的な視点から答えた。
「君は『善人』だからだよ、夜科アゲハ。……いや、訂正しよう。君は『危険すぎる善人』だ。自分の正義や優しさを他者へ押し付け、結果として世界全体のバランスを崩壊させる引き金になりかねない。力を持つ人間として、最も警戒すべき存在だ。だが、君が目の前の命を救おうとするその姿勢そのものには、僕としても理解できる部分がある。だから君は後回しだ。――まずは、そっちの大量破壊兵器を渡してもらおうか」
「……っ」
レゼの身体が、これまでにないほど激しく震え始めた。
彼女はソ連の秘密研究所で地獄のような訓練に耐え、爆弾の悪魔の力を得た超常の戦士だ。デンジたちを前にしても怯まなかった彼女が、目の前の石田雨竜という存在に、明確な『生物としての恐怖』を抱いている。
格が違うのではない。生きている「次元の階層」が違いすぎるのだ。彼女の目には、目の前の眼鏡の青年が、自分を概念ごと消滅させにきた絶対的な捕食者に見えている。
俺は何も言わず、震えるレゼの肩を強く抱き寄せた。自分の体温を分け与えるように、彼女を背中に隠す。
「私、は……私は」
「大丈夫だ」
俺はレゼにだけ聞こえる声で囁き、前を睨みつけた。
「俺がいる。――石田、そこをどけ。戦うって言うなら、殺すぞ」
「不可能だ」
石田の言葉には、怒りも、傲慢さもなかった。ただ、数式を読み上げるように「絶対の事実」として己の勝利を確信している。だが、強さとは勝てることじゃない。守るために何度でも立ち上がることだ。
「――『暴王の月・流星』」
空間を歪めながら、漆黒の消滅エネルギーが圧縮された超高速の弾丸となって撃ち出された。
避ける隙すら与えない、光速に迫る一撃。黒い流星は石田雨竜の胸を正確に貫き、彼の白い制服を瞬時に鮮血で染め上げた。
ドサ、と膝をつく石田。
「瞬、殺」
息を呑むレゼ。だが、俺は構えを微塵も解かなかった。異世界のトップランナーが、この程度の一撃で沈むはずがない。
「……なるほど。あらゆる消滅させる能力か。危険な能力だ」
石田雨竜はゆっくりと顔を上げた。胸の風穴から大量の血を流しながら、その表情は冷徹なまでに冷静だった。
「流星はホーミングする。……それが君の追加したプログラムだね」
石田は背後を振り返ることなく、指先から放った霊子の矢で、彼の背後で再接近の機会を狙っていた『暴王の月』の残滓を正確に射抜いた。それも、ただ撃ち落としたのではない。霊子の性質をあえて暴王の月に『捕食』させ、エネルギーの過剰膨張を引き起こして自壊させたのだ。
「自分の能力を弱め、分割し、制圧用にデチューンする。味方を巻き込まないための君の優しさであり理性だ。だが――」
石田は眼鏡の位置を中指で直した。
「強力であることと、戦術的に勝利できることは別問題だと言ったはずだよ」
俺は奥歯を噛み締めた。この男は、俺の能力の本質を初見で見抜き、俺自身の「制御」を完璧に利用してみせた。己の力を信仰せず、ただの「道具」として徹底的に客観視している。
そして何より、この男の持つ最悪の聖文字を、俺は知っている。
「『完全反立』……!」
指定した二つの対象の間に起きた「事象」を、完全に逆転させる能力。
石田の胸の傷が、嘘のように掻き消える。そして――
「がはっ……!? んあぁあッ!!」
背後で、レゼの悲鳴が路地裏に木霊した。
見れば、彼女の両腕が根元から弾け飛び、鮮血が壁を赤く染めていた。石田が受けた「部位の破壊」という結果が、完全反立によってレゼへと完全に転移させられたのだ。
「な……っ!」
「完全反立の対象は、僕と、君の守りたかったその仲間だ」
石田は冷酷に弓を引き絞る。
「君が動けば、事象の逆転によって彼女の命がさらに削られる。君は選択肢を失ったんだ、夜科アゲハ」
頭上から降り注ぐ、無数の神聖滅矢の光の雨。
俺は『暴王の月』を盾のように展開し、必死に光の矢を相殺する。だが、敵の処理速度が俺の脳の限界を超えていく。
一瞬の、本当にコンマ数秒の硬直。
視界からレゼの身体が消えた。
「しまっ……!」
振り向いたときには、石田雨竜が両腕を吹き飛ばし、レゼを片腕で拘束していた。
そして光の弓を俺の眉間に突きつけていた。
「君はそこで大人しくしていろ。間違っても、彼女を取り戻そうなどと考えるな。――死ぬぞ」
静寂のなか、体が震えていた。
PSIの過剰行使による肉体の軋み、そして何より、圧倒的な敗北感。客観的に見れば、勝率はゼロに近い。ここで命を最優先するなら、合理的な判断は「撤退」の一択だ。
だからこそ――俺は笑った。
「ああ?」
一歩、足を踏み出す。
「強がりはやめろ。君は重症だ。これ以上の戦闘は命に関わる」
「お前の言っていることは全部正しいさ。反論の余地もないくらいにな!」
俺は血の混じった唾を吐き捨て、石田を睨み据えた。
「現実を見て、合理的に動かなきゃ世界は救えない。そんなことはな、お前に言われなくたって何千回も骨身に沁みてるんだよ! だけどな――!」
胸の奥の、前回の人生の中で何度も押し殺してきた熱い衝動が、今度こそ爆発するように叫んでいた。
「だからって、目の前で腕をもがれて泣いてる女の子を見捨てて、自分だけ生き残る理由にはならねえんだよ!!」
「……」
「俺は神様じゃないし、世界を救う英雄にもなれなかった! 何度も失敗して、何度も大切な奴らを目の前で死なせてきた! だからこそ、もう絶対に嫌なんだ。世界がどうとか、秩序がどうとか知るか! 目の前の一人を見捨てるような『合理的で賢い怪物』にだけは、俺は絶対に、死んでもなりたくない!!」
石田雨竜は、弓を構えたまま静かに俺を見ていた。その瞳には、侮蔑も哀れみもなかった。彼は理解したのだ。俺が勝算という「計算」ではなく、己の魂の「思想」で動いていることを。
彼は全体の秩序のためにレゼを隔離しようとし、俺は彼女の未来のためにここで命を懸けている。
「……本当に」
石田は寂しげに、そして確固たる決意を込めて呟いた。
「君は、世界にとって危険な『善人』だな。夜科アゲハ」
「上等だ。お前のその綺麗すぎる正義ごと、俺がひっくり返してやる」
俺の周囲に、再び細かく分割された漆黒の星々が浮かび上がる。
これは全てを無に帰す破壊の力。だが、今この瞬間だけは、一人の少女の『明日』を繋ぎ止めるための、絶対的な守護の盾だ。
「レゼを、取り戻す!」
俺は地を蹴った。黒い星の群れを従え、現実を書き換える最強の敵へと、己の限界を超えて突撃する。