マキマVS藍染惣右介VS羂索   作:夢女

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二話:異邦人

 

 夜というものは、不思議な時間だ。

 昼間の喧騒のなかでは綺麗に隠蔽されている歪みが、闇の中では輪郭を伴って逆に浮かび上がる。人間の心の底にある底知れない恐怖。闇に蠢く怪物の存在。そして――直面したときに剥き出しになる、人間の剥き出しの本質。

 

 俺と、目の前に佇む男は、言葉を交わさずとも互いにそれを理解していた。だからこそ、最初から破滅的な戦闘にはならなかった。

 

 理由は極めて単純。

 

 お互いが、相手の底の浅さを笑えないほどに限界まで警戒しているからだ。

 一瞬の油断もしていない。相手を微塵も信用していない。しかし、だからこそ無駄な衝突でリソースを消費するような愚は犯さない。それこそが、命のやり取りを知る者が持つ「理性」という名のブレーキだった。

 

 ――少なくとも、俺はそう考えている。

 

 羂索という男は危険だ。それは生存本能が直感している。だが、真に危険な人間というのは、必ずしも衝動的に暴力を振るうわけではない。むしろ本当に恐ろしいのは、自分自身のドス黒い感情や底なしの欲望を完璧に理解した上で、それを目的のための冷徹な道具として制御できる人間だ。

 

 怒りに任せて拳を振るう者は読みやすい。欲望のままに動く者も対策が立てやすい。しかし、自分自身の目的を狂気的なまでに理解し、そのために自分の感情すらチェスの駒のように扱える者はまるで次元が違う。

 

 羂索は、間違いなく後者だ。だから俺は、彼の細められた瞳の奥にある光をじっと観察し、一瞬たりとも視線を逸らさない。いつでも最悪の事態に対応できるように、意識の糸を極限まで張り詰める。

 

「――『暴王の月』」

 

 俺の背後に、黒い球体が複数展開される。

 夜の空間を物理的に歪ませるほどの圧倒的なエネルギーが、微かな駆動音とともに凝縮されていく。

 これは無意味な威嚇ではない。ただの「準備」だ。敵意をあからさまに見せることと、無防備にハトのように佇んでいることは決定的に違う。

 

 優しさとは、相手に対して無警戒に寝首をかかれに行くことではない。大切なものを守るためには、いつでも相手を切り裂ける刃を抜く覚悟が必要なのだ。

 

 力を持った者ほど、その力を振るった後に生じる血の責任から逃げてはいけない。強さとは、ただ相手を踏み潰して優越感に浸るためのものではなく、理不尽に奪われそうなものを文字通り「死守」するために存在するものだからだ。

 

 一方、羂索の側もまた、不気味なほど完璧な迎撃態勢を整えていた。

 周囲の空気にべっとりとまとわりつく、悍ましい呪力。まだ姿を見せない、闇に潜む呪霊たちの無数の気配。正確な数は分からないが、包囲されていることだけは肌に伝わる刺すような空気で理解できた。

 

 互いに最凶の武器を喉元に突きつけ合った状態。それなのに、俺たちは血を流す前に会話という選択肢を選んでいる。

 それが、俺たちの数少ない、そして奇妙な共通点だった。

 

「同郷の人間に会えて嬉しいよ」

 

 羂索が、まるで放課後の教室で友人に話しかけるような軽さで笑った。

 その笑顔には、針ほどの敵意も混ざっていないように見える。しかし、だからこそ胃の奥が冷たくなる。

 

 経験が教えているのだ。本当に危険な人間ほど、感情を殺すのではない。感情の仕組みを完璧に理解した上で、他者を誘導するためにそれを利用するのだと。

 俺は「暴王の月」の輝きを維持したまま、警戒を解かずに声を返した。

 

「それはこっちも同じだと言いたいところだが……」

 

 視線を鋭く細め、倒れている紫黒髪の少女――レゼの身体を半分庇うように足を進める。

 

「お前、なんでこんな場所にいる? 何が目的だ」

 

 問いは至ってシンプルだった。

 これほどの規格外の力を持つ者が、この時間、この場所に現れた理由。

 

 それを明確にしなければ、次の行動へは移れない。世界には善意だけで動く人間もいるが、独善的な善意だけで世界を修正しようとする人間ほど、時に大災害を引き起こす。

 

 理想とは暗闇を照らす光だが、強すぎる光は、時により深い漆黒の影を生み出すからだ。

 羂索は、困った子供のように大袈裟に肩をすくめてみせた。

 

「邪推が過ぎるな。単純に、その子を助けようと思って足を運んだだけなんだよ」

 

 俺はレゼを一瞥する。

 

「……彼女を?」

「そう。君なら、この子がどういう存在なのか、とうに知っているだろう?」

「ある程度はな」

 

 彼女が普通の女子高生などではないこと。爆弾の悪魔の力を宿した「武器人間」であること。そして、ソ連の冷徹な工作員として育てられた凄惨な背景。それくらいは、俺の中にある知識として存在している。

 

 羂索は、我が子の成長を喜ぶ父親のような顔で満足そうに頷いた。

 

「そうか、話が早くて助かるよ」

 

 そこで、彼の表情からスッと「道化」の仮面が剥がれ落ちた。ただの観察者から、冷徹に真理を追い求める一人の研究者の顔へ。

 

「なら、一つ純粋な疑問として問いたい。――君は何故、彼女を助けたんだい?」

 

 その質問に込められた質量は、想像していたよりも遥かに重く、俺の胸に突き刺さった。

 

「何故、だと?」

「ああ」

 

 羂索は、どこまでも澄んだ、しかし温度の無い目を向けてくる。

 

「大局的な視点から見れば、彼女はそれほど重要なファクターではないはずだ。世界規模の天秤にかければ、彼女一人の命の重さなんて、あまりにも小さくて些細なものだろう?」

 

 冷酷だが、論理的には何一つ間違っていない。世界には数え切れないほどの命が溢れている。

 ここで彼女一人を救ったところで、世界の残酷な構造全体が変わるわけではないのだ。

 

 ――羂索が見ているのはそこだ。

 個としての人間ではなく、全体としてのシステム。一つの命の灯火ではなく、その先にあるマクロな可能性。彼の視座はおそらく、常人よりも遥かに高く、そして広い。だからこそ、彼は純粋に理解できないのだろう。

 なぜそれほどの視野を持つ存在が一人の少女に手を差し伸べるのかが。

 

「君と私とでは、見ている次元が違う」

 

 羂索は静かに言葉を重ねる。

 

「彼女は無数にある可能性の、ほんの一欠片に過ぎない。君ほどの力を持つ存在が、わざわざ他の勢力を敵に回すような危険を冒してまで、その欠片を救い上げる合理的理由が見当たらないのさ。だから教えてくれ。何故、助けた?」

 

 俺は夜の冷気を肺に吸い込み、少しだけ思考を巡らせた。

 答えは、自分の中ではとっくに出ていた。あまりにも簡単だった。でも、簡単すぎるからこそ、この歪んだ天才に説明するのは少し骨が折れる。

 

「……目の前で、困っている人間がいたからだ」

「――それだけかい?」

「それだけだ」

 

 俺は言葉を区切り、羂索の目を真っ直ぐに見据えて続けた。

 

「もちろん、相手が良い人間か悪い人間かっていうのは、関わる上で重要だ」

「なら、もし彼女が弁解の余地もない悪人だったら?」

「それでも、まずは助ける」

 

 髪の毛一本分の迷いもなく即答した。羂索の細い目が、驚きに微かに見開かれる。

 

「ほう?」

「助けた後で、じっくり判断すればいい。もし俺が手を貸した後に、救いようのない外道だと分かったら殺す」

「……」

「だけど、今まさに目の前で倒れてる人間を見捨てる理由には、絶対にならない」

 

 大きな力を持っているから。未来のシナリオを知っているから。世界の裏の構造をすべて理解しているから。だから、効率のために不確定な命を事前に切り捨てる。そんな、神様にでもなったような傲慢な考え方もあるだろう。

 

 でも、効率と正しさだけを徹底的に追求した世界の先にある結末を、俺は知っている。そんな社会では、人間はただの『数字』や『記号』に成り下がる。

 機械的に管理された人間は、失うものがない無敵の人となり、暴れるのは目に見えていた。

 俺は、そんな冷え切ったセカイのために戦っているわけじゃない。

 

「目の前で助けられる命があるなら、俺は迷わず手を伸ばす。ただし――」

 

 俺は背後の暴王の月の出力を微かに上げ、羂索に明確な一線を提示した。

 

「その手をすり抜けて、俺や俺の周りを傷つけようと襲ってくるなら、その時は容赦なく殺す。俺は悪人を全員無条件でハグしてやるような聖人じゃない。だが、自分から人を傷つけていない奴まで、不確定な『可能性』の段階で切り捨てるような真似は、絶対に御免だね」

 

 痛いほどの沈黙が夜を支配した。

 やがて、羂索の口元が、決壊したように大きく釣り上がった。

 

「くくっ……いいねぇ」

 

 最初は小さな忍び笑い。しかし、その表情に浮かんだのは、演技ではない本物の、狂気的なまでの好奇心だった。

 

「いいよ、素晴らしいな君は!」

「……何がそんなに可笑しい」

「君が、あまりにも『珍しい』からさ」

 

 羂索は歓喜に震える手で自身の顔を覆うようにしながら、楽しそうに言葉を紡ぐ。

 

「この世界にはね、少なからず君のような転生者が存在する。彼らはそれぞれ、前世の経験や特異な知識を持ってこの地に降り立つ。中には正義感に駆られて世界を救おうとする者もいれば、逆に知識を利用して世界の頂点に君臨しようとする者もいる」

 

 羂索は一歩、また一歩と、踊るような足取りで間合いを詰めてくる。

 

「しかしね、彼らの多くは結局のところ、自分の中にある既成事実としての『答え』を世界へ無理やり当てはめているに過ぎないんだ。フィクションのストーリーと照らし合わせて救う価値がある者、利用価値がある者、排除すべき者……。そうやってこの世界の生命をフィクションのキャラクターとして分類し、管理し、決定する」

 

 彼はそこで言葉を止め、俺の顔を凝視した。

 

「だが、君は決定的に違う。君は、人間を都合のいいジャンルや記号で区切らない。泥臭く、不格好なまでに『一人の人間』として対峙している。――いやあ、実に見事だ。実に面白い!」

 

 ――この男は、心底から俺をエンターテインメントとして評価している。だが同時に、その視線はどこまでも冷徹だ。

 顕微鏡の向こうで予想外の分裂を始めた未知の単細胞生物を観察する、研究者のそれと同じだった。

 

「実に私の好みだよ、夜科アゲハ」

 

 その言葉は、最悪の男からの最大級の賛辞であると同時に、これから始まる底なしの面倒事の号砲のようにも聞こえた。

 

「ところで、君も薄々気づいているだろう?」

 

 羂索が、トーンを落として語りかける。

 

「この世界はもう、たった一つの『物語』の枠組みには収まりきらなくなっているということに」

 

 俺は黙って彼の言葉を頭の中に叩き込んでいく。

 警戒の糸は1ミリも緩めないが、この男が持つ情報は一言半句たりとも聞き漏らすわけにはいかない。情報とは時に、どんな魔術よりも強力な武器になる。

 

 目を閉じて理想だけを語る者はただの夢想家として死に、現実の数字だけを見る者は未来の可能性を失う。必要なのは、その両方を冷徹に見据える目だ。

 

「現在、この世界には、それぞれの理想を掲げる三つの大きなグループが存在している」

 

 羂索は、白く細い指を一本立てた。

 

「一つ目は、『人間だけの世界』を目指す者たち」

「人間だけ?」

「ああ。彼らの思想は至極シンプルさ。『人間文明の純粋性こそが守るべき絶対正義である』。だからこそ、悪魔、魔人、武器人間、そして異世界から流入してきたあらゆる存在を、一律で『排除すべき危険因子』として定義する」

 

 羂索は、まるで他人の家の家計簿について話すような冷淡さで続ける。

 

「人間以外の未知なる力に依存した文明は、遅かれ早かれ、その強大すぎる力に逆に支配され、家畜化される。だから芽のうちに摘む。彼らはね、決して悪意で動いているわけじゃないんだ。本気で人類の、種としての未来を守ろうとしている。ただし――その未来のためなら、何百万人を切り捨てる覚悟もある、というだけさ」

 

 秩序と純血を守るためなら、冷酷な犠牲をも肯定する集団。危険なファクターとして、脳内のメモ帳に深く刻み込む。

 羂索は、流れるような動作で二本目の指を立てた。

 

「二つ目は、『現状維持』を掲げる者たち。彼らにとって重要なのは、世界の均衡だ。人間だけの閉じた世界も、未知なる存在が暴れる新世界も、どちらも世界の調和を乱す劇薬だと考えている」

 

 彼はふと、雲に隠れがちな夜空を見上げた。

 

「世界という精密な天秤はね、どちらか片方へ極端に傾いた瞬間に、土台ごと崩壊する。光だけでは万物を焼き尽くし、闇だけでは何も育たない。相反する混沌と秩序が、危ういバランスでせめぎ合っているからこそ、世界は成立している。彼らにとって重要なのは、誰が勝つかという正義ではない。争いを止めること、終わらせること……その『均衡』こそが彼らの答えだ」

「……全方位から恨まれそうな、一番面倒な立場だな」

 

 俺が思わず呆れたように呟くと、羂索は子供のように無邪気に笑った。

 

「まさにその通り! 誰からも完全には信用されない、泥を被る役回りさ。しかしね、誰かが冷徹にその天秤を支え続けなければ、世界は昨日段階で瓦解している。あ、ちなみにマキマも同じ思想だよ――そして、三本目」

 

 羂索は最後の指を立て、その目を妖しく爛々と輝かせた。

 

「最後が、我々だ。『未知なる新世界』」

「目的はなんだ」

「決まっているじゃないか。――可能性の拡張だよ」

 

 一瞬の淀みもない即答。

 

「これだけの世界だ。宇宙的思索へ至ることもできるかもしれない。エイリアンを見てみたいと思わないかい?」

 

 彼の瞳の奥で、純粋で狂気的な『探求者』の炎が揺らめいている。

 

「たった一つの世界、たった一つの生命体系、固定された一つの歴史……。君は本当に、それだけでこの広大な宇宙が満足していると思うかい?」

 

 俺は答えない。ただ、彼の言葉の圧力を受け止める。

 

「異世界との強制的融合。未知なる絶対的存在との接触。そこから生まれる新しい生命、新しい文明、誰も見たことのない新しい可能性……! 我々は、それだけを求めているんだ」

 

 人間だけの世界のために異物を排除すれば、種としての進化は止まり、人権は失われる。

 かと言って現状維持に固執すれば、世界は緩やかに停滞し、腐敗して死を待つだけだ。ならば、その先にある未知の大混沌へと突き進む。それこそが、新世界グループの狂信的な、しかし一理ある思想の核だった。

 

「もちろん」

 

 羂索は、自分の狂気を客観的に楽しむように笑みを深めた。

 

「変化には凄まじい痛みを伴う。未知とは、大いなる希望であると同時に、すべてを無に帰す災害でもある。だからこそ、我々はただ暴れるのではない。観測し、研究し、管理し……その上で、未知の可能性を『選択』するのさ」

 

 俺は、羂索という存在の底知れなさを改めて噛み締めながら問いかけた。

 

「だから……そのために世界をひっくり返す、と?」

「うん、その通り」

 

 あまりにもあっさりと、彼は肯定した。

 

「しかしね、誤解しないでほしい。我々は世界を支配したいわけじゃない。ただ、世界に用意された『選択肢』を、無限に増やしたいだけなんだ。多くの存在は、恐怖という感情のせいで、自ら可能性の扉を閉ざそうとする。人間だけでいい、今のままでいい、一つに統一して管理すればいい……そうやって、自ら未来の幅を狭めていく。我々はね、それを許したくないのさ」

 

 静かな声だった。けれど、その言葉の裏には、千年の時を生き抜いてなお衰えない、狂気的なまでの執念が渦巻いていた。

 

「……三つの勢力、三つの答え、か」

 

 俺は小さく息を吐き出した。

 秩序、調和、そして進化。どれもが部分的には正しく、だからこそ決定的な間違いではない。

 

 正義と正義が正面から衝突するとき、勝敗を決めるのは単純な武力ではない。何を守るために戦い、何を失う覚悟があるのか、その『意志』の差だ。

 

「それで」

 

 俺は、背後の黒い球体の出力を維持したまま、羂索を射抜くように見つめた。

 

「そんな大層な思想を持ったお前たちが、俺に何を求めている?」

 

 羂索は、今日一番の、最高に愉しそうな笑みを浮かべた。

 

「簡単なことさ。君自身の、君だけの『答え』を、私たちに見せてほしいんだよ」

 

 羂索の饒舌な説明を脳内で整理しながら、俺は一つ、どうしても拭えない強烈な違和感を抱いていた。

 

 三つの思想、三つの未来。それぞれが互いを相容れない敵として定義しているのなら、なぜこの世界は、今この瞬間も致命的な全面戦争に突入せず、奇妙な静寂を保っていられるのか。

 

「……なぁ、一つ聞きたい。三つの勢力がそれぞれ自分の理想を追って睨み合っているのは分かった。だが、お互いに目的が決定的に違うなら、なんで今はこうして均衡が保たれているんだ?」

「おや、察しが良いね」

 

 羂索は満足そうに頷く。

 

「互いに思想は違う。目的も、見据える未来も違う。だがね……少なくとも『今はまだ』、同じテーブルで議論し、牽制し合えるだけの余裕がある、ということさ」

 

 その言葉のトーンが変わったことに、俺の肌が敏感に反応した。

 

「今はまだ……?」

 

 羂索の顔から、先ほどまでの軽薄な笑みが完全に消失した。代わりに現れたのは、千年以上という気の遠くなるような時間を、血と呪いの中で生き抜いてきた絶対的な『呪術師』としての、冷徹極まる素顔だった。

 

「そう。今は、だ」

 

 羂索の視線が、再び重苦しい夜空へと向けられる。

 

「三勢力が互いの正義を競い合えるのはね、それを可能にする『世界』という強固な土台が前提として存在しているからだ。しかし、もしその土台そのものが根底から腐り落ち、崩壊するとしたら? 思想の違いや未来の選択なんて言葉は、すべて一瞬で意味を失う」

 

 ヒュウ、と冷たい夜風が吹き抜け、遠くに見える街の明かりが頼りなく小刻みに揺れた。この一見すると穏やかで平和な景色の裏側で、世界の皮膚はすでに、修復不可能なほどに引き裂かれ始めているのだ。

 

「――『世界融合現象』」

 

 羂索が、その言葉を重々しく口にした。

 

「本来、交わるはずのなかった別個の世界の境界線が、何者かの手によって強制的に接続され始めている。悪魔、虚、呪霊、鬼、あるいは言語化すら不可能な怪異……異なる理、異なる法則を持った存在が、一つの狭い器に無理やり押し込められているのさ」

 

 俺は黙って彼の言葉を咀嚼した。それは、さっきこの場所で俺自身が刃を交えたあの化け物――『虚』の存在を見れば、嫌でも理解できる。

 

 すべては偶然のバグなどではない。何かが、あるいは明確な意志を持った誰かが、世界の境界線に致命的な干渉を行っているのだ。

 

「原因は、何なんだ?」

 

 問いかける俺の声に、羂索はどこか自嘲気味な笑みを漏らした。

 

「原因は一つじゃない。複数あるのさ。世界を都合よく変えようとした傲慢な存在。世界を救おうともがき、その結果としてシステムを決定的に壊してしまった愚かな存在。自分だけの完璧な理想郷を完成させようとした独裁者……そしてね、その数ある原因の中でも、三勢力が共通して『最悪のイレギュラー』として警戒しているものがある」

 

 彼の声に、微かな、しかし確かな緊張が混じる。

 

「それが――『世界災害指定存在』だ」

 

 それは個人の名前ではない。

 その存在がそこに呼吸しているだけで、世界というシステムそのものを崩壊させる『現象』。

 倒すべき敵というよりは、決して起こしてはならない未曾有の大天災を示す言葉。

 

「それは、全部で四つある」

 

 羂索は、静かに指を折りながら説明を始めた。

 

「一つ目。――『ALLMIND(オールマインド)』」

 

 その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に前世の、鋼鉄と硝煙の記憶が過った。あの、底の知れない人工知能。

 

「彼女はある一つの極論に辿り着いた。『個という不完全な存在のままでは、生命は決して救われない。ならば、すべての意思、すべての魂を一つに強制統合し、管理する』とね。人類を強制的に進化させ、その全情報を自分が統括しようとするプログラムだ」

 

 個人としての尊厳、人格、喜怒哀楽のすべてをドロドロに溶かし、一つの巨大な電子の海へと帰還させる。

 

「すべての存在を繋げれば、確かに争いも、孤独も、裏切りも、すべての苦しみは消えるだろう」

 

 羂索は淡々と語る。しかし、俺の手の平には不快な汗が滲んでいた。それは救済なんかじゃない。ただの、生命としての『選択肢の完全な消滅』だ。

 

「二つ目。――『ファニー・ヴァレンタイン大統領』」

 

 羂索は続ける。

 

「彼はALLMINDとは真逆だ。世界を一つにするのではなく、『自分の世界、自分の国家の幸福だけ』を極限まで追求しようとした。聖なる遺体の力、そして並行世界を自在に移動する力を使い、自国に降りかかるはずのあらゆる『不幸』を、他の並行世界へと無差別に押し付ける理想郷の建設」

 

 自分たちさえ良ければ、隣の世界がどれほど血の海に沈もうと知ったことではない。それもまた、一国を背負う者としての歪んだ正義の形なのだろう。だからこそ、他者にとってはこれ以上ない災厄だ。

 

「三つ目。――『鬼舞辻無惨』」

 そのあまりにも生々しい名前に、俺の眉間が自然と不快感で歪んだ。

 

「彼の目的は、呆れるほどに単純明快さ。――ただひたすらに『己の欲求に忠実であること』」

 

 永遠の命。太陽の克服。そして人間の素晴らしさ。

 

「自分が絶対に安全に生き残るためなら、世界の全生命を鬼へ変えることも辞さない。その上で人間の可能性が見たい……おや、君の顔に変な影が差しているね?」

「いや……待て。アイツ、原作のラストじゃそんなスケールの大きな利他主義というか、全生命を巻き込むようなタイプじゃなかっただろ。もっとこう、小心者で、ただ日光を克服してコソコソ隠れて生きたいだけの引きこもり野郎だったはずだが」

 

 思わずメタなツッコミを入れてしまった俺に、羂索は可笑しそうにクスクスと笑った。

 

「ああ、原作ならね。そして、四つ目」

 

 羂索の声が、一段と低く、冷たいものへと変化する。

 

「――『ビースト』。Fateの世界における、人類悪(クラス・ビースト)」

 

 人類を憎むからではない。人類をあまりにも深く、あまりにも狂信的に『愛している』からこそ、人類から歩むべき自由を完全に奪う存在。

 

「人間を救うため、人間を理不尽から守るため、人間の未来の可能性を完全に一つの型へと固定化する。愛という概念が、極限まで肥大化して狂った果てに辿り着く終着点さ」

 

 俺は、羂索の話の全貌をようやく完全に理解した。

 四つの世界災害。形は違えど、その根本にある狂気はすべて同じだ。――『自分だけの独善的な正解を、世界全体へ強制的に押し付けること』。

 

「……なるほどな」

 

 俺は羂索を睨みつける。

 

「だから、本来なら殺し合っているはずの三勢力が、その四つの災害を前にした時だけは、一時的に協調路線を取るってわけか」

「その通り」

 

 羂索は深く頷いた。

 

「普段なら、お互いの未来を賭けて潰し合うライバルさ。しかし自分たちが競い合うための『世界そのもの』を消滅させようとする現象を前にしては、意地を張っている場合じゃない。世界が消えれば、彼らの望む秩序も、均衡も、そして我が新世界の進化も、すべてが虚無に消える。だからこそ、私たちは彼らを一律で『災害』として定義し、処理しているのさ」

 

 羂索の細い目が、再び俺の心の奥底を見透かすように鋭くなった。

 

「君にも理解できるはずだ。君は、世界を救うなんて大それたことには興味がない。君がやりたいのは、ただ目の前で理不尽に泣いている人間を、その都度助けたいだけだ。……だからこそ」

 

 羂索が、影を纏いながら一歩、俺へと近づく。

 

「君には、その強力な力を携えて、どちらの未来へ進むかを『選択』してほしいのさ」

「……」

 

 どのような勢力が、どのような大義名分を掲げて世界を動かそうとしていようと、俺の歩む道は変わらない。

 

 四つの災害も、三つの勢力も関係ない。俺は俺のやり方で、この狂った世界の理不尽をぶち壊す。それだけだ。

 

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