マキマVS藍染惣右介VS羂索 作:夢女
羂索は、薄気味悪いほど柔らかな笑みを浮かべたまま、突然、懐から何かを取り出した。
次の瞬間、俺の胸元を目がけて、それが音もなく飛んでくる。身体が勝手に反応し、両手でキャッチしていた。
ずっしりとした重みのある紙束と、見慣れない薄型の電子端末。
「……金?」
帯封には、きっちりと「1000000」の数字。百万円だ。
普通の高校生なら、これだけで人生の歯車がいくつか狂いかねない大金。それを彼は、まるでポケットから飴玉でも出すように差し出してきた。
「当面の活動資金だよ」
「受け取れない」
俺は一瞬の迷いもなく即答し、紙束を突き返そうとした。
「これは『縛り』の材料になる。タダより高いものはないって、相場が決まってるんだ」
「おや、手厳しいね」
羂索は可笑しそうに肩を揺らし、首を振った。
「勘違いしないでほしいな、これは呪術的な契約でもなければ、君を縛るための首輪でもない。ただの『友好の証』だ。むしろ逆だよ、君が何者にも縛られず、自由に動くための潤滑油さ」
俺は無言で、その底の知れない細目をじっと見据えた。彼の真意を測ろうとする沈黙の中で、羂索は言葉を続ける。
「高校生がたった一人で世界を相手にするんだ。それにはね、悲しいかな現実的なリソースが必要になる。情報を買うための金。境界を越えるための移動費。そして――誰かを窮地から救い出すための、確実な準備をする金だ。どれほど高潔な理想を掲げようと、燃料のない車は一歩も進まない。理想だけでは、人は救えないのさ」
……その言葉だけは、嫌になるほど腑に落ちてしまった。
正義や救済という綺麗な言葉には、常に現実的で生々しい燃料が必要だ。どれだけ強固な覚悟があろうと、物理的な手段がなければ、目の前で溺れている人間に手を伸ばすことすらできない。
「……本当に、借りじゃないんだな? 後から利子をつけて返せなんて言われても困るぞ」
「もちろん。これは私の個人的な善意の心遣いさ。というか、せっかくの面白いイレギュラーである君が、お金がないせいで身動きが取れなくなるなんて、プロデューサーとしては片手落ちだからね」
「だったら、組織からの『前払いの支援』として受け取る。……ありがとう」
俺が釈然としないながらも金をポケットに収めると、羂索は満足そうに深く頷いた。
「いい線引きだ。そういう合理的な割り切りができるところも、君の魅力だね」
次に羂索は、俺の手元にある端末を指差した。
「さて、その連絡端末を起動してみておくれ」
言われるがままに画面の電源を入れると、無機質なUIの中に、すでにいくつかの連絡先が同期されていた。
羂索。そして、その下に並ぶ名前。
・藍染惣右介
・調月リオ
・エア
・白蘭
・沙条愛歌
文字面だけで、背筋に冷たいものが走るような感覚。知っているような、しかし決定的に未知の存在たち。
その時、端末の画面が青く明滅した。自動的に通信が確立され、ホログラムのような映像が空中に展開される。そこに映し出されたのは、奇妙なエンブレムだった。
『初めまして、夜科アゲハ』
スピーカーから響いたのは、完全に機械的でありながら、どこか情緒的な揺らぎを感じさせる不思議な温度を持った声だった。
『私はエア。新世界グループの情報解析および後方支援を担当しています』
「この声の質感……アンタ、人工知能か?」
『コーラルの変異波形――と言っても伝わりにくいですね。この世界の理に当てはめるなら、高度情報処理独立電子存在だと認識していただければ幸いです』
淡々とした自己分析。しかし、ただプログラムされただけの機械ではない。言葉の端々に、明確な「個としての意志」が宿っている。
『あなたのこれまでの行動記録をすべて解析しました。非常に興味深い。あなたは極めて特殊な、しかし一貫した判断基準を持っているようです』
「……それ、遠回しに変人だって言ってるのか?」
『客観的な分析です』
一秒の躊躇もない即答だった。あまりに迷いのないツッコミに、俺は思わず吹き出しそうになる。
すると、その奇妙なやり取りを遮るように、別の冷徹な女性の声が通信に割り込んできた。
『エア、雑談はそのくらいにして。新参者にはまず、規約と経費のラインを説明するべきだわ』
映像がパッと切り替わり、画面には黒髪の少女――調月リオが映し出された。彼女の瞳は、まるですべての不正を見透かすかのように鋭い。
『いい、夜科アゲハ。新世界グループは、協力者に対して必要な資金、情報、状況に応じた設備を提供します。けれど、これはあなたに加入や盲従を強制するものではないわ。私たちは監査の目を光らせるけれど、あなたの行動そのものを縛る権限は持たない』
リオは画面越しに、値踏みするような、けれどどこか試すような真剣な目を俺に向けてきた。
『つまり、その金を使ってどう動くか。最終的な選択権は、常にあなた自身にあるということよ』
彼女の突き放すような、それでいてフェアな物言いに、俺は少しだけ目を見開いた。
もっと強引に組織に囲い込まれるか、あるいは甘い言葉で懐柔されると思っていたのだ。だが、画面の向こうの彼女たちも、隣にいる男も、ただ静かに待っている。
俺が何を考え、どう動くのかという「答え」を。
「……思った以上に、風通しの良すぎる組織だな」
俺の呟きを聞いて、羂索がくすくすと肩を揺らして笑った。
「だから面白いんじゃないかな。緩くて、強欲で、それぞれが楽しくやればいい。我々は皆、共通して『未来』を求めている。しかし、未来とは誰か偉い神様に与えられるものではない。一人ひとりの選択の結果として、泥臭く生み出されるものだからね」
羂索はそれだけ言うと、促すようにひらりと手を振って背を向けた。
「答えは急がなくていい。君が悩み、考え抜いて、自分で決めた答えなら、私たちはそれを歓迎しよう」
夕闇に溶けていく羂索の背中を、俺はしばらくの間、静かに観察していた。
油断すれば一瞬でのみ込まれる、間違いなく危険な男だ。底が知れず、敵に回せばこれほど恐ろしい相手もいない。だが同時に、単純な「絶対悪」として切り捨てることもできない。
世界そのものを変革しようとする、彼らの巨大な大義。
「後ろの彼女は任せたよ」
そして、俺の目の前にある、今にも壊れそうな一人を救おうとする小さな意志。
その二つは、まだ交わらずに平行線をたどっている。
だからこそ、俺は流されない。
差し出された金も、端末も、情報も、使えるものはすべて使ってやる。その上で、最後にどちらへ進むべきかは、自分自身の頭で判断する。
誰の操り人形にもならない。それだけが、俺がこの狂った世界で生き抜くための、唯一の戦い方だからだ。