マキマVS藍染惣右介VS羂索 作:夢女
人間の心というものは、実に不思議で、そして酷く不器用だ。
深く傷ついた人間ほど、差し出された真っ直ぐな救いを素直に受け取ることができない。
手のひらの温もりを疑い、優しさの裏側に隠された刃の影を探し、信じたいと強く願う反面で、裏切られた時の痛みに耐えられるよう、あらかじめ最悪の未来をシミュレーションしてしまう。
それは心の弱さではない。何度も騙され、何度も道具として使い潰されてきた過酷な経験が、彼女の命を守るために作り上げた、あまりにも強固な防衛本能だった。
「……じゃあさ、アゲハくん」
レゼは、ふわりと少しだけ笑ってみせた。さっきまでの、世界のすべてを敵と見なしていた張り詰めた表情とは違う。カフェの店員をしていた時のような、どこにでもいる可憐で明るい少女の顔。
だが、俺の目は騙せない。彼女の潤んだ瞳の奥底には、俺の動揺や本性を値踏みするような、冷徹で、鋭い観察の光が隠されていた。
「私と、デートしよ」
「……」
俺は少しだけ沈黙した。普通の男子高校生なら、さっきまで殺し合いの寸前だった美少女からの突然の誘いに、心臓を跳ね上がらせてドギマギするところなのだろう。
状況だけを見れば、ハニートラップを疑って当然の場面だ。だが、三度の人生をループしてきた俺には、彼女の意図が手に取るように分かった。
試しているんだな、俺を。
これはただの気まぐれな誘惑じゃない。彼女なりの、命がけの対話(テスト)なのだ。
この男は、本当に自分を都合よく利用しないのか。自分が恐ろしい「武器人間」だと知っても、その態度や視線を歪めることはないのか。
それを確かめるために、彼女はあえて距離をゼロにするカードを切ってきた。
「いいよ」
俺は1秒の迷いもなく即答した。
「……え?」
今度は、レゼの方が呆気に取られたように目を丸くした。
「いや、そこは普通、もう少し興奮したり、怪しんで迷うところじゃない?」
「なんで? 君みたいな可愛い女の子からの誘いを断る理由がないだろ」
「いや、だって……」
レゼは調子を狂わされたように、困った顔で頭を掻いた。
「普通さ、もっと私を警戒するでしょ。中身はソ連の爆弾工作員なんだよ?」
「してるさ。今だって、君が突然俺の胸に飛び込んできて自爆するかもしれないって、背中で『暴王の月』の準備を怠ってない」
「してるの!?」
「ああ、大いにしてる」
俺は真顔で頷く。
「君が極めて危険な存在だっていう前提は、俺の中で1ミリも変わってない。だけどな、レゼ。危険な人間を警戒することと、その人間を『最初から怪物だと決めつけて対話を拒絶すること』は、俺の中では全く別の話だ」
レゼは細い目をさらに細め、どこか寂しそうな声で呟いた。
「またそういうこと言う。……相手を、ちゃんと『人間』として扱おうとするのね。変な人」
「変で結構。じゃあ決まりだな、デート」
「うん、今から行こ!」
レゼは嬉しそうに弾んで立ち上がった。その無邪気な笑顔は、一瞬だけ、本当に年相応の少女のそれに見えた。だが、俺はそっと夜空を見上げる。すでに時計の針は深夜を回っており、周囲の街灯もぽつぽつと消え始めている。
「……なぁ、レゼ」
「なーに?」
「今から行くのは、色んな意味でやめた方がいいと思うぞ」
「どうして?」
レゼも俺の視線を追って、きょとんと夜空を見上げた。そして――数秒の沈黙。
「……あ」
「な?」
「夜だね」
「お店、どこも開いてないな」
「映画館も、閉まってる」
「水族館も、魚が寝てる時間だな」
レゼはしばらくの間、あごに手を当てて真剣にうなった。せっかく俺を試すための最高の手札を切ったのに、物理的な営業時間という壁に阻まれたのが、よほど悔しかったらしい。
この日常のちょっとしたおかしさ、が、戦場の血臭を綺麗に洗い流していく。
「じゃあ、決めた。今日はアゲハくんの家に泊めて」
「……」
今度は俺の思考が数秒ほどフリーズした。
「おい、展開が急すぎるだろ。さすがにそれは警戒のハードルが跳ね上がるぞ」
「だって夜だし。行くところないもん。女の子をこんな治安の悪い夜道に放り出す気ですかぁ~?」
「君、自分でその治安を最悪にした主犯格の一人だろ」
「あはは、細かいことは気にしない!」
判断が早すぎる。だが、この強引な踏み込みの奥にある心理もまた、俺にはよく分かっていた。
彼女はさらにテストの難易度を上げたのだ。密室という最も無防備で、かつ裏切りが容易な環境に身を置くことで、俺が自分を「兵器(道具)」として監禁・拉致しようとするか、あるいは本当に「一人の人間」としてただ一晩の宿を貸すのかを、その肌で確かめようとしている。
「……分かった。来いよ、俺のセーフハウスへ」
「いいの? 本当に警戒してないの?」
「だから、めちゃくちゃしてるって言ってるだろ。寝首を掻かれないように、俺はベッドじゃなくて椅子に座って寝るつもりだ」
「ふふ、矛盾してるね」
俺は歩き出しながら、彼女を振り返らずに答えた。
「人間なんてそんなもんだろ。完全な信用も、完全な疑念も、どちらか一方だけじゃ人は誰も信じられないし、誰とも関われない。光だけじゃ眩しすぎて目が潰れるし、闇だけじゃ何も見えない。必要なのは、その間にある、お互いの手の届く小さな灯火だ」
レゼは俺の背中を見つめ、小さく笑った。
「……本当に、敵わないな。でも、いいな、そういうの」
俺のセーフハウスの夜は、ひどく静かだった。
古びたテレビから流れる深夜番組の低い音。柱時計が刻む規則正しい針の音。淹れたてのお茶から立ち上る湯気が、天井に溶けて消える音。
戦場では決して聞こえることのない、あまりにも静かで、あまりにも平凡な生活の音。
レゼはソファに深く腰掛け、膝を抱えながら、窓の外の月を眺めていた。その横顔を、俺は少し離れたキッチンから静かに観察する。
暗殺者の刺すような気配は完全に消え、そこにあるのはただ、夜の静けさに少しだけ怯えているようにも見える、等身大の少女の輪郭だった。
「ねえ、アゲハくん」
「何だ?」
「悪魔ってさ……結局、何なんだろうね」
「難しいな。言語を司る怪物、とか」
お茶のカップを受け取りながら、レゼがぽつりと問いかけてきた。単純だが、この世界においては重すぎる誘いだった。
「お前は、アイツらをただの『怪物』だと思うか?」
俺が問い返すと、レゼは自嘲気味にカップを見つめた。
「普通はそうでしょ? 人を殺して、食べて、怖がられることで力を得る。人間を脅かすだけの存在。それを怪物以外に、どう表現しろって言うの?」
「確かに、人類にとっては明確な生存の脅威だ。倒すべき敵なのは間違いない」
俺は自分のカップに口をつけ、静かに言葉を紡ぐ。
「だけどな、悪魔が生まれる根本の理由は、すべて『人間』側にあるんだ」
「人間……?」
「そうさ。銃が怖いから銃の悪魔が生まれ、闇を恐れるから闇の悪魔が極限の強さを持つ。つまり悪魔っていうのは、人間の心の中にある歪みや恐怖をそのまま映し出した鏡なんだよ。人間と切り離された純粋な悪なんかじゃない。俺たちが恐怖を手放さない限り、彼らは何度でも形を変えて現れる」
レゼは驚いたように目を見張った。
「じゃあ、アゲハくんは、悪魔を可哀想だって同情してるの?」
「いや、そこは明確に分けるべきだ」
俺は即答した。
悪魔が生まれる構造や背景を正しく知ること。それを踏まえた上で、人を殺す悪魔は容赦なくぶちのめすこと。
「生まれた理由に理解を示すことと、アイツらが今行っている殺戮を許すことは別だ。襲ってくるなら倒す。だけど、最初から『怪物だから』という思考停止の理由だけで、すべての対話を拒絶するつもりはない」
「甘いね」
レゼはクスリと笑ったが、その瞳には深い人生の諦念があった。
「この世界じゃ、その甘さのせいで、信じた人に後ろから刺されて死ぬんだよ」
「そうかもしれないな」
俺は彼女の言葉を否定せず、真っ直ぐに受け止める。
「だけどその『甘さ』を完全に捨て去った結果、目の前の人間まで怪物みたいに効率と数値だけで扱うようになるなら――そんな世界は、最初から滅びちまった方がマシだ」
レゼは長い間、黙ってお茶の湯気を見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げ、俺に最後の問いを投げかけてきた。
「じゃあさ……もし、悪魔が人間みたいに心から笑ったら? もし、悪魔が本当に、誰かを好きになって守りたいと思ったら? それでも、アゲハくんはアイツらを倒すの?」
胸を刺すような質問だった。だが、俺は過去の人生で、すでにその答えを知っている。
「その時は」
俺はレゼの目を、一瞬の揺らぎもなく見据えた。
「その悪魔が、最後に『何を選ぶか』を見る」
「選ぶ?」
「ああ。生まれが人間か悪魔か、武器人間か転生者かなんてことは、どうでもいい。変えられない過去の属性は後回しだ。大切なのは、今、その命を使って『最後に何をするか』だ。誰かを守るためにその手を進めるなら、俺は、そいつがどんな姿をしていようと全力で『助け合う』道を模索する。
レゼは息を呑み、そのまましばらく微動だにしなかった。
やがて、彼女は降参したようにふっと肩の力を抜き、今日一番の、嘘偽りのない柔らかな笑顔を咲かせた。
「……やっぱり、頭おかしいよ」
「また?」
「うん。普通はさ、悪魔を狩る人間ってもっと憎しみにギラギラしてる。でも、アゲハくんは怖いって言いながら、ちゃんと隣に座ってくれるんだね」
彼女は小さく「人間って、本当に面倒くさいな」と呟いた。
「でも――だからこそ、少しだけ面白いのかもね」
その言葉を聞いて、俺は腹の底から静かな安堵が広がっていくのを感じた。
彼女はまだ国家の兵器であり、危険な爆弾の力を宿している。犯した過去も消えない。だけど今、俺の目の前で、彼女は確かに「一人の少女」として自分の意思で笑っていた。
こうして、爆弾の少女との最初の約束は、血みどろの殺し合いではなく――静かな夜の部屋、一杯の温かいお茶と、一晩の宿というささやかな選択から始まったのだ。