マキマVS藍染惣右介VS羂索 作:夢女
翌日。
俺は少しだけ不思議な浮遊感を覚えながら、賑わう休日の街を歩いていた。
すぐ隣には、歩調を合わせるようにしてレゼが歩いている。昨日までの切迫した状況を思えば、こんな風に二人で並んで歩く未来など、想像できるはずもなかった。
彼女はソ連の工作員であり、爆弾の悪魔の力を宿した武器人間だ。公安の冷徹な天秤にかければ一発で「排除対象」に傾く、世界を揺るがしかねない危険因子。決して簡単に信用していい存在ではない。
――それでも。今、冬の柔らかな木漏れ日を浴びながら俺の隣を歩く彼女は、武器でも兵器でもない、ただの等身大の少女に見えた。
「ねぇ」
ふいにレゼが足を止め、覗き込むようにこちらを見た。風に揺れる髪の隙間から、悪戯っぽい瞳が覗く。
「何?」
「本当に来たんだね。約束、守ってくれるなんて思わなかった」
「約束したからな。嘘を必要もないだろ」
「ふふ、普通はさ、昨日あれだけの修羅場をくぐり抜けた女の子と、翌日にデートしようなんて思わないよ?」
「普通じゃないのは、お互い様だから相対的に普通だよ」
その言葉に、レゼの表情がぴたりと固まった。
あ、と言いたげにわずかに開かれた唇と、微かに揺れた瞳。その一瞬の反応を見て、俺は彼女の心の奥底に触れた気がした。
たぶん彼女は、自分を特殊な存在ではなく、ただの「対等な人間」として扱われることに慣れていないのだ。
彼女が育ってきた環境では、価値を決める基準が常に歪んでいたはずだ。
戦えるか。任務を遂行できるか。役に立つか。兵器としてどれほど優秀か。
そうした非情な数字や成果の檻の中でしか、自分を見ることを許されてこなかったのだろう。
だからこそ、俺は意識して彼女を特別扱いしないと決めていた。
優しくはするが、哀れみはしない。窮地があれば助けるが、彼女を「救われるだけの弱者」に固定するつもりもなかった。
人間関係において本当に大切なのは、ただ相手を庇護することではない。相手が自分の足で、自分の意志で立てる場所を一緒に作ること。
それこそが、本当の意味で相手の尊厳を認めるということだからだ。
「まずは、クレープね」
思考を打ち消すように、レゼが看板を指差した。
「いきなりか?」
「昨日言ったでしょ。普通の女の子をやるって。こういうのが基本なんだから」
レゼは少しだけ目を丸くした後、少女らしいあどけなさで楽しそうに笑った。
「本気なんだ」
「大真面目だよ。ほら、どれにする?」
店先に着くと、レゼはそれまでの余裕をどこかへ置き忘れたように、真剣な顔でメニューを凝視し始めた。
戦場で見せる冷徹な眼差しとも、任務のための偽りの微笑みとも違う。ただ、チョコバナナにするかイチゴクリームにするかで、人生の重大局面のように眉をひそめて悩んでいる。その横顔があまりに新鮮で、俺は静かに彼女を観察してしまった。長い睫毛が、迷うように細かく揺れている。
「決まった?」
「……」
「まだか?」
「……こういうの、自分で選んだことないから。どれが正解か分からないの」
ぽつりと溢された小さな声。
俺は少しだけ考え、彼女の歩幅に合わせるように言葉を紡いだ。
「じゃあ、いくらでも時間をかければいい。後ろに誰も並んでないしな」
「え?」
「急ぐ必要なんてないだろ。どれが食べたいか、迷って、悩んで、自分で選ぶ。その無駄に見える時間こそが、普通の生活ってやつの一部なんだから」
レゼは動きを止め、じっと俺を見つめた。逆光に透けた彼女の瞳が、言葉の意味を噛み締めるように瞬く。
「底意地が悪い。けど優しぃ」
「褒め言葉として受け取っておく」
結局、彼女が選んだのは、これでもかとトッピングが乗った一番甘そうなクレープだった。
一口、小さな口で齧り付いた瞬間、彼女の表情がぱっと華やいだ。
「……美味しい」
至福そうに目を細めるその一言は、どんな洗練された台詞よりも、俺の胸に深く刺さった。
人間は、ドラマチックな大奇跡だけで救われるわけじゃない。温かい食事、くだらない軽口、そして自分の意志で好きなものを選べる自由。そういう、取るに足らない小さな幸福の積み重ねが、人に「生きている」という実感を与えるのだ。
「ねぇ、アゲハくん。これ、もう一口食べる?」
不意に、半分ほどになったクレープが俺の目の前に差し出された。
「……いいのか?」
「デートなんでしょ? こういうの、普通は分け合うものだって本で読んだよ」
真っ直ぐに見つめられると、途端に気恥ずかしさが込み上げてくる。レゼはそれを見逃さず、ニヤニヤと口元を歪めた。
「あれ、照れてる?」
「照れてない」
「嘘。顔、すっごく赤いよ?」
「……今日はちょっと、気温が高いだけだ」
「ふふ、今は真冬なのに?」
「うるさい、早く食べろ」
声を上げて笑うレゼの姿を、俺は視線の端で捉えていた。
昨日までなら、彼女がこんな風に心から楽しそうに笑う世界線など、どこにも存在しないと思っていたのに。不覚にも、その笑顔に胸が小さく跳ねるのを感じていた。
その後、賑やかな音が響くゲームセンターへと足を向けた。
「次はこれ! これやってみたい」
レゼが目を輝かせて指差したのは、ガラスの向こうで可愛いぬいぐるみが並ぶクレーンゲームだった。
「取れるか? 意外とアームが緩くて難しいんだぞ」
「私を誰だと思ってるの? 狙った獲物は逃さないよ」
自信満々に財布から小銭を取り出したレゼだったが――結果は散々だった。
一回目はかすりもせず、二回目はアームが虚しく空を切り、三回目はぬいぐるみの頭を撫でただけで終わった。
「……」
「……」
「今のは、筐体の重心設定とアームの初期油圧に問題がある。私の計算は完璧だった」
「随分と物々しい言い訳だな。ただの下手くそだろ」
「下手じゃない! もう一回!」
むきになって財布を探るレゼの手を、俺は苦笑しながらそっと止めた。
「貸して。こういうのは力任せじゃなくて、コツがあるんだ。レゼはあっちのレバー側から、アームが景品の真上に来てるか横から見ててくれ」
「え? うん、分かった」
俺が位置につき、レバーを握る。レゼがガラスに顔を張り付けるようにして、「あ、もうちょっと右! あ、行きすぎ、ストップ!」と真剣に指示を出してくる。
俺たちの呼吸を合わせ、ボタンを押す。アームが下降し、ぬいぐるみのタグに爪が絶妙に引っかかった。ガコン、と小気味いい音を立てて、景品が取り出し口に落ちる。
「やった……! すごい!」
レゼが飛び上がるようにして喜び、取り出したぬいぐるみを大事そうに胸に抱えた。その弾んだ声と、俺に向けられた無邪気な信頼の眼差しが、妙に誇らしかった。
世界には、戦わなければ守れないものがあるのは事実だ。けれど、戦う理由そのものを忘れてしまうほど、戦いの中に没頭してはいけない。
自分が一体何を守りたくてここにいるのか、それを忘れた瞬間、英雄はただの血塗られた兵器へと成り下がる。
だからこそ、この手を伸ばして掴み取ったぬいぐるみの重みのような、何気ない日常の感覚が、俺たちには必要なのだ。
静かな街の本屋へと場所を移すと、レゼは意外そうな顔で棚を眺める俺を見ていた。
「アゲハって、本を読むんだね」
「まぁな。意外か?」
「うん。戦う人って、もっと一日中筋肉を鍛えてたり、武器の手入れをしてるイメージだったから」
「それは偏見が過ぎる。強さと読書はトレードオフじゃないだろ」
レゼは並ぶ背表紙を指先でなぞりながら、小首をかしげた。
「何を読むの? やっぱり、難しい戦術の本とか?」
「いや、歴史書も読むし、ただの小説も読む。時には思想書みたいな難しい本も開くけど」
「へぇ、頭いいんだね」
「違うよ」
俺は一冊の本を棚から抜き出し、その表紙を見つめた。
「『分からない』から読むんだ」
「分からないから?」
レゼが不思議そうに目を瞬かせる。
「知識っていうのは、最初から血肉に流れているものじゃない。人間は誰しも、何も持たずに生まれてくる。だから学ぶんだ。知らない世界を知るために、他人の脳みそを覗かせてもらう。それだけだよ」
「……勉強、か」
「大層なものじゃないさ。知らない、だから調べる。試してみて、失敗する。どこが間違っていたかを考えて、直して、また試す。その泥臭いプロセスの繰り返しこそが、人間が知性を持つ理由だと思う」
レゼはしばらくの間、俺が戻した本をじっと見つめていた。その横顔には、新たな概念を頭の中で組み立てようとする、静かで知的な思索の陰が落ちていた。
一日の終わりに訪れたのは、薄暗い青に満ちた水族館だった。
巨大な水槽から放たれる蒼光の中で、レゼはガラスに吸い寄せられるようにして、ゆったりと泳ぐ魚たちを眺めていた。青い光が彼女の白い肌を美しく染め上げ、まるで彼女自身も深い海の住人であるかのような錯覚を覚える。
「綺麗……」
吐息のような呟き。
「こういう場所、来たことなかったのか?」
「ないよ。私のいた場所には、冷たい鉄格子と、訓練場しかなかったから。任務以外で外に出ることもなかったし」
レゼは泳ぐ魚の群れを目で追いながら、寂しげに微笑んだ。
「変な感じ。あの魚たち、誰とも戦ってないのに、ただそこにいるだけで生きてる」
その言葉の裏にある重みに、胸が締め付けられるように痛んだ。彼女はきっと、戦うこと、奪うこと、誰かの役に立つこと以外の「生き方」を教えられてこなかったのだ。生きるためには牙を剥かなければならないと、そう刷り込まれてきた。
「レゼ」
「ん?」
振り返った彼女の瞳に、水槽の青い光が反射してきらめいている。そのあまりの美しさに一瞬言葉を失いそうになりながらも、俺は彼女の目を見据えて言葉を届けた。
「別に、もう戦わなくてもいいんだと思う」
「……」
「もちろん、口で言うほど簡単なことじゃない。今までの人生や、背負った過去が消えてなくなるわけじゃない」
俺は隣に並び、一緒に大きな水槽を見上げた。
「でも、これまでがどうだったかじゃなく、これから何をするかは、自分で決めていいんだ。誰の命令でもなく、君自身の意志で」
レゼは長い間、何も言わなかった。ただ、波のせせらぎのような沈黙の中で、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、目元を和らげて笑った。
「……おもしろい人。とびっきりに変人」
「またそれか。昨日と今日だけで何回目だ?」
「ふふ、だって本当に変なんだもん」
彼女はクスクスと笑い、それから、いたずらが成功した子供のような顔で俺を見上げた。
「でも……嫌いじゃないよ、そういうの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の固い結び目が、すとんと解けるような安堵感が広がった。それと同時に、トクン、と確かな熱を持った鼓動が刻まれる。
きっと、彼女が本当に欲していたものは、世界を滅ぼすような特別な力でも、与えられる大層な自由でもなかったのだ。
ただ、自分で選んだ、なんてことのない一日。
誰かに命令された時間ではなく、誰かの道具として消費される時間でもない。
自分の足で歩き、迷い、笑い、誰かと分け合った時間。
それこそが、彼女が焦がれた「人間としての生」そのものだったのだと、俺は青い光のなかで静かに確信していた。