第1話
【-1-】
ガラガラと、アスファルトを削るような音が静かな山々に虚しく響いていた。
私が引きずっているキャリーバッグは、長期滞在用の重たい荷物を詰め込んだせいで、歩くたびに容赦なく私の腕を引っ張る。
見渡す限りの緑、遮るもののない強い陽射し。
そこは、私が生まれ育った都会とはかけ離れた、とにかく『田舎』の一言に尽きる場所だった。
父方のおばあちゃんの家に、夏休みの間お世話になることになった────といえば聞こえはいいけれど、実際は突然の決定で、私の意思なんて完全に無視された強制連行だった。
「夏休みには、みっこたちとカラオケとか海とか行く約束してたのに……」
ぽつりと独り言を呟き、不満げに口を尖らせる。 しかし、文句を言いたい相手はここにはいない。
それどころか、すれ違う人影すらさっきから全く見当たらなかった。
「しかも、なによこの道! きちんと舗装もされてないじゃない!」
嘆きはそのまま、足元の現実となって私を苦しめる。
目的地のおばあちゃんの家に近づくにつれ、道路の舗装はあからさまに手抜きになっていった。
綺麗なアスファルトはいつしかひび割れたコンクリートになり、今では完全に容赦のない砂利道へと変わっている。
こんなデコボコ道では、キャリーバッグの小さな車輪なんて何の役にも立たない。
持ち上げるにはあまりに重く、転がして進むのはもはや無謀。
「あーー! もう、どうにかしてよ!」
なんとか持ち上げたり引きずったりして数メートル進んだものの、ついに体力の限界が訪れた。汗が額を伝い、私は文字通りその場にへたり込んだ。
「なんなのよ、一体ここは……!」
思い返せば、目的の停留所でバスを降りた瞬間から不穏だった。
あまりの田舎ぶりに啞然としながらも、液晶画面の地図を頼りに歩き始めた。
しかし、進めば進むほど民家はまばらになり、代わりに鬱蒼とした自然が迫ってくる。
道は細くなり、流石におかしいと思ってスマートフォンを取り出した時には────画面の右上には『圏外』の二文字が無慈悲に浮かんでいた。
あまりにも想像を絶する絶望的な現状。
女子高生が夏休みを過ごす環境としては、最悪の部類だ。
(こんなところ嫌! 今すぐ家に帰りたい!)
心底、腹の底から、体中の力を込めてそう願った。
「どうかなさいましたか?」
その時、頭上から染み渡るような声が降ってきた。
ハッとしてキョロキョロとあたりを見渡す。
けれど、人の姿はどこにもない。
ここは見通しのいい一本道だ。歩いてきた方向にも、これから向かう先にも、誰もいるはずがなかった。
まだ陽は高いはずなのに、いつの間にか道は高い竹林に囲まれていて、ひんやりとした薄暗い空気が漂っている。
ざわざわと葉が擦れ合う音が、急に不気味に聞こえ始めた。
都会育ちの私の脳は、あっさりと怪奇現象の方向へ恐怖の舵を切る。
お、お化け……!?
全身にゾワリと鳥肌が立ち、足がすくんで動けなくなる。
本当なら荷物を放り出して走って逃げ出したい。
けれど、この重いキャリーバッグを持ったままではすぐに追いつかれるだろうし、何より中には貴重品が入っている。置いていくわけにはいかない。
恐怖でカチコチに硬直したまま、私は涙目で視線だけを激しく動かした。
「あの……」
「きゃーーーーーーっ!!」
すぐ耳元、鼓膜を震わせるほどの近さで声が聞こえ、私は鼓動が跳ね上がるのを感じながら悲鳴をあげた。
恐怖が限界突破し、貴重品も何もかも忘れて飛び退こうとした、その瞬間。
「あっ、待ってください」
駆け出そうとした私の手首を、大きな手がしっかりと掴んだ。
「ぎゃーーーっ! お化けに捕まった!」と心の中で叫ぶ。
けれど、その手に引き止められた瞬間、妙な違和感が頭をよぎった。
……んん? 温かい……?
力強いけれど、驚くほどにじんわりと温かい手のひら。お化けって、こんなに体温があるものなのだろうか。
私は恐怖でガチガチに震える体を、まるで錆びついたロボットのように、ゆっくりと振り返らせた。
そこには、背景が透けることもない、しっかりとした生身の人間が立っていた。
それも、不思議なことに和服を纏った男性だった。
漆黒の長い髪を後ろで綺麗に一つに束ね、穏やかな笑みを浮かべている。
その佇まいは、まるでそこだけ時代劇の撮影現場か、あるいは過去の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を抱かせた。
「もしかして……鈴さん、ですか?」
和服の男の口から、思いがけず自分の名前が飛び出した。
「は……い」
私は男のどこか浮世離れした端正な姿に見とれたまま、蚊の鳴くような声で返事をする。
「そうですか。お早い到着でしたね」
男は、私の警戒を解くように優しく微笑んだ。
「あの……どうして私の名前を?」
相手は私のことを知っているようだが、私には全く記憶がない。尋ねようとすると、男は小さく頭を下げて丁寧に向かい入れた。
「申し遅れました。私は黒須伊織(くろすいおり)と申します。お初にお目にかかります」
そのあまりにも洗練された美しいお辞儀につられるように、私も慌てて深々と頭を下げる。
「か、神子鈴(かなこすず)です……」
頭を上げ、それでも消えない疑問を視線に込めて、再び問いかけた。
「あの、伊織さんは……どちら様、ですか?」
「おっと、重ね重ね失礼いたしました。私は、こちらのお館様の下で修行をさせていただいている者です」
「お……やかたさま?」
またしても現代社会とは思えない単語が飛び出し、私の表情が強張る。
もしかしてテレビのドッキリ番組か何かなのではないかと、周囲の竹林にカメラが隠されていないか見回したが、あるのは静かに揺れる竹ばかり。
そもそも、私のような普通の女子高生をターゲットにする意味がない。
「さあ、お館様がお待ちです。ご案内いたしますね」
伊織さんはそう言って、私の足元にあるキャリーバッグにスッと手を伸ばした。
重いので自分で持とうと手を動かしかけたが、彼があまりにも自然に、そして羽毛でも持ち上げるかのように軽々と荷物を持ち上げてしまったので、言葉を失う。
「お持ちします。さあ、こちらへ」
洗練された無駄のない動きで、伊織さんはゆっくりと歩き出した。
私は完全に状況に置いていかれながらも、迷子になる恐怖から、必死でその広い背中を追いかけた。