彼は自嘲気味に目を伏せると、近くの枝に掛けてあった長袖のTシャツをひったくるように掴み、その異形を隠すように素早く頭から被った。
「今の……」
触れてはいけない、見てはいけないものを見てしまった罪悪感に苛まれながらも、私の唇からは、掠れた声が勝手に零れ落ちていた。
「あぁ……。まあ、これが、俺が『青龍』の魂を継いでるっていう……最悪の証拠、かな?」
史耶は口元だけを歪め、痛々しいほどに皮肉な笑みを浮かべた。
『史耶は青龍』
昨夜、宝玉の間で伊織さんが静かに告げた言葉が、鮮明に脳裏を過る。
私の知る知識の中の、伝説の生き物である『龍』の姿。
天を舞い、大自然の木々や嵐を操り、全身を強固な鱗で覆われた神聖な獣。
今、彼の背中に刻まれていたのは、まさにその「龍の体組織」そのものだった。
「やっぱ……気味悪いよな、こんなの。人間じゃねえもんな」
史耶は自分の右腕を見つめ、まるで不浄のものを忌むかのように、激しい自己嫌悪の表情を浮かべた。
そう言えば、彼はこんな真夏の猛暑日だというのに、昨日も今日も頑なに肌を露出しない、袖の長い服を着ていた。
それはファッションなんかじゃない。
自分の身体に現れた「異形」を、周囲の目から必死に隠すための防壁だったのだ。
私は激しく首を横に振った。
そして、精いっぱいの笑みを作った。
「気味悪くなんか……ないよ。すごく、綺麗だった」
半分は自分に嘘をついていた。
人間にあるはずのない異質なパーツを見て、心臓がバクバクと鳴るほどに恐怖したし、不気味だとも思った。
だけど────彼のあの、壊れてしまいそうなほどに傷ついた表情を見てしまったら、そんな恐怖心なんて一瞬でどこかへ吹き飛んでしまったのだ。
普段はあんなに強気で、頼りがいのある逞しいお兄さんなのに、自分の身体をこれほどまでに卑下し、怯えている。
そのギャップが、私の胸を酷く締め付けた。
「無理して優しい嘘つかなくていいぜ。俺、そういう他人の『怯えた視線』には、昔から嫌ってほど慣れてるからさ」
彼は私の心の内を見透かしたように、寂しげに笑った。
「俺だって、鏡でこれを見るたびに、悍ましい化け物だと思うんだから」
史耶は青い鱗の浮き出た右腕を、爪が食い込むほどに強く握り締めた。
「物心ついた、小さい頃からあったんだ。最初はさ、自分でも気付かないくらいの、小さな痣みたいな範囲だったんだけどな」
それが、年齢を重ね、肉体が成長するにつれて、年月をかけてじわじわと今の状態まで拡がっていったのだと、彼は静かに語った。
「まだ……自分に『神獣の力』があるなんて自覚がない頃は、自分の身体に起こる異常な変化が怖くて怖くて、毎日生きた心地がしなかった。自分が何者なのか、いつか化け物にでもなってしまうんじゃないかって。泣きながら、風呂場で何度もこの鱗をナイフで剥がそうとしたこともあったよ」
どんなに血を流し、強い力で削ろうとも、その龍の鱗が彼の肌から剥がれ落ちることは決してなかった。
「この屋敷に集められて、お館様から自分の『宿命』を聞かされるまで……俺にとって自分の身体は、恐怖の対象でしかなかったんだ」
史耶の声は、微かに震えていた。
鱗の異形を見られるたびに、周囲の人間から向けられる蔑み、憐れみ、そして化け物を見るような不快な視線。
自分が人間ではないコミュニティに追いやられていくような絶望感の中で、「いっそ生きるのをやめてしまおうか」と何度も線路の前に立ったことさえあると、彼は言った。
「本当を言えば……今だって怖くて堪らねえんだ。いつか、この鱗が全身を覆い尽くして、俺の心まで完全に『人間』じゃなくなっちまうんじゃないかって────」
史耶の瞳は、底知れない孤独と不安の色に濁っていた。
不思議なことに、彼のその底なしの恐怖と苦悩が、私の胸の奥へとジンジンとリアルな痛みとして伝ってきた。
彼の何年にも及ぶ孤独な日々が、私の脳内に融け込んでくるような感覚。
(この人を……救わなきゃ。この痛みを、私が癒してあげなきゃいけない)
その強い意志に導かれるように、私の両手は、自然と彼の右腕────青い鱗が広がる場所へと伸びていた。
袖を上げ触れる。
ゴツゴツとした、人間の皮膚とは違う冷たく硬い感触。
それを、私の体温で温めるように、両手でそっと、優しく包み込んだ。
「大丈夫だよ。史耶は、絶対に人間だよ。それ以外の何者にも、なりっこないよ」
まだ出会ったばかりで、お互いの何ひとつを知らない関係なのに。
私はまるで、彼の人生を何百年も前から見守ってきたかのように、慈愛に満ちた強い声で語りかけていた。
史耶は弾かれたように目を見開き、驚愕に表情を固めた後、自分の腕の上に置かれた私の小さな手のひらを、じっと見つめた。
やがて、彼の大きな手が、私の手を包み込むようにそっと重ねられる。
「……ありがとう」
少年のように照れ臭そうに呟き、それからクスッといつもの彼らしい笑みを溢した。
「なんか……俺、なんであんたにこんな話したんだろうな。今まで、親にも伊織さんにも、誰にも言ったことなかったのに」
誰にも見せられなかった傷口を、出会ったばかりの私に自ら晒し、本心を語ってしまったこと。
その不思議な心の変化に、彼自身が一番驚き、困惑したように苦笑いしていた。
彼のいつもの逞しい笑顔が戻ったことにホッと安堵した瞬間、私は急に猛烈な現実に引き戻された。
(私、今、男の人の逞しい生腕にめちゃくちゃ触れてる……!? しかも、手を握られてる!?)
一気に羞恥心が爆発し、私は火を吹くような勢いでパッと手を引き戻した。
彼もまた、自分の大胆な行動に気付いたのか、耳まで真っ赤に染め上げて「あ、悪い……っ」と小さく視線を逸らした。
気まずい沈黙を破るため、私は慌てて話題を切り替える。
「あ、あの! こんな朝早くから、ここで何をしてたの?」
「あ、いや……鍛錬、かな。鍛錬って言っても、ただのウォーミングアップみたいなもんだけど」
そういえば昨日、史耶は自分のことを「修行者」だと言っていた気がする。
「やっぱり、みんなもそういう鍛錬を毎日やってるの?」
「ああ。それぞれ自分の能力に合わせて、そこら中で好き勝手にやってるんじゃねえかな。伊織さんなんかは、冷気や水を操って精神統一してることが多いし」
史耶の言葉を聞いて、私の胸の中に旺盛な好奇心がムクムクと頭をもたげた。
みんながその「非現実的な神獣の力」をどんな風にコントロールし、どんな修行をしているのか、こっそり覗いてみたくなったのだ。
「多分、ここから林の中を適当に歩いてりゃ、どっかで誰かしらに出くわすと思うぞ」
私の下心を完全に見透かしたように、史耶がニヤリと笑った。
「の、覗き見したら、やっぱり邪魔になっちゃうかな?」
「まあ、黙って遠くから見てる分には文句は言われねえだろ。ただ、あんまり近づきすぎると巻き込まれて危険だからな。そこだけはマジで気をつけろよ?」
「うん、分かった!」
「絶対に迷子になるなよ」と言い添えてくれた彼に、私は満面の笑顔で手を振り、再び竹林の奥へと歩き出した。