武さんは地を走るような低い声で呟きながら、顎を上げ、鋭い眼差しでゆっくりと周囲の空間を見渡した。
私も彼に釣られるように視線を外し、あたりを見回す。
最初は、何が起きているのかさっぱり分からなかった。
先ほどまでと変わりない、静かな朝の竹林。
だけど────その不気味な『変化』は、確実に、そして急速に私の肌にも伝わり始めた。
さっきまで、あんなに爽やかで美味しかったはずの朝の空気が、一瞬にして霧散したのだ。
足元から、這い上がってくるような「生温かく、ねっとりとした不快な風」が流れ始める。
風は徐々に密度を増しながら上方へと渦を巻き、やがて、肉が腐ったかのような、鼻を突く凄まじい異臭を伴い始めた。
その空気を肺に入れた瞬間、喉の奥がカッと焼け付くような、息が詰まるほどの圧倒的な『毒気』を感じる。
私は猛烈な嫌悪感に襲われ、両手で咄嗟に口と鼻を覆い隠し、顔を激しく歪めた。
「武さん……これ、一体……っ」
本能的な恐怖心が、全身の細胞を駆け巡る。
何かが来る。
この世の存在ではない、致命的な『何か』が、すぐ近くまで迫っている。
脳内の危険信号が、狂ったように赤く点滅していた。
武さんは私のすぐ目の前に一歩踏み出し、周囲の全方位を隙なく警戒しながら、至近距離で小さく命じた。
「……行くぞ」
声にすらならないほどの微かな呟きの直後、彼は私の冷たくなった手をすっと力強く握り締め、凄まじい脚力で駆け出した。
私は突然のことに悲鳴を上げそうになりながらも、もつれる足を必死に動かし、彼の超人的な速度に合わせて必死に走る。
異様な、呪われた空気は、まるで明確な意志を持って私たちの背中を追いかけるように、辺り一帯へと瞬く間に充満していった。
さっきまで、爽やかな朝の光に満ちていたはずの世界。
それが、気付けば周囲の景色が急速に光を失い、どろどろとした濃厚な『闇』へと塗り潰されていく。
闇は一瞬で濃さを増し、気付けば一寸先も見えない完全な漆黒の世界へと変貌していた。
(何これ……!? どうなってるの!?)
上下左右の感覚すら曖昧になる暗黒の中、私を力強く引いてくれる武さんの「手のひらの温もり」だけが、唯一の現実であり、命綱だった。
まるで目を完全に瞑ったまま、全力疾走を強制されているかのような、底知れない恐怖。
走っても、走っても、身体にまとわりつくヘドロのような汚れた空気は、一向に晴れる気配がない。
やがて、私の運動不足の体力が完全に底を突いた。
呼吸が激しく乱れ、もつれた足先が地面の何かに引っかかり、前のめりに倒れ込みそうになる。
それを察知した武さんが、私の身体を抱きとめるようにして、急停止した。
漆黒の闇の中。
至近距離にある武さんの顔だけが、なぜか微かな光を放ち、はっきりと見えた。
その美しい顔が見える、ただそれだけで、破裂しそうだった私の心臓は辛うじて形を保つことができた。
「い、いったい……何が起きているんですか……っ!?」
状況が何ひとつ把握できず、ただ涙が溢れそうなほどの不安だけが、私の身体をガタガタと激しく揺らす。
「……詳しい説明は後だ。とにかく、最悪の事態としか言いようがない」
武さんはどこまでも冷静な口調を崩さなかった。
だが、その表情は鬼のように険しく、私の手を握る彼の全身の筋肉が、限界まで緊張し、強張っているのが痛いほど伝わってきた。
私が荒い呼吸を繰り返すたび、腐敗臭の混じったおぞましい空気が肺を満たし、意識が遠のきそうになる。
私は汗ばんだ手のひらで、武さんの衣服の胸元をギュッと必死に握り締めた。
「……安心しろ」
武さんは短く、けれど絶対的な強さを持ってそう告げると、私の手をさらに強く握り直した。
「まだ、走れるか?」
本当を言えば、両足はガクガクと震えていて、一歩先へ進むことすら不可能なほどに疲弊していた。
だけど────今は、首を縦に振る以外の選択肢なんてない。
肉体に鞭打ってでも、この悍ましい闇の空間から、一刻も早く逃げ出さなければ死ぬ。
それだけの確信があった。
二人が再び地を蹴って走り出そうとした、まさにその瞬間。
武さんの身体が、弾かれたように制動をかけた。
彼は瞬時に私を自分の背中側へと庇い、闇の特定の一点に向けて、全身の神経を集中させて身構えた。
武さんの周囲にピリピリと張り詰めた空気。
それが白いオーラのように彼を覆っていた。
周囲を刃のような風が覆って守りを固めている。
武さんの腕が自分の背中に押し込めるように自分を引き寄せた。
────刹那。
「それ」は、完全な沈黙の闇の中から、ぬるりと溶け出るように現れた。
武さんが鋭い視線を向けるその先だった。
男が纏っていたのは、古風な僧衣(そうい)。
どこからどう見ても神仏に仕える「僧侶」の姿。
それなのに、その男からは、聖職者が持つべき清らかなオーラなんて塵ほども発せられていなかった。
代わりに漂っていたのは、世界中の悪意を煮詰めたかのような、毒々しくおぞましい『陰の気配』。
武さんを包む神聖な白い光と対比するように、その僧の身体からは、背景の闇よりもさらに濃厚な、漆黒のドス黒い瘴気がゆらゆらと立ち上っていた。
男の口元には、見る者を不快にさせる薄汚い嘲笑が浮かんでおり、その瞳は、獲物を狙う猛禽類のようにギラリと狂気に光り、私たちを凝視している。
その圧倒的な悪意の圧力に気圧され、私は立っていることすらできなくなり、膝から地面へと崩れ落ちそうになった。
今すぐ叫んで逃げ出したいという衝動が脳内を支配する。
けれど私の目の前に、一本の揺るぎない楔のように立ちはだかる武さんの「広い背中」だけが、私をこの場に繋ぎ止めてくれていた。
(あの男に、負けちゃダメだ……!)
私の心の奥底にある「巫女の血」のような何かが、激しく警鐘を鳴らし、叫んでいた。
「……何者だ」
武さんが、静かだが地響きのような威圧感を孕んだ声を放った。
その声は何もないはずの深い闇の中で、まるで四方をコンクリートの壁に囲まれているかのように、不自然に反響してこだました。
「そうだな……」
僧衣の男は、へらへらとした薄笑いを崩さないまま、低く不気味な声を響かせた。
「お前たち獣の小倅どもが、夜も眠れぬほどに恐れている『あのお方』の復活を望む者────とでも名乗っておこうか?」
その言葉を聞いた瞬間、武さんは無言で一歩後ろへ下がり、背後にいる私を完全に隠すように守りを堅固にした。
「……たかが、肉体を持つ『人間』の分際で、何ができる。怪我を負いたくなければ、今すぐその薄汚い存在ごと立ち去れ」
武さんは絶対の自信を込めて、冷酷に僧に向けて言い放った。
「人間……か」
僧は喉の奥でククッと、壊れたおもちゃのような声を立てて笑った。
「白き獣の魂よ。お前がどれほど強大なの力を持っていようと……お前が今宿っているその『器』もまた、脆弱な人間に過ぎないではないか」
僧を包む黒い瘴気が、突如として爆発的に膨れ上がるのを肌で感じた。
「同じ人間の肉体であっても、お前のような『生身の肉体』と、我が身とでは────わけが違うのだよ」
闇の気配は周囲の空間を限界まで圧迫し続け、私たちの皮膚に、物理的な激痛を伴うほどの重圧をかけてくる。
「我が肉体を包むこの『闇の力』は、あらゆる攻撃を無に帰す、絶対の鎧として我が身を守り続けているのだからな」
武さんが動く。
彼は一切の予備動作なく、右手を真横へと一閃した。
空気を鋭く切り裂いて、光り輝く『白い三日月のような刃』が凄まじい速度で僧に向かって放たれる。
闇を真っ二つに切り裂きながら突き進んだ光の刃は、寸分の狂いなく僧の胸元へと直撃した。