────しかし、次の瞬間。
その強力な一撃は、何の発音もなく、水に溶けるように消滅する。
直撃したはずの僧衣の男は、表情の笑みを微塵も崩すことなく、文字通り微動だにしなかった。
その衣服に、傷一つついていない。
「言ったろう? 我が身は闇の鎧に守られている。そんな小賢しい人間の力など、通用するわけがないのだよ」
武さんは私のほうを振り返ることもなく、音にもならない程度の声で「……そこを動くな」とだけ言い残すと、弾丸のような速度で前方に飛び出した。
地を一度強く蹴っただけで、彼は数十メートルもの距離を一瞬で移動してみせた。
それは到底、人間の肉体が出せるスピードではない。
武さんは空中で身を翻し、両手を鋭く振るって僧に向けて連続で真空の刃を叩きつける。
空気を切り裂く凄まじい風切り音が響くが────その全てが、僧の周囲に渦巻く黒い霧に触れた瞬間、パチパチと音を立てて霧散していった。
「白き獣よ。なぜ、それほどまでに手を抜く?」
武さんの猛攻を無抵抗で受け流しながら、僧が嘲笑を深める。
武さんは宙で鮮やかに一回転し、僧の僅か数メートル手前の地面へと静かに着地した。低い姿勢のまま、構えを一切崩さず、間合いを厳重に保っている。
「まるで……その大きな力を使うこと自体に、怯えと躊躇を感じているように見えるが?」
僧の痛烈な嘲笑が響いた瞬間、武さんの身体が、ピクッと微かに拒絶するように反応した。
「本来『神獣』と呼ばれた力で、生身の『人間』に致命傷を与えるのが、そんなに怖いのか? か弱き獣の魂よ」
「……黙れ」
武さんの声に、初めて明確な怒りの刃が混ざった。
彼は再び猛烈な速度で躍り出、僧に向けて肉弾戦を仕掛ける。
手刀が。
蹴りが。
大気を爆発させながら僧の身体へと襲いかかるが────その全てが、まるで目に見えないゴムの壁に阻まれるようにして、僧の肉体に届く直前で無効化されていった。
「いつまでそうやって、手加減した攻撃を続けるつもりだ? そんな温い戦い方では、無抵抗のまま、『巫女』を私に差し出しているのと同義ではないか」
男の不気味な言葉が耳に届いた直後、私は、自分の周囲の空間が「異常な動き」を見せていることにハッと気付いた。
闇が────動いている。
さっきまで私の周囲をただ静かに満たしていた沈黙の闇が、まるで意志を持った巨大なアメーバのように、うねりながら私を目がけて四方から迫り始めていたのだ。
「ひっ……あ、嫌……っ!」
私は身体を極限まで丸め、必死に後退りする。
けれど、逃げ場なんてどこにもない。ねっとりとした冷たい闇の触手が、ゆっくりと、確実に私の足元から身体を飲み込もうと這い上がってくる。
(誰か……誰か助けて……っ!!)
心の中で悲痛な叫びを上げた、その刹那────猛烈な一陣の暴風が、私の周囲を吹き抜けた。
私を完全に飲み込もうとしていたドロドロの闇の触手が、その圧倒的な烈風によって、ズタズタに引き裂かれて霧散していく。
その風を操り、私を救ってくれたのが、前方にいる武さんであることは直感で理解できた。
「……逃げろっ!!」
武さんの、張り詰めた鋭い声が闇に響く。
私は方向も、前後左右すらも分からない暗黒の中、無我夢中で駆け出した。
どこへ向かって走ればいいのか、安全な場所がどこなのかすら分からない。
けれど、とにかくあの禍々しい男がいる場所から、一歩でも遠くへ離れなければならないということだけが、私を突き動かしていた。
不思議なことに、そこは鬱蒼とした竹林のはずなのに、どれだけ目隠し状態で無茶苦茶に疾走しても、身体に竹の幹がぶつかる感触が一切なかった。
これほどのスピードで猛ダッシュしていれば、大怪過を負うレベルで激突していてもおかしくないはずなのに。
とにかく私は、ただひたすら真っ直ぐ、闇の奥へと走り続けた。
どれほど走っただろうか。肺が破裂しそうなほどに息が切れ、両足の筋肉が限界を迎えて痙攣し始める。
戦いの中心地から、おそらく相当な距離を移動したはず。
私は激しい息を吐きながら、疲れ果ててその場に足を止めた。
辺りを見渡しても、やはり何も見えない。
完全な静寂。
武さんの戦う風の音も、あの不気味な僧の声も、ここまでは届かない。
恐怖と不安は一向に拭えなかったけれど、ひとまずは「あの場所から逃げ切れた」という事実に、私は小さく安堵の息を漏らした。
────だが、その安易な考えが、致命的な間違いであったことを即座に思い知らされる。
「……素晴らしい健脚だ。巫女よ、さあ、私と共に来てもらおうか」
突如として、私の真ん前────僅か数十センチの至近距離から、あの冷ややかな声が鼓膜へと突き刺さった。
「え……っ!?」
心臓が完全に停止する。
私はあの場所から、全力を出して逃げてきたはずだ。脇目も振らずに、真っ直ぐ、真っ直ぐに走ってきたはずなのに。
なぜ────なぜ、私の目の前に、先回りしたかのようにこの男が立っているのか。
闇の中に浮かび上がる、白と黒の僧衣。
神聖な神仏の格好をした、底なしに邪悪な化け物。
冷たい汗が滝のように背中を伝い落ちる。
足の骨が強度の疲労と恐怖でガタガタと震え、立っている力さえ完全に失われかけていた。
僧の、青白い骨張った手が、私の細い首筋へとゆっくりと迫ってくる。
(あ……もう、ダメだ……)
私は完全に覚悟を決め、迫り来る恐怖を拒絶するように、両目を強く、強く瞑った。