次の瞬間、凄まじい衝撃と共に、私の腕が強靭な力で掴まれた。
弾かれたように強い力で引き戻される。
私を引き寄せた手のひらの感触が、あの冷酷な僧のものではないことは、瞬時に理解できた。
驚いて目を開けたその視界に────朝日のような眩い銀色の髪を美しく靡かせながら、私を守るように立つ武さんの背中があった。
「……まだ戦うつもりか? 白い獣よ。己の『本当の力』も使えぬ、意気地なしの分際で」
僧は掴み損ねた己の手を見つめながら、小馬鹿にしたように吐き捨てた。
「……神仏に仕える身でありながら、なぜ、それほどまでに醜悪な『陰の力』を欲する」
武さんは僧の瞳を真っ向から鋭く睨みつけ、凍りつくような声で問い詰めた。
「ククク……それでは逆に聞こう。仏が、神が、我ら人間に一体何をしてくれたというのだ?」
僧衣の男の表情が、初めて激しい感情の波によって歪んだ。
それは、神仏という絶対的な存在に対する、狂気的なまでの「憎悪」に満ちた表情だった。
「我々人間が、どれほどの苦痛の中で、どれほど血を吐きながら救いを願おうとも……あの高慢な神どもは、何もしてはくれぬ! 誰一人として、助けてなどくれぬのだよ!!」
僧の顔に、歪んだ、醜い笑みがべたりと張り付く。
「しかし……この『陰の力』は違う。望めば、こちらの願いを確実に叶えてくれる。人間の、ほんの多少の『犠牲』さえ支払えば……どんな不条理な願いであっても、全てな」
僧の顔は、最早狂人のそれだった。
「……ならば、なぜ未だにその僧衣を纏う。それはお前が、まだ神仏への未練を捨てきれていない証拠ではないのか」
武さんの冷徹な指摘に、僧は一瞬の沈黙の後、ククッと不気味に肩を揺らして笑った。
「獣よ、これはな……仏に対する、至高の『冒涜(ぼうとく)』なのだよ。この清らかで神聖な衣装を、罪なき人間の血でドス黒く汚すこと……それこそが、私がこの衣装を身に纏い続ける、唯一の理由なのだからな!!」
僧はさも愉快そうに、狂ったように笑い声を響かせた。
「さて……無駄話は、そろそろ終わりにしよう。あの方が首を長くして待っておられる」
突如として、僧の笑みが消え、その瞳が完全な殺意へと塗り潰された。
「その巫女を、こちらへ渡してもらおうか」
僧が私に向けて容赦なく手を差し出す。
その手から放たれる圧倒的な威圧感に、私の身体はガタガタと震えることしかできなかった。
「……断る」
武さんは、ただ一言、短くそう告げる。
その声には、一歩も退かない絶対の意志が宿っていた。
「残念だよ。できれば無傷で、穏便に話を進めたかったのだがね」
僧は言葉とは裏腹に、極めて愉悦に満ちた声をあげた。
再び、私たちの周囲の闇が、生き物のように蠢き始める。
さっきまでの、ただの煙のように揺らめくだけの闇とは、明らかに密度が違っていた。明確な「殺意」と「敵意」を持って、私たちを物理的に圧殺しようと襲いかかってくる。
「……少し手荒になる。我慢しろ」
武さんが低い声でそう呟いた、次の瞬間。
彼の逞しい腕が、私の腰を強引に抱きすくめた。
「えっ……!?」
唐突に、私の身体がフワリと宙を舞う。
武さんは私を片腕でしっかりと抱き抱えたまま、強烈な追い風を伴って闇の中を疾走し始めた。
まるでハイスピードの大型バイクの特等席に乗せられているかのような、凄まじい重力と風圧を全身に感じる。
正直生きた心地がしなかった。
あまりの速度に上下左右の感覚すら完全に喪失し、今自分が地面を走っているのか、それとも宙を飛んでいるのかすら分からなくなる。
武さんは荒れ狂う闇の触手を紙一重で避け、私を抱えていないほうの手を鋭く振り抜き、目にも留らぬ速さで白い光の刃を乱射した。
放たれた光刃が、背後から迫る無数の黒い影を次々と真っ二つに切り裂いていく。
「……チッ、キリがないな」
武さんの足が力強く地面に着地した。
私をしっかりと地面へと降ろす。
武さんは私を庇うような形のまま、周囲を完全に包囲し蠢いている巨大な闇の津波へと全身を向ける。
彼の身体から溢れ出る白い光が、徐々に、徐々にその密度を増し、眩い奔流となって両手の手のひらへと一気に収縮されていく。
その莫大な光を解き放つように、彼は両腕を大きく左右へとクロスさせて振り抜いた。
「ハァッ!!」
今までとは桁違いの、巨大な十字の光の刃が暗黒の世界へと吐き出された。
激しい地鳴りのような轟音とともに放たれたその絶対的な一撃は、周囲を取り囲んでいたすべての邪悪な闇の触手たちを、一瞬にして光の塵へと消滅させていった。
蠢く闇の気配は完全に消失し、辺りには、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。
(やって……? 倒したの……?)
そう思った、まさにその瞬間。
静寂を嘲笑うように、ゆっくりと手を叩く乾いた音が闇に響き渡った。
前方の闇の中から、何事もなかったかのようにぬるりと僧が姿を現し、私たちに向けて拍手を送っていた。
「お見事、お見事。それほどまでに加減した不完全な力で、我が闇の軍勢をここまで退けるとは。さすがは四獣が一人、白虎の魂だ」
僧はさも楽しそうに、愉悦の声をあげる。
「────ならばなおさら、覚醒して厄介なことになる前に、ここで確実に始末しておいた方がいいというわけだ」
拍手の音が、ピタリと止んだ。
僧が片手を真横へと差し出すと、空間が歪み、そこへ一本の禍々しい『錫杖(しゃくじょう)』が出現した。
僧はその柄をガシッと掴むと、一度高く持ち上げ、そのまま容赦なく地面へと叩きつけた。
金属の擦れ合う不気味な音が、闇の空間に鋭く響き渡る。
それと同時に、目に見えない強烈な衝撃波が、僧を中心として円状に炸裂した。
武さんはその凄まじい衝撃を正面から喰らい、後ろへと大きく弾き飛ばされながらも、空中で見事に体勢を立て直し、地面へと鋭く着地する。
すぐさまその風圧だけで遥か後方へと吹き飛ばされていた私の身体を、自らの肉体でしっかりと受け止めてくれた。
「さあ……もう一度いくが、耐えられるかな?」
僧の冷酷な声と共に、再びあの禍々しい錫杖が高々と掲げられた。
「白の獣よ。一つ言い忘れていたが……私はその巫女を『無傷』で連れ帰れとは、一言も命じられていないのだよ」
その最悪な言葉を聞いた瞬間、武さんは、背後にいる私の姿をちらりと振り返った。
その瞳に、明確な「焦燥」と「決意」が宿る。
容赦なく、二度目の錫杖の音が鋭く鳴り響いた。
私は来るべき衝撃に備え、両目を瞑って身構える。
地鳴りのような轟音が周囲を狂わせるように響き渡り、大地が激しく揺れ動いた。
さっきのものとは比較にならないほど、殺意に満ちた巨大な衝撃の奔流。
それが、確実に私のいる位置を標的にして、一直線に走り抜けていく。
────しかし。
どれほどの時間が経っても、私の身体には、何の痛みも衝撃も訪れなかった。
後ろへ吹き飛ばされることも、皮膚が切り裂かれることも、何ひとつ。
私は恐る恐る、固く瞑っていた目を開けた。
「た……武、さん……?」
私の目の前には、信じられない光景が広がっていた。
私という存在をあらゆる衝撃から完全に庇い、隠すように、両手を広げ、全身をまるで盾のようにして立ちはだかる武さんの姿。
その透明な瞳で一瞥をくれると吐息を一つ。
────次の瞬間、グラリと操り人形の糸が切れたように身体を大きく揺らし、そのまま地面へと激しく崩れ落ちた。