【-2-】
武さんは何とか無事だった────。
だけどその身体はボロボロで見ていられない程に傷ついていた。
その姿を見たから尚のこと、恐怖で体の震えが止まらない。
生まれて初めて肌で感じた、あの禍々しい悪意の残滓が、皮膚の裏側にべっとりと張り付いているかのようだった。
あの時、もしみんなが助けに来てくれなかったら。
私は今頃どうなっていたのだろう。
武さんはどうなってしまっていたのだろう。
ただ凡庸に生きていれば、想像することさえなかった狂気の世界。
この屋敷に来てから耳にした荒唐無稽な伝承やデータの数々が、濁流となって脳内を駆け巡る。
信じられるはずがないと切り捨てていたお伽話は、先刻の血生臭い戦いによって、冷酷な現実として私の前に突きつけられた。
私はもう、逃れようのない渦に巻き込まれているのだ。
母屋の居間には、祖母と伊織さんたちが重苦しい沈黙の中で車座になっていた。
そこには当然、武さんの姿はない。
傷の深い彼は離れの自室で一人、張り詰めた糸のような療養をしている。
あの凄惨な場所から撤収して数時間、私は彼に会いに行けずにいた。
あんな無惨な傷を負わせたのは、他でもない私の存在が原因だという罪悪感が、足をすくませている。
戦う術も持たず、ただ恐怖に身を竦めることしかできなかった私を、命懸けで護ってくれた彼に対して、どんな言葉をかければいいのか分からない。
ありがとうなのか、ごめんなさいなのか…。
「さて」
沈黙の重圧に耐えかねたように、祖母が静かに口を開いた。
「先刻林の奥で起こったことを、説明してくれるかい? 鈴」
声音は穏やかだったが、逆らうことを許さない確かな威圧感が含まれていた。
その響きに私の肩がびくりと跳ねる。
脳裏に焼き付いた濃密な闇の残像が、再び心臓を冷たく締め付けた。
言葉を発しようとしても、喉が引き攣ってまともな声にならない。
「鈴さん」
隣に座る伊織さんが、私の背にそっと手のひらをあてがった。
そこからじわりと染み込んできた微かな熱が、強張っていた背骨の緊張を段階的に解いていく。
「大丈夫です。ここには全員揃っています。一度、深く息を吐いてください」
向けられた彼の眼差しには、いつもの冷静な理知の中に、他者を落ち着かせる独特の静けさがあった。
凍りついていた思考の淀みが、その声音によって少しずつ流動性を探り始める。
「……話せそうですか?」
私はその静かな促しに、ゆっくりと首を縦に振った。
皆に体を向け、口を開く。
「…僧衣の……男の人が、いました」
深く肺をそぎ落とすように息を吸い、私は途切れ途切れに語り始めた。
そこに佇んでいた異様な者の容姿。
周囲の大気を侵食していた泥濘のような闇。
それが意思を持った獣のように襲いかかってきたこと。
私をどこかへ連れ去ろうとしたこと。
そして、武さんが文字通り肉体を盾にして、私を闇の手から守り抜いてくれたこと。
みんな私が最後の言葉を絞り出すまで、微動だにせず耳を傾けていた。
持てる限りの記憶の破片をすべて差し出すように話し終えると、祖母は深く眉間を刻み、険しい表情のまま呟く。
「『人』の手によって、あの存在を呼び起こそうとしているわけかい……」
祖母はそれきり、唇を固く結んだ。
「ということは、まだ全ての元凶が完全な復活を遂げたわけではない、と捉えてよろしいのですね」
伊織さんが確認するように言う。
「そうだろうね。だが、かつてのような完全な封印の眠りにあるわけでもない。昨日、鈴に精神的な接触を試みてきたことを思えば、その覚醒は確実に訪れようとしている」
祖母の言う接触とは、あの真昼の悪夢のことだろう。
「お館様、なぜ奴らはあの林へ容易に侵入できたんだ」
これまで押し黙っていた当麻が、苛立ちを孕んだ声で疑問を呈した。
「屋敷の周囲は、結界による守護で固められているはずじゃなかったのか?」
祖母は厳しい視線を当麻へと向け、落胆の混じった吐息を漏らす。
「宝玉の神気が弱まっている証拠さ。永きに渡る封印の歪みが、地脈ごと痩せさせているんだろう」
祖母は立ち上がり、衣擦れの音を響かせた。
「これ以上の侵入を防ぐため、急ぎ二重の結界を張る。すぐに準備にかかるよ。伊織、史耶、ついておいで」
二人は無言で腰を上げ、祖母の後に続いた。
「当麻と鈴は、ここで待機していなさい」
それだけを厳命し、祖母は二人を引き連れて居間を去った。
襖が完全に閉まると、室内には再び張り詰めた静寂が戻ってきた。
私の視界の裏側では、未だに肉肉しい金属音が響くような戦闘の光景と、血に染まって崩れ落ちた武さんの残像が明滅を繰り返している。
何もできず、ただ守られるだけの弱者である自分への嫌悪感が、じわじわと胸の奥を焦がしていく。
自分はここで何のために存在しているのか。
またあの暗黒に直面するかもしれないという恐怖が、骨の髄まで冷やしていく。
誰かが自分のために傷つき、命を散らすかもしれないという恐怖が、何よりも耐え難かった。
「おい」
当麻のぶっきらぼうな声が沈黙を破った。
視線を上げると、当麻は腕を組んだまま、決して私と目を合わせようとはせず、窓の外を見つめていた。
「別に、武がやられたのはお前のせいじゃねえよ」
その横顔は硬く、どこか強張っている。
「俺たちは、どんなに肉体を削られようが、お前を五体満足で護り抜くように調伏され、訓練されてる。誰かが血を流したからって、いちいちお前が感傷に浸って立ち止まるな。無意味だ」
「だけど……っ」
私が反論しようとすると、当麻は舌打ち混じりに顔をこちらへ向けた。
「お前、見ていて鬱陶しいんだよ。昨日のあの、妙に突っかかってきた威勢はどこへ行った」
彼の刺々しい物言いは今まで通りだったが、今の私にはそれを不快に思うだけの心の余力がなかった。
感情の起伏が、深い疲弊の底に沈み込んでいる。
「……巫女って、何なの?」
私は膝の上で硬く握り締めた拳を見つめながら、掠れた声で問うた。
「あの僧は、なぜ私を執拗に求めたの? 私は、普通の日常を生きてきたただの高校生のはずなのに」
何もかもが不透明だった。
祖母も、あの悍ましい僧も、私を「巫女」と呼ぶ。
けれど私には、そのような大層な役割に値する自覚も力も存在しない。
なぜ世界は急に変貌し、私を求めて牙を剥くのか。
その根本的な理由が知りたかった。
「そんなこと、俺に聞くな。言葉で説明するのは性に合わねえんだよ」
当麻は顔を背け、唇を噛んだ。
「知っているんでしょ? 私が何者なのか、ここで何が起きようとしているのか」
私は一歩を踏み出すように声を荒げた。
「私は何も教えられていない! ここへ連れてこられた理由も、武さんが血を流さなければならなかった理由も、何一つ!」
堰を切ったように感情が噴出し、涙が次から次へと頬を伝って畳へと落ちていく。嗚咽が喉を塞ぎ、視界が滲んで歪んだ。
「なんで……私がこんな目に遭わなきゃいけないの……」
思考が急速に凍結していく。
ただ、理不尽に対する悲痛と恐怖だけが、涙となって身体の輪郭から溢れ出す。
言葉はもう続かなかった。
もし今の私の内側に存在する本音を抉り出すとすれば、それはただ一つ。
『────怖い』
その根源的な恐怖だけだった。
私はただ静まり返った部屋の中で、自らの脆さを露呈するように涙を流し続けた。
このまま時間が止まればいい。
何も起きず。
誰も変異せず。
ただ元の退屈な日常へ戻れるなら、他に何もいらない。
涙が古い畳に染み込み、暗い斑点を作っていく。