静寂が支配する渡り廊下を進むにつれ、大気の温度がわずかに下がっていくように感じられた。
ついさっきまで血生臭い戦闘が行われていたことが、まるで遠い過去の出来事であるかのように、屋敷内は不気味なほど平穏を保っている。
しかし目を閉じれば、あの闇の触手が網膜の裏側に鮮明に蘇る。
離れの玄関先に到着した時、伊織さんが足を止めた。
「申し訳ありません。私としたことが母屋に忘れものをしました。鈴さん、先に入っていてもらえますか?」
それが私と武さんを二人きりにするための彼の配慮であることは明白だった。
小さく頷き、彼の背中が見えなくなるまで見送った。
いざ武さんの前に立つと思うと、喉の奥が干からびるように緊張する。
今彼がどのような状態なのか。
戦い直後のボロボロの姿が脳裏によみがえる。
傷がどのくらい深いのか。
その痛みに顔を歪めていたら…。
改めてこの目で確認することへの恐怖があった。
けれど、逃げてばかりではいられない。
私は深く息を吸い込み、古い引き戸を開けた。
「……失礼します」
恐る恐る声をかけるが、返答はない。
室内は、ただ静謐な空気が澱んでいるだけだった。
靴を脱ぎ、板張りの廊下を進む。
間取りは簡素だった。
すぐ脇の部屋の襖が開け放たれており、そこに敷かれた布団の上に武さんが横たわっているのが見えた。
衣服の上からは大きな損傷は見えない。
だが、浴衣の襟元から覗く鎖骨の辺りには、赤黒い血が僅かに滲む白い包帯が痛々しく巻き付けられていた。
見えない衣服の下には、さらに深い傷が刻まれているのだろう。
「……ごめんなさい」
枕元に正座し、微かな寝息を立てる彼の横顔に向かって、小さく呟いた。
「それから……ありがとうございました」
彼が目覚めている状態では、到底口にできないであろう感謝の言葉を、静かな室内に落とす。
用は済んだ、彼を休ませるべきだと立ち上がろうとした、その時。
冷徹なまでに冷え切った、固い指先が、私の手首を掴んだ。
驚愕で息が止まる。
振り返ると、武さんの濁りのない、氷のような瞳が私を射抜いていた。
「……武、さん」
「……怪我は、ないか」
起こしてしまった申し訳なさで謝罪を口にしようとした私を遮り、彼はいつもの酷く無機質な感情の起伏を取り去った声で私を問うた。
「え? ええ、私はどこも……」
「そうか。ならばいい」
その硬質な表情の奥で、張り詰めていた何かが僅かに緩んだように見えた。
「あの……本当に、申し訳ありませんでした。私のせいで、こんな酷い怪我を……」
己の無力さを呪う言葉を吐き出すと、武さんはゆっくりと私の手首から指を離した。
「お前に怪我がなければいい、それで役割は果たされている。謝罪など、必要ない」
その透明な瞳には、私を責める色など微塵もなかった。
ただ、果てしない深淵のような、深い、深い孤高の悲しみが沈殿している。
「お前は」
武さんが再び、乾いた声で言葉を紡ぐ。
「これからさらに過酷な戦いに巻き込まれる。俺たちはそれを、命の代償を払ってでも防ぎ止める。お前はただ、己の生存だけを考えていろ。他者の命や傷に、心を割く必要はない」
それは先ほど当麻が告げた言葉と、本質的に同じものだった。
「どうして……そんな風に割り切れるの? どうして、そこまでして私を……」
出会ったばかりの私のために、なぜそこまでの犠牲を当然のように受け入れられるのか。
「それが、この『体』に課せられた唯一の存在理由だ。それ以外に、俺という個体に価値はない」
武さんの言葉は、私を突き放すと同時に、彼自身の存在意義をも冷酷に削り取っているように聞こえ、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
「武くん、傷の具合はどうですか?」
玄関から足音もなく現れた伊織さんが、部屋に入ってきた。
武さんは視線だけを伊織さんに巡らせ、「問題ない」と短く応じた。
「お館様の神気による応急処置は、確かに浸透しているようですね」
伊織さんは私の隣に、音もなく腰を下ろした。
「お館様は、この土地の『気』を操る術において、当代随一の達人ですから」
「『気』……ですか?」
私が問い返すと、伊織さんは静かに肯いた。
「ええ。そして、あなたの中にも、極めて純度の高い『気の源流』が眠っています。武くんと瞬時に『共鳴』を果たしたのがその証拠でしょう。鍛錬を積めば、お館様をも凌ぐかもしれませんね」
あまりにも淡々と語られる非日常の事実に、私は言葉を失う。
「……私にも、その力があれば、武さんの傷を癒やす手助けができるようになりますか?」
もし、私に何かができるなら。ただ護られるだけの枷ではなくなれるなら。
「十分に可能でしょう」
伊織さんはそう断言すると、「少し、感覚を掴んでみましょうか」と言って、私の右手を取り、それを武さんの青白い頬へと導いた。
「え……っ」
冷たい武さんの肌に、私の手のひらが触れる。
「武くんの中に走る、微細な気の乱れに意識を集中させてください。治療の基本は、自身の気を相手の傷口へ同調させることです」
伊織さんの声は酷く冷静だったが、私の中の動揺は治まらない。
武さんは私の手のひらを頬に受けたまま、一切の表情を変えず、ただ警告するように低く呟いた。
「……暴走させて、怪我を悪化させるなよ」
「させませんよ」
伊織さんが制するように言い、私へ向かって指示を重ねる。
「私の声ではなく、武くんの存在そのものに意識の焦点を絞ってください。……心を、完全に武くんの奥底、そこを見据えるように」
私は必死に動揺を抑え込み、武さんの瞳の奥へと意識を埋入させていった。
最初は他人の肌に触れているという生々しい恥ずかしさがあったが、彼の底知れない、ガラス細工のような瞳を凝視し続けるうち、周囲の空間が急速に遠のいていく感覚に囚われた。
私の意識が、足元の見えない深い沼の底へと沈降していく。
遠くで伊織さんが何かを解説している声が聞こえた気がしたが、意味を持った言葉としては鼓膜に届かない。
音も、光も、全ての感覚が消失した暗黒の領域へと、私は完全に没入していった。
その直後。
私の内側に、武さんの輪郭を通じて「それ」が怒涛の勢いで流れ込んできた。
穏やかな治療の気などでは決してない。
ドス黒く濁った、圧倒的な暴力性を孕んだ感情の塊だった。
激しい拒絶。
果てしない悲哀。
世界に対する純粋な、純粋な『────憎悪』。
強烈な負のエネルギーが私の精神を侵食し、圧殺しようとする。
脳髄を引き裂くような他者の声が、頭蓋骨の内部で反響した。
『お前は異常だ』
それはまだ幼い、少年の拒絶の声だった。
闇の奥から、古い記憶の情景が急速に肉体を持って再現されていく。
泥にまみれた地面、そこに立つ小学生ほどの少年たちが、嘲笑と嫌悪を剥き出しにして、こちらを指差して叫んでいた。
『化け物!』
違う。
────私は違う。
武さんの中から湧き上がる、激しい拒絶の怒りが私の意識と完全に同調する。
『気持ち悪い化け物!』
やめろ。
黙れ。
少年たちの中傷の言葉が引き金となり、武さんの内側に眠っていた【白虎】の凶暴な殺意が、私の精神をも真っ黒に染め上げていく。
────殺してやる。
────お前たちを、今ここで、肉塊に変えてやる。
少年たちに飛びかかろうとする、圧倒的な破壊衝動。
自らを拒絶した世界を、その爪で引き裂き、圧殺せんとする猛獣の純粋な殺意。
それは幾度も、幾度も私の脳内で木霊し、精神を狂気に叩き落とそうとした。
「やめろ……ッ!!」
鼓膜を破らんばかりの鋭い叫び声と共に、私は強烈な力で現実へと引き戻された。
自分の手が乱暴に振り払われ、眼前で武さんが激しく肩で息をしているのが見えた。
彼の額にはびっしりと脂汗が浮かび、その表情は極限の苦痛と怒りに歪んでいる。
「……俺の、記憶に……踏み込むな……っ」
途切れ途切れにそう絞り出すと、彼は私から完全に視線を背け、壁側を向いて激しく咳き込んだ。
「申し訳ありません。私の見通しが甘かった。全ての責任は私にあります」
必死に私をかばうように訴える伊織さん。
その声音から一切の余裕が消え、冷徹な沈痛さが満ちていた。
「……出て行ってくれ」
拒絶の言葉を受け、伊織さんは私を促し、静かに離れを後にした。