【-3-】
「彼は……生まれ持った色素の薄さ、白虎の魂の影響なのか、他者とは異なる外見でした。その支障なのか、肉体も決して頑健とは言えなかったようです」
伊織さんの自室は、床から天井まで届く巨大な本棚が壁を埋め尽くし、それでも収まりきらない古い書物や古文書が、床のあちこちに塔のように積み上げられている。
独特の古い紙の匂いと、墨の匂いが澱む部屋で、私は差し出された冷たい麦茶の湯呑みを両手で握り締めていた。
「それ以外は、周囲の子供たちと何ら変わらない、普通の少年だったのです。外見の違いを理由に、執拗な中傷を受けた。彼は、抑えきれない激昂に身を任せてしまった」
脳裏に、あの記憶の中で叫んでいた少年の姿が蘇る。
全身を駆け巡った、あの生々しい殺意の残り香が、まだ私の胃の奥を不快に収縮させていた。
「……殺そうとした…、相手を」
私の掠れた呟きに、伊織さん一瞬目を見開き、それから大きなため息をつく。
「やはりそうでしたか…」
深い落胆の色を見せる。
武さんはその時のことは一切話そうとはせず、だから伊織さんたちもその時の武さんの心情などは今まで知る由もなかったらしい。
伊織さんは続ける。
「その時の現場は凄惨な状態だったらしいです。激しい白虎の衝動のままに、相手に襲いかかったのでしょう」
「その、相手の少年たちは……?」
「死人が出なかったのが幸い…とでも言いましょうか」
殺意を滲ませていた感情を思うと、そのことに安堵した。
「しかし獣に襲われたような現場、という悲惨な状態。それが幸か不幸か、病弱な武くんが与えられるような傷ではなく、怪我を負わせた犯人は武くんだと訴える子供もいたらしいのですが、大人は誰も信じず、あまりの衝撃にその時の記憶をなくしてる子、錯乱する子までいて、野生の動物の仕業ということに収まり、彼は無罪放免となったようです」
私も聞いただけなのでそのくらいしかしらないのですが、と伊織さんは付け足した。
その後────親さえも気味悪がり、武さんはこの屋敷へと預けられたという。
無表情という仮面を被り、深い深淵のような悲しみを瞳に湛えていた武さん。
彼は、己の力が他者を容易に損なう暴虐であることを知ってしまったのだ。
だからこそ、二度と誰も傷つけないために、自らの感情ごと力を封印している。
私は彼の最も触れられたくない、最も深く膿んだ傷口を、気の共鳴によって暴いてしまったのだ。
「あの時、襲撃してきた僧が武さんに言っていました。『なぜ本気を出さない』…と。それは……」
「ええ。全力を出せば、再びあの惨劇を繰り返すかもしれないという、根源的な恐怖が彼を縛っているのでしょう……」
伊織さんは、底の知れない、仄暗い笑みを浮かべた。
「私たちの中で、自らの異能によって『他者を傷つけた』という明確な業を背負っているのは、おそらく彼だけ…」
風を纏う刃が闇を切り裂く、あの恐るべき破壊の力。
それが人間に向けられた時の惨劇を想像し、私は再び身体の芯から凍りつくような恐怖を覚えた。
ここにいる彼らは皆、一歩間違えれば怪物を超える破壊の権化なのかもしれない…。
「私たちが、怖いですか?」
伊織さんの静かな問いに、私は視線を泳がせ、辛うじて拒絶を否定するように首を横に振った。
「無理に強がらなくて結構ですよ。私たちは、あなたを傷つけるためにここにいるわけではありませんから」
彼らは皆、一様に圧倒的な強さを持ちながら、同時に、決して癒えることのない深い喪失の陰を纏っている。
史耶の身体を蝕む『青龍の鱗』。
武さんの『白い肌と破壊の衝動』。
ならば、目の前にいる伊織さんや、当麻もまた、その肉体に致命的な歪みを孕んでいるのではないか。
私がその疑念を口にすると、伊織さんは僅かに目を細め、静かに肯定した。
「当麻くんの肉体には、一見して異形は見られません。しかし、彼は医学的な定義を超えた『極度の弱視』です。彼の眼球は、私たちが見ているような光の世界を、ほとんど捉えていません」
私は息を呑んだ。
当麻のこれまでの動きに、視覚の障害を思わせる不自然さは微塵もなかったからだ。
「彼は制限ある視界の代わりに、大気の振動、神気の流れ、他者の呼吸や心音といった『五感の全て』を複合させて世界を観測しています。だからこそ、誰よりも気配に対して敏感なのでしょう」
あの当麻の、射抜くような強い眼光に映る世界は実は霞がかったものだという事実に、目眩がするような衝撃を覚えた。
「では……伊織さんは?」
伊織さんは少しだけ困ったように眉を下げ、それからゆっくりと両の瞼を閉じた。
しばらくの沈黙の後、彼が再び目を開いた時、その瞳は私の存在を通り越し、部屋の何もない空間の隅へと固定されていた。
「当麻くんが鮮明な視界を見る力を失っているのとは対照的に、私は……『見えすぎてしまう』のです」
「見えすぎる……?」
伊織さんは、まるでそこに何かが存在しているかのように、虚空を凝視している。
「あなたのご親友は、みっこさんというのですか。そのみっこさんと後期テスト終わりの放課後、海へ行く計画を立てたのですね」
突然の言葉に、「えっ」と声を上げる。
「だけど後期テストの結果が壊滅的で、成績表の評価は……」
「待ってください!」
これ以上自分の内面や過去を暴かれることに恐怖を覚え、反射的に彼の言葉を遮った。
どのような手段を使えば、初対面の私のそんな些細な記憶まで的中させられるのか。
そんな私の疑問に答えるように伊織さんが口を開く。
「私には、この世の肉体を持たない者たちの姿、いわゆる『霊体』が、生きている人間と同じ密度で見えています。今、あなたの背後から視線を送っている古い方が、あなたの過去を教えてくれました」
伊織さんの声には、怪談を語るような仰々しさはなく、ただ天気の世間話をするかのような、異常な淡々しさがあった。
「見えなくていいはずの、未練や呪詛の残滓が、常に視界を埋め尽くしている。彼らの中には、生きている人間の隙を突き、精神を乗っ取り、呪い殺すような恐るべき怨霊も存在します」
それが、彼の背負う宿命。
強いて言えば、見えるはずのない闇を見ているのだ。
「それが、伊織さんの『異形』なのですね」
「特別な部分、と言えば聞こえはいい。ですが、私にとっての最大の欠陥は、この異能ではなく……私自身の『心』そのものなのかもしれません。私の内面は、あなたが思っている以上に、軟弱で歪んでいますから」
常に冷静沈着で、屋敷の参謀のように立ち回る彼の心が弱いなどとは、到底信じられなかった。
「……気の扱い方の基礎を、今ここで叩き込んでおきましょう」
突然話題を切り替えると伊織さんは立ち上がり、静かに私の横へと移動した。
「私の手を、握ってください」
彼の手は驚くほど大きく、そして、先ほどの武さんとは異なる、奇妙に張り詰めた冷たさを持っていた。
「鈴さん、私の目を見てください。逸らしてはいけませんよ」
私は彼の指示に従い、伊織さんの瞳の、その奥を見つめた。
再びあの武さんの時のような暗黒、あるいは伊織さんの背負う凄惨な怨霊の記憶へと引きずり込まれるのではないかという恐怖が首をもたげたが、私は逃げずにその眼差しを受け止めた。
意識が、急速に物質の境界を失っていく。
しかし、今回はあの武さんの時のような、精神を切り裂く殺意の暴風は吹かなかった。
そこにあったのは、不気味なほどに静まり返った、温度のない静寂の世界だった。
トクン、トクン、トクン。
一定の周期で刻まれる、冷徹な鼓動の響き。
私の身体の中心部に眠っていた熱が、手首の境界線を通じて、伊織さんの中へと静かに流れ出していく。
それは大気の循環のようにごく自然で、けれど冷徹なまでの正確さを持った気の移動だった。
私の体から排出されるエネルギーと引き換えに、伊織さん側からも、ひんやりとした無機質な気が体内へと還流してくる。
「……素晴らしい」
伊織さんの声と共に、気の循環が途絶え、私の意識は再び畳の上へと戻ってきた。
彼の顔には、完璧なまでの微笑が張り付いていた。
「私の誘導なしに、自らの意志で気の出力をコントロールできている。この調子であれば、近いうちに武さんの治療も可能になるでしょう」
私は僅かに安心したものの、武さんが二度と私に触れさせることを許さないのではないかという懸念が残った。
吐息を漏らし手を引こうとしたとき、私の手が変わらず伊織さんの手のひらに包まれていることに気づく。
修行のセッションが終了したにもかかわらず、伊織さんの指が開くことがない。
手を引こうとすると握る圧力は、先ほどよりも僅かに強まっている。
「あの……伊織さん」
「何でしょうか」
「手を……離していただけないのでしょうか」
伊織さんはその問いに対してふわりと微笑んだまま私を見つめる。
そのきれいな微笑みと、握られた手にやけに意識がいって段々と顔がほてってくる。
「あの、伊織さん…?」
ふふ、と小さく笑う伊織さん。
「あなたの中の気の残響が、あまりに心地よかったもので」
ようやく解放された手で頬を押さえた。
「では、母屋まで送りましょう。気の治療を本格的に学ぶのであれば、一度お館様に直接、相談されるのが最善です」
伊織さんは立ち上がり、何事もなかったかのように私を屋敷の玄関近くまで送って去っていった。
なんだか落ち着かない気持ちのまま伊織さんの去っていった方向を見つめて立ち尽くす。
あれは一体何だったのか…。
目の前でふふっと笑った伊織さんの残像が何度も繰り返されて顔が火照った。
「おい、あんた。変な顔して何突っ立ってんだ?」
頭上から、呆れたような声が降ってきた。
視線を上げると腕を組んだ史耶が、怪倹そうな表情で私を見下ろしていた。
「……変な顔、してる?」
私が問いかけると、史耶は短く「めちゃくちゃ変な顔してる」と即答した。
「どうせ、伊織さんに何か妙なことでも言われたんだろ」
図星を突かれ、私は目を瞬かせた。
「なぜ、分かるの?」
「あの人は、常に周囲の人間を観察して、揺さぶりをかけるのが癖なんだよ。特に新参者に対してはな」
史耶は忌々しそうに、けれどどこか諦めたような溜息をついた。
「あんなに親切で優しいのに?」
「ここではあの人が一番底が知れなくて曲者なんだよ」
史耶は鼻の頭をポリポリと掻きながら、視線を斜め下に落とした。
「四人の中で、ここに一番最後に監禁同然で連れてこられたのは俺だ。まだ何も分からず、毎日呪い殺されるんじゃないかと塞ぎ込んでいた頃……あの人は、わざとお風呂を覗いてきたり、有り得ねえ挑発をしてきたりして、俺の緊張を無理やりぶち壊してきたんだ」
私はその異様なアプローチに驚愕した。
「伊織さんが……そんなことを?」
「ああ。最初は本気で異常者かと思って警戒したんだが、今思えば、恐怖で思考停止してた俺を外界に引き戻すための、あの人なりの歪んだ気配りだったんだ。冗談や不条理を交えて、張り詰めた精神の安全弁を外そうとしてるのさ」
史耶の言葉を反芻し、私は少しだけ納得した。
確かに、伊織さんの部屋に入る前に私の心を支配していた、あの生々しい「闇への恐怖」は、彼の奇妙な術と問答によって、いつの間にか客観的な思考へと置き換わっている。
「あの人は、周囲の精神状態のバランスを保つための『重石』なんだよ」
史耶のその言葉は、深く私の腑に落ちた。
玄関で史耶と短い会話を交わして別れた後、私は一人、冷徹な静寂の中で思考を整理し始めた。
自分の置かれている異常な現状。
彼らが命を賭して護ろうとする理由。
正式に自分が何を為すべきなのか。
ただ怯えるだけの存在から脱却するため、私は確固たる答えを求め、祖母のいる奥の部屋へと歩みを進めた。