うねるような竹林の小径をしばらく歩いた先、視界が突然開け、圧倒されるほど大きなお屋敷が姿を現した。
純和風の、歴史の重みを感じさせる年代物の建築。
重厚な引き戸を開けて広い玄関に入ると、伊織さんは荷物をそっと廊下に下ろし、「お館様、鈴さんがお着きになりましたよ」と、屋敷の奥へと声を掛けた。
都会の狭いマンションで暮らしてきた私にとって、その邸宅は気が遠くなるほど広大だった。
(これ、掃除するだけでも一日が終わっちゃいそう……。もしかして私、夏休みの間ここにこき使われるんじゃ……)
そんな現実的な不安が胸を過る。
「あらあら、いらっしゃいませ」
廊下の奥から静かに姿を現したのは、一人の女性だった。
彼女は私の前まで来ると、流れるような動作で正座し、板張りの床に手を突いて深く頭を下げた。
「私はここで椿(つばき)様のお世話をさせていただいております、宮下恵子(みやしたけいこ)と申します」
「あ、神子鈴です! よろしくお願いします!」
おばあちゃん────椿の名前が出てきて、私は驚きながらも頭を下げる。
おばあちゃんがこんな立派な屋敷に住んでいて、お手伝いさんまで雇っているなんて、これまでの人生で一度も聞いたことがなかった。
「伊織さんも、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、恵子さん。あの、今日は皆さんどちらに?」
伊織さんの問いに、恵子さんは「はい」と微笑みながら立ち上がった。
「武(たける)さんなら、居間にいらっしゃいますよ」
「そうですか。それでは挨拶に参りましょうか、鈴さん」
手際よく案内され、私は玄関で靴を脱ぎ、伊織さんの後に続いて長い廊下を進んだ。
歩くたびに「きぃ、きぃ」と床板が古びた音を立てるのが、なんだか厳かな儀式のようで、自然と足取りが慎重になる。
やがて伊織さんが一室の前で立ち止まり、音もなく襖を引き開けた。
「どうぞ」
促されるまま、私は一礼して部屋へと足を踏み入れた。
そして、そこに静かに座っている人物を見て、息を呑んだ。
その人の髪は、まるで月の光を溶かし込んだような、あるいは純度の高い銀を紡いだような、不思議な色合いをしていた。
肌は抜けるように白く、全体的に色素という色素が極端に薄い。
あまりの整い方に、一瞬、精巧に作られた人形が飾ってあるのかと錯覚したほどだ。
しかし、その作り物のように美しい人は、ゆっくりと首を動かしてこちらを見上げた。
「こんにちは、武くん。こちらが神子鈴さんです」
伊織さんが私とその人の間に立ち、穏やかに紹介を始める。
「鈴さん、こちら、白間武(はくまたける)くんです」
「あ、は、はじめまして! 神子鈴です!」
慌ててペコリと頭を下げ、顔を上げる。
武と呼ばれた青年は、一切の感情を削ぎ落とした無表情のまま、私のことを値踏みするようにじっと見つめ、やがて静かに口を開いた。
「白間です。よろしく……」
言葉遣いは丁寧なのに、声のトーンにも表情にも全く抑揚がない。
とても愛想が良いとは言えない、壁を感じさせる態度だった。
武さんはすぐに視線を伊織さんへと戻し、同じ淡々とした調子で告げた。
「巫女が来たということは、今夜、お館様からお呼びがかかるのか?」
「でしょうね」
武さんのどこか不穏な問いかけに、伊織さんは何故かいつもと変わらない笑顔で頷く。
私は二人の会話の意味が全く分からず、ただ首を傾げるしかなかった。
(巫女? お館様? 一体なんのこと?)
みんな、私のことを知っている前提で話を進めているけれど、私には何も分からない。
ここへ来た理由だって、親から「夏休みはおばあちゃんの家で過ごしなさい」と言われたから。
そもそも、私には幼い頃におばあちゃんの家に来た記憶が全くない。
話しによれば何度か連れてこられたらしいけれど、実感が伴わないのだ。
だから、知らない家に突然放り込まれたようなもので、不安で押し潰されそうだった。
その上、次から次へと浮世離れした人物が現れ、まだ他にも仲間がいそうな気配に、長旅の疲れがどっと押し寄せてくる。
その後、恵子さんに案内され、夏の間私の部屋となる客間へと移動した。
余計なものが何もない、すっきりとしたシンプルな和室。
そこには、いつの間にか伊織さんが運んでくれた私のキャリーバッグが置かれていた。
大きく開け放たれた窓から、青々とした竹の香りを孕んだ風が吹き込み、火照った肌を優しく撫でる。
私は深いため息を吐き出しながら、畳の上にどさりと腰を下ろした。
聞こえてくるのは、遠くで鳴くセミの声と、風に揺れる木々のざわめきだけ。
都会では当たり前だった車のクラクション、他人の話し声、テレビや音楽といった人工的な雑音は、ここには一切存在しない。
耳が痛くなるほどの静寂。
その圧倒的な静けさが、かえって私の心細さを増幅させ、急激なホームシックが胸を締め付ける。
「帰りたいなぁ……」
ぽつりと溢れた本音と共に、私は畳の上にゴロンと身を横たえた。
ひんやりとしたイ草の感触が心地よく、疲弊した身体がそのまま畳に吸い込まれていくような錯覚に陥る。
こんな見知らぬ場所で警戒もなしに眠るなんて危ない、そう頭では分かっているのに、強烈な睡魔が容赦なく意識を刈り取りにきた。
抗うことのできない、底なしの眠り。
私はその深い闇の底で、夢を見た。
夢の中もまた、静寂に包まれていた。
けれど、それは現実の心地よい静けさとは全く違う、異質なもの。
鼓膜をじりじりと圧迫し、胸の奥を重く押さえつけるような、息苦しい沈黙。
ひどい恐怖を煽る、底知れない闇を伴った静寂。
その中で、突然、上空から音が降ってきた。
それは、低く、けれど妙に甘やかな、人の声。
『おかえり』
鼓膜を介さず、直接脳内に響き渡るようなその声に、私の身体はゾクッと激しく震えた。
不安と恐怖で身動きが取れなくなる。
なのに、その恐怖の裏側で、なぜか胸が引き裂かれそうなほどの「悲しみ」と、狂おしいほどの「愛しさ」が、激しく心を揺さぶるのだ。
『おいで、私の元へ……』
姿は見えない。
けれど、暗闇の向こうからそっと手が差し伸べられたような感覚があった。
私の身体は、自分の意志とは裏腹に、その手に応じるように自らの手を伸ばそうとしてしまう。
────だが、その繋がりは唐突に断ち切られた。
私の目の前に、目に見えない強固な壁が突如として現れたのだ。
それと同時に、私を支配していた不安定な感情の嵐が、嘘のように霧散していく。
(私は、そこへは行けない。行ってはだめだ)
私の心が、強く、激しく拒絶の声を上げた。
自分自身へ、そして闇の向こうの声の主へ向けて。
次の瞬間、闇を切り裂くように眩い光が降り注ぎ、冷え切っていた身体が急速に温かさを取り戻していく。
私の意識は、その光の導く方へと引き上げられた。