第20話
【-1-】
平穏と呼ぶにはあまりに危うい日々が、数日過ぎていた。
私は外界のすべてから遮断され、屋敷を囲む不可視の結界の中だけで息を潜めていた。
一歩でもその領域を外れれば、あの泥濘のような闇を従えた邪悪な者たちが、いつ牙を剥いて襲いかかってくるか分からない。
おばあちゃんからは、敷地から出ることを厳に禁じられていた。
自らに宿るという正体について、私の理性を司る部分は、未だにそれを拒絶し続けている。
数日前、祖母は張り詰めた声で私に告げた。
「宝玉に宿る力は、単に陰の気を浄化し、退けるだけのものではない。その本質的な神気は扱う者の意志によって、世界の理そのものに影響を及ぼす力を持つ」
祖母は私の目を見据え、言葉を重ねた。
「その禁忌の力を使うことができるのは、鈴、お前だけだ。お前は宝玉と対をなす存在なのだよ」
あの悍ましい僧たちは、そんな宝玉の力を欲して私の身柄を執拗に求めるのだろうか。
世界の理を歪め、あらゆる存在をその手中に収めるという狂気のために。
けれど、私自身の内側には、そんな大層な奇跡など何一つ存在しない。
四獣の魂を宿すみんなのように、襲いかかる異形を圧倒的な武力で蹴散らす力など、持ち合わせていない。
宝玉の対たる存在ということを除けば、私はただの脆弱な人間に過ぎない。
私自身は、みんながいう巫女が本当に私なのかを疑っている。
だけど、確かにあの禍々しい僧が自分を連れて行こうしたことは確かだ。
わからないことだらけで逃げ出したくなるのに、あの闇を知ってしまった今ではただこの限られた空間に身を潜めるしかない。
時間だけは有り余る程あった。
その時間を利用して私は『気』の修行を始める。
戦う術を持たない私は、再びあの狂気が屋敷を襲撃した時、彼らの肉体の後ろで怯え、守られるだけの足枷になる。
その冷酷な現実が、私の胸を苛んだ。
────ならば、せめて。
凡庸な私なりに、彼らの盾となるための方法を模索し始めた。
せめて傷ついた彼らを繋ぎ止める『気』の治療術を身につけられたなら。
いつまでも目の前の非日常を拒絶し、被害者のふりをして立ち止まっているわけにはいかない。
私はあの闇の底を目撃してしまった。
あれは狂言でも夢でもない、血と腐敗に満ちた匂いがする冷徹な現実なのだ。
受け入れるしかない。
この理不尽な宿命を。
私はおばあちゃんに頭を下げ、大気と体内に流れる『気』の循環について貪欲に教えを乞う。
伊織さんたちの肉体を借り、その体内の気の乱れを整える訓練を幾度も繰り返した。
未だ洗練された技術とは言えなかったが、多少の癒しを与えられるようになってきた。
傾きかけた陽光が、世界を濃密な黄金色と長い影へと塗り替えようとする時間帯。
私はこっそりと母屋を抜け出し、敷地の外れにある武さんの離れへと向かう。
あの時以来、私は彼と一度も顔を合わせていない。
命を賭して私を救ってくれた彼に、まともなお礼すら出来ていない。
少しでもその恩義に報いたいという焦燥と、罪悪感に似た感情が、私の背中を突いていた。
夕暮れの光が私の輪郭を地面に引き延ばし、ひとつの歪な影となって並走する。
熱を孕んだ日中の風が、夜の冷気に押されるようにして、周囲の木々をざわつかせながら通り抜けていった。
離れの前に到着したものの、私の足は板張りの前で自然と停止してしまった。
どうしても躊躇いが消えない。
最後に言葉を交わした際、彼は私の気の共鳴によって自身の凄惨な記憶を暴かれ、激しい拒絶の怒りを見せていた。
今赴いても、私の存在など拒絶されるのではないかという不安が、胸の奥で冷たく渦巻く。
あるいは、傷の療養のために深く眠っているのかもしれない。
私はそんな武さんの様子伺いという都合のいい言い訳を用意して、縁側の方へと回り込んで、室内の様子を窺おうとした。
だが、縁側に視線を向けた瞬間、息を呑んだ。
そこには、武さんが衣服を正し、静かに胡坐をかいて座っていた。
彼は私の接近に驚く素振りを一切見せず、まるで私がここへ至る足音を最初から数えていたかのように、その氷のような瞳を真っ直ぐにこちらへ向けてきた。
「こ、こんにちは……」
緊張のあまり掠れた私の声に、武さんは微かに顎を引いて応えた。
「あの、お体の方は、もう動かしても大丈夫なのですか?」
「ああ……」
短く、抑揚のない返答。
あそこまで深く肉体を損なわれていたというのに、早くもこうして端座しているその超人的な回復力に、私は言葉を失う。
私が怪訝な視線を向けていることに気づいたのか、武さんは淡々と言葉を継いだ。
「別に、俺の肉体が特殊だからではない。お館様や伊織の治療のおかげだ」
そう言うと、彼は無造作に手のひらを私の方へと差し出してきた。
その意図を掴めずに首を傾げると、武さんは瞳の奥の冷徹さを変えないまま言った。
「治療を、しに来たのだろう」
「……なぜ、それを?」
ため息交じりに武さんが答える。
「伊織が、お前が治療のために『気』の修行に励んでいると、毎日のように報告しに来ていたからだ」
あいつは余計な世話を焼く、と彼は不快そうに眉間にしわを寄せた。
私が彼の傷を癒やす力を得るため、毎日必死に訓練を重ねていた時、伊織さんは嫌な顔ひとつせず、その気の循環の媒介を引き受けてくれていた。
そして、その経過を武さんに逐一伝えていたのだ。
おそらくあの共鳴の暴走によって私たちの間に生じた致命的な亀裂を、伊織さんなりの方法で繋ぎ止めようとしてくれていたのだろう。
私は心の中で深く感謝した。
武さんの傍らへとゆっくり歩み寄る。
武さんは私から視線を外し、庭の木々を揺らす風をその白い肌に受け止めていた。
「先日は……感情に任せて拒絶した。悪かった…」
低く、押し殺したような声だった。
その眉間には固い皺が刻まれ、彼自身、他者への謝罪という行為に酷く不慣れであるようだった。
「私の方こそ、無理に踏み込んでしまって、ごめんなさい」
私も静かに頭を下げる。
それ以上の言葉は不要だった。
私たちはただ、夕暮れの静寂を共有する。
「それじゃ、治療をはじめます」
差し出された彼の手首に触れようとした、その瞬間、武さんの手のひらがピクリと不自然に跳ねる。
それは、肉体が本能的に覚えた『恐怖』の拒絶反応のようだった。
また私に内奥を覗かれ、あの忌まわしい化け物としての記憶を暴かれることを恐れているのだ。
そう気付いた瞬間、私の中にも恐怖が伝染し、反射的に手を引きかけてしまった。
「……すまない」
武さんは小さく肺の底から息を吐き出し、己の中の衝動をねじ伏せるようにして、再び手を差し出す。
私は自らの指先の震えを抑え込み、彼の温みの薄い手を取った。
他のみんなと比べて、彼の指は驚くほど細く、そして長い。
だがその皮膚の裏側には、戦いの中で私を極限の闇から引き剥がし、抱えて走った時の、あの圧倒的な硬度と力強さが確かに息づいていた。
この命を護ってくれた彼のために。
私は思考を研ぎ澄まし、これまでの訓練の成果をすべてその手のひらへと集約させていった。
自らの体内で脈打つ気を、細い糸を紡ぐようにして、ゆっくりと武さんの経絡へと流し込んでいく。
焦りは禁物だった。
ただ静かに、彼の乱れた気の配列を整えることだけに集中する。
脳裏には、祖母から叩き込まれた気の理論や古めかしい術理の言葉が、記号のように明滅していた。
本来の私なら、その言葉の真意など到底理解できるはずもない。
しかし、私の肉体に受け継がれて来た血脈が、ここへ来たことによって覚醒したのか、その世界の理を至極当然のこととして受け入れ、同調していく不思議な感覚があった。
これが、彼らの言う宿命の断片なのだろうか。
今、ここで恐怖に怯え、凡庸な思考を巡らせている『私』とは違うそのさらに奥底。
かつて四獣と共に在り、彼らの存在を懐しみ、彼らを護ろうと立ち上がる強靭な意思。
それこそが、みんなの求める『巫女』の本質なのかもしれない。
本来の私なら、こんな悍ましい戦いに巻き込まれた時点で、すべてを投げ出して逃げ出しているはずなのに、今の私は無謀にも、彼らの傷を癒やし、共に在ることを選ぼうとしている。
その歪な覚悟の出処こそが、私の中にいる巫女なのか。
訓練通りの行程をすべて終え、私はゆっくりと息を吐きながら、自身の意識を現実の縁側へと引き戻した。
術の精度に問題はなかっただろうか。
不安に駆られて顔を上げると、武さんはその氷のような瞳で、私の顔をじっと見つめていた。
「あの……どうでしょうか?」
私の微かな問いに、武さんは、ほんの一瞬だけ、その口元を綻ばせた。
それは、冷徹な仮面が微かに融解したかのような、酷く儚い微笑。
凍てついた冬の夜を思わせる無表情の顔に、一筋の陽光が差し込んだかのような、圧倒的な美しさがそこにあった。
私はその表情の劇的な変化に、息を呑んで見とれてしまう。
しかし、その変化は刹那の出来事であり、彼の顔はすぐにいつもの峻厳な無表情へと戻った。
「お館様の神気には遠く及ばないが」
武さんは静かに立ち上がり、自身の手のひらを握り締めて感覚を確かめた。
「……きちんと、気は通っている。治療は成功だ」
その言葉を聞いた瞬間、私は肩の重圧から解放され、子供のように両手を上げて安堵の息を漏らした。
「そこに座ってしろ。茶くらいは出してやる」
武さんはそう言い残し、部屋の奥へと消えていった。
それから薄暗くなり始めた縁側に並んで座り、武さんが淹れてくれた温かい珈琲を啜る。
言葉による会話はなかったが、大気の中を流れる時間は驚くほど穏やかだった。
周囲に満ちる平穏があまりに深いため、数日前に彼が血に染まって倒れたことや、あの林を侵食した禍々しい闇の存在が、すべて質の悪い幻覚だったのではないかと錯覚しそうになる。
そして、本当にそうであればいいのに────、と胸の奥で強く希求した。
特別な運命も、異形の力も何もなく、私はただ夏休みを利用して、田舎の祖母の家に遊びに来ただけの平凡な女子高生。
彼らは、そこで出会った少し風変わりな若者たち。
────そうであれば、どれほど救われただろう。
その根源的な願いは、いつしか私の内側で肥大化し、祈りに似た形を成していく。
どうか、この静かな時間が、彼らと共に在る平穏が、永遠に続いてほしい。
最初は常軌を逸した異能の集団として警戒し、遠巻きに見ていた彼らに対し、私の中の『巫女の記憶』がもたらす愛おしさと、何よりこの数日間で育まれた地道な居心地の良さが、私にとってかけがえのないものになりつつあった。
私は、この穏やかな空間を明確に愛し始めていたのだ。
だからこそ、この世界を、彼らの肉体を、誰の手によっても損なわれたくはい。
そう思考を巡らせていた、その瞬間────。
突如として、大地を根底から揺るがすような、凄ましき地鳴りと轟音が大気を引き裂いた。