骨まで震わせるような衝撃が響き渡り、恐怖が全身の皮膚を粟立たせる。
また、奴らが結界を破って侵入してきたのか。
私はカップを握る手に力を込め、怯えを孕んだ視線であたりを激しく見回した。
たった今、平穏を願ったばかりの現実が、これほどまでに容易く蹂躙されるのかという絶望が脳裏をよぎる。
しかし私の隣に座る武さんは、眉毛一つ動かすことなく、静かに珈琲を口に運んでいた。
顔を強張らせたまま彼を見つめる私に、武さんは視線すら向けず、淡々と呟いた。
「伊織だ」
「え……?」
「あいつが林の奥で、術の練錬を行っているのだろう。あいつの術は周囲への影響が大きすぎるため、滅多にここではやらないのだがな」
何事もない日常のひとコマであるかのように、武さんは再び珈琲を啜った。
彼の言葉によって最悪の事態ではないことを理解したものの、私の身体の震えはすぐには収まらず、轟音の響いた林の方向を凝視し続けた。
「気になるなら、見てくればいい。だが、間合いを誤れば巻き込まれるぞ」
武さんの警告を背に受けながら、私は吸い寄せられるように、林の奥へと足を向けた。
鬱蒼とした竹林の隙間を縫うようにして進む、それほど時間をかけずに、少し空間の広くなった場所に伊織さんの姿を捉えることができた。
彼は大気の中心で両の瞼を閉じ、深く瞑想に入っているようだった。
驚いたのは、着物の上半身を脱ぎ去っていて、そこに見える露出した上半身。
普段の和装の奥に隠されていたのは、想像を絶するほどに強靭で、無駄な贅肉を一切削ぎ落とした武人の肉体だった。
すべての筋肉が均等に、かつ冷徹なまでの機能美を持って配置されている。
まるで一流の彫刻家が精緻に彫り上げたかのような、美しい体。
伊織さんが、極めて緩やかな動作で胸の前で手のひらを合わせ、合掌の型を作る。
その瞬間、周囲の草木が意思を持ったように激しくざわめき始め、足元の土壌が細かな微振動を刻み始めた。
彼の高い位置で結ばれた長い髪が、風の存在しない空間で、気の奔流に煽られるようにして大きく揺らめく。
目に見えない圧倒的な圧力が、周囲の大気を激しく歪歪させていた。
ふいに伊織さんの両眼が鋭く見開かれ、神気を纏ったその拳が、大地の基盤へと垂直に打ち下ろされた。
空間を真っ二つに爆砕するような凄まじい衝撃波が放たれ、その威力に呼応して、周囲の大地が生き物のように激しくのたうち回った。
足元を完全にすくう強烈な震動に耐えきれず、私は短い悲鳴と共に、その場に激しく崩れ落ちた。
その微かな声を敏鋭に捉えたのだろう、伊織さんはハッとした表情で、即座にこちらの闇へと視線を走らせた。
「鈴さん……」
先刻までの、世界のすべてを圧殺するかのような峻烈な表情は霧散し、彼の顔にはいつもの穏やかな微笑が戻っていた。
「どうされたのですか? 一人でこのような場所へ立ち入るのは、危険ですよ」
彼は露出していた強靭な腕に、手際よく着物の袖を通しながら、私の元へと歩み寄ってきた。
「あの……その、凄まじい力ですね」
伊織さんに差し出された手を借り、衣服の泥を払いながら私は呟いた。
「何がですか?」
「その、今の術の威力も、……伊織さんの、身体も」
筋肉の彫刻のような彼の肉体を凝視していた事実を自覚し、私は己の浅はかな視線を恥じ、頬が急速に熱くなっていくのを感じた。
「私の身体ですか…。そうですか、私の『肉体』に、それほどの興味を持っていただけるとは」
ニッコリと笑みを濃くしていうそこに、こちらの動揺を見透かして愉しむような、いたずら心が垣間見える。
私は完全に顔を火照らせたまま、彼から強引に視線を逸らした。
「伊織さん」
「はい、何でしょうか」
「……私の反応を見て、からかっているのでしょう」
「おや、露見してしまいましたか」
伊織さんは小さく肩を揺らし、悪びれる様子もなくクスクスと不敵に笑った。
『あの屋敷の中で、あの人が一番底が知れなくて曲者だ』
かつて玄関先で史耶が吐き捨てた言葉が脳裏をよぎり、私はその指摘の正確さに、深く納得せざるを得なかった。
「ところで」
伊織さんは私の歩調に合わせるようにして、母屋への道を歩みながら語りかけてきた。
「武さんの治療は、無事に成果を得られましたか?」
「え……知っていらしたのですか?」
彼が離れに赴いたことまで把握していたことに驚き、私は隣を歩く伊織さんを見上げた。
彼はいつも通りの、感情の起伏を排除した穏やかな笑顔で頷いた。
「あなたが一人で母屋を出ていくのを、私が看過するはずがないでしょう」
それはつまり、私が離れの門前で葛藤し、右往左往していた見苦しい姿まで、すべて彼の観測範囲内にあったということだ。
自らの行動がすべて手の平の上で転がされているようで、底知れない気恥ずかしさが押し寄せる。
「はい。一応、気を通すことはできたと思います」
私がそう答えると、「それは何よりです」と、伊織さんは満足げに目を細めた。
「伊織さんが、毎日のように武さんに修行の話をしておいてくれたおかげです。ありがとうございました」
私が真っ直ぐに視線を向けて感謝を伝えると、伊織さんは一瞬だけ意外そうに目を見張り、それから少しだけ視線を泳がせて、微かに照れたような、人間らしい笑みを浮かべた。
「いえ。私はただ、お節介な性質に従ったままですよ」
彼はそう短く牽制すると、急速に帳が下りようとしている群青色の空を見上げた。
「静かですね」
彼のしみじみとした呟きに同意するように、私もまた、同じ空へと視線を投げた。
西の地平には燃えるような残照のオレンジが燻り、頭上には深い水色の夜が浸食を開始している。
昼と夜の境界線が曖昧になる、逢魔が時。
心地いい風が、伊織さんの結った髪をさらりと擽っていく。
歩くテンポにサラサラと泳ぐ漆黒の髪はとても長い。
「伊織さん」
「はい、何でしょうか」
「その髪は、いつからそこまで伸ばされているのですか?」
「とても長いですね」と付け足す。
それほどの長さに達するには、気の遠くなるような歳月が必要であるはずだった。
飽き性で、少しでも髪が鬱陶しくなるとすぐに切ってしまう私にとって、それは純粋な疑問だった。
「そうですね。一体、いつからだったでしょうか」
伊織さんは細い顎に指先をあてがい、思考の深淵へと潜るような仕草を見せた。
「……あれは、確かな願をかけた時からだったかと、記憶していますが」
「願掛け、ですか?」
私が問い返すと、彼は私にその底の知れない、けれど酷く哀切を帯びた柔らかい眼差しを向けた。
そして、大気に溶けるような、静かな声音で囁いた。
「ええ。────いつか、私たちがこの命(めい)から解放され、それぞれの平穏な時間を歩んでいけるように。この身に宿った四獣の魂に戦いのない、真の静寂が訪れますように、と」
常に周囲の精神的バランスを観察し、己を二の次にして立ち回る彼の、その背負うものの深さに、私は畏敬の念を抱かざるを得なかった。
「その和服を頑なに崩さないのも、やはり何か深い理由が?」
私がこの屋敷に来て以来、彼の洋装を見たことがない。
長い髪の理由を聞いた今、きっとその服装にも何か、例えば四獣たる玄武の守護に関わる制約とか、そんな深い意味合いがあるのかと、そう思った。
「いいえ。これは単なる、私の個人的な好みと申しましょうか」
伊織さんは、それまでの厳かさを霧散させ、あっさりと微笑んだ。
「この古めかしい景観には、和服以外は美的に調和しないと思いまして」
やはり、どこまで行っても本心の掴めない、不可解な人だった。
私は小さく苦笑を漏らしながらも、彼の刻む静かな足跡を追うようにして、薄暗い小道を一歩一歩進んでいった。