悠久の彼方より   作:時-トキ-

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第21話

骨まで震わせるような衝撃が響き渡り、恐怖が全身の皮膚を粟立たせる。

また、奴らが結界を破って侵入してきたのか。

私はカップを握る手に力を込め、怯えを孕んだ視線であたりを激しく見回した。

たった今、平穏を願ったばかりの現実が、これほどまでに容易く蹂躙されるのかという絶望が脳裏をよぎる。

しかし私の隣に座る武さんは、眉毛一つ動かすことなく、静かに珈琲を口に運んでいた。

顔を強張らせたまま彼を見つめる私に、武さんは視線すら向けず、淡々と呟いた。

「伊織だ」

「え……?」

「あいつが林の奥で、術の練錬を行っているのだろう。あいつの術は周囲への影響が大きすぎるため、滅多にここではやらないのだがな」

何事もない日常のひとコマであるかのように、武さんは再び珈琲を啜った。

彼の言葉によって最悪の事態ではないことを理解したものの、私の身体の震えはすぐには収まらず、轟音の響いた林の方向を凝視し続けた。

「気になるなら、見てくればいい。だが、間合いを誤れば巻き込まれるぞ」

武さんの警告を背に受けながら、私は吸い寄せられるように、林の奥へと足を向けた。

鬱蒼とした竹林の隙間を縫うようにして進む、それほど時間をかけずに、少し空間の広くなった場所に伊織さんの姿を捉えることができた。

彼は大気の中心で両の瞼を閉じ、深く瞑想に入っているようだった。

驚いたのは、着物の上半身を脱ぎ去っていて、そこに見える露出した上半身。

普段の和装の奥に隠されていたのは、想像を絶するほどに強靭で、無駄な贅肉を一切削ぎ落とした武人の肉体だった。

すべての筋肉が均等に、かつ冷徹なまでの機能美を持って配置されている。

まるで一流の彫刻家が精緻に彫り上げたかのような、美しい体。

伊織さんが、極めて緩やかな動作で胸の前で手のひらを合わせ、合掌の型を作る。

その瞬間、周囲の草木が意思を持ったように激しくざわめき始め、足元の土壌が細かな微振動を刻み始めた。

彼の高い位置で結ばれた長い髪が、風の存在しない空間で、気の奔流に煽られるようにして大きく揺らめく。

目に見えない圧倒的な圧力が、周囲の大気を激しく歪歪させていた。

ふいに伊織さんの両眼が鋭く見開かれ、神気を纏ったその拳が、大地の基盤へと垂直に打ち下ろされた。

空間を真っ二つに爆砕するような凄まじい衝撃波が放たれ、その威力に呼応して、周囲の大地が生き物のように激しくのたうち回った。

足元を完全にすくう強烈な震動に耐えきれず、私は短い悲鳴と共に、その場に激しく崩れ落ちた。

その微かな声を敏鋭に捉えたのだろう、伊織さんはハッとした表情で、即座にこちらの闇へと視線を走らせた。

「鈴さん……」

先刻までの、世界のすべてを圧殺するかのような峻烈な表情は霧散し、彼の顔にはいつもの穏やかな微笑が戻っていた。

「どうされたのですか? 一人でこのような場所へ立ち入るのは、危険ですよ」

彼は露出していた強靭な腕に、手際よく着物の袖を通しながら、私の元へと歩み寄ってきた。

「あの……その、凄まじい力ですね」

伊織さんに差し出された手を借り、衣服の泥を払いながら私は呟いた。

「何がですか?」

「その、今の術の威力も、……伊織さんの、身体も」

筋肉の彫刻のような彼の肉体を凝視していた事実を自覚し、私は己の浅はかな視線を恥じ、頬が急速に熱くなっていくのを感じた。

「私の身体ですか…。そうですか、私の『肉体』に、それほどの興味を持っていただけるとは」

ニッコリと笑みを濃くしていうそこに、こちらの動揺を見透かして愉しむような、いたずら心が垣間見える。

私は完全に顔を火照らせたまま、彼から強引に視線を逸らした。

「伊織さん」

「はい、何でしょうか」

「……私の反応を見て、からかっているのでしょう」

「おや、露見してしまいましたか」

伊織さんは小さく肩を揺らし、悪びれる様子もなくクスクスと不敵に笑った。

『あの屋敷の中で、あの人が一番底が知れなくて曲者だ』

かつて玄関先で史耶が吐き捨てた言葉が脳裏をよぎり、私はその指摘の正確さに、深く納得せざるを得なかった。

「ところで」

伊織さんは私の歩調に合わせるようにして、母屋への道を歩みながら語りかけてきた。

「武さんの治療は、無事に成果を得られましたか?」

「え……知っていらしたのですか?」

彼が離れに赴いたことまで把握していたことに驚き、私は隣を歩く伊織さんを見上げた。

彼はいつも通りの、感情の起伏を排除した穏やかな笑顔で頷いた。

「あなたが一人で母屋を出ていくのを、私が看過するはずがないでしょう」

それはつまり、私が離れの門前で葛藤し、右往左往していた見苦しい姿まで、すべて彼の観測範囲内にあったということだ。

自らの行動がすべて手の平の上で転がされているようで、底知れない気恥ずかしさが押し寄せる。

「はい。一応、気を通すことはできたと思います」

私がそう答えると、「それは何よりです」と、伊織さんは満足げに目を細めた。

「伊織さんが、毎日のように武さんに修行の話をしておいてくれたおかげです。ありがとうございました」

私が真っ直ぐに視線を向けて感謝を伝えると、伊織さんは一瞬だけ意外そうに目を見張り、それから少しだけ視線を泳がせて、微かに照れたような、人間らしい笑みを浮かべた。

「いえ。私はただ、お節介な性質に従ったままですよ」

彼はそう短く牽制すると、急速に帳が下りようとしている群青色の空を見上げた。

「静かですね」

彼のしみじみとした呟きに同意するように、私もまた、同じ空へと視線を投げた。

西の地平には燃えるような残照のオレンジが燻り、頭上には深い水色の夜が浸食を開始している。

昼と夜の境界線が曖昧になる、逢魔が時。

心地いい風が、伊織さんの結った髪をさらりと擽っていく。

歩くテンポにサラサラと泳ぐ漆黒の髪はとても長い。

「伊織さん」

「はい、何でしょうか」

「その髪は、いつからそこまで伸ばされているのですか?」

「とても長いですね」と付け足す。

それほどの長さに達するには、気の遠くなるような歳月が必要であるはずだった。

飽き性で、少しでも髪が鬱陶しくなるとすぐに切ってしまう私にとって、それは純粋な疑問だった。

「そうですね。一体、いつからだったでしょうか」

伊織さんは細い顎に指先をあてがい、思考の深淵へと潜るような仕草を見せた。

「……あれは、確かな願をかけた時からだったかと、記憶していますが」

「願掛け、ですか?」

私が問い返すと、彼は私にその底の知れない、けれど酷く哀切を帯びた柔らかい眼差しを向けた。

そして、大気に溶けるような、静かな声音で囁いた。

「ええ。────いつか、私たちがこの命(めい)から解放され、それぞれの平穏な時間を歩んでいけるように。この身に宿った四獣の魂に戦いのない、真の静寂が訪れますように、と」

常に周囲の精神的バランスを観察し、己を二の次にして立ち回る彼の、その背負うものの深さに、私は畏敬の念を抱かざるを得なかった。

「その和服を頑なに崩さないのも、やはり何か深い理由が?」

私がこの屋敷に来て以来、彼の洋装を見たことがない。

長い髪の理由を聞いた今、きっとその服装にも何か、例えば四獣たる玄武の守護に関わる制約とか、そんな深い意味合いがあるのかと、そう思った。

「いいえ。これは単なる、私の個人的な好みと申しましょうか」

伊織さんは、それまでの厳かさを霧散させ、あっさりと微笑んだ。

「この古めかしい景観には、和服以外は美的に調和しないと思いまして」

やはり、どこまで行っても本心の掴めない、不可解な人だった。

私は小さく苦笑を漏らしながらも、彼の刻む静かな足跡を追うようにして、薄暗い小道を一歩一歩進んでいった。

 

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