【-2-】
その日も、穏やかで平穏な一日が静かに終わりを迎えようとしていた。
私は恵子さんと一緒に夕食の後片付けを手際よく済ませてから、一日の疲れを癒やすために風呂場へと向かった。
じっとりと肌を濡らす汗を綺麗に洗い流し、なみなみと湯が張られた湯船へと身を沈める。
温かい湯の感触に包まれながら、私はゆっくりと頭のてっぺんまで、自らのすべてを湯の中に深く沈めていった。
耳元でくぐもったお湯の揺れる音だけが優しく響き、外界の雑音は完全に遮断される。
心地よい圧迫感に満ちた湯の中で、私は夕食時にみんなと交わした他愛のない会話を思い出していた。
胸の奥がじんわりと温かくなり、えも言われぬ幸福感が満ちていく。
恵子さんの作ってくれる料理はいつも通りどれも美味しくて、みんなの笑顔がそこにはあった。
明日もまた、今日と同じように優しく平和な一日が訪れるに違いない───。
私はそう露疑わず、未来を信じていた。
────たった、この瞬間までは。
数分後、私の心臓が不意に不吉な脈動を刻み、激しい胸騒ぎが襲いかかった。
その時はまだ具体的な理由など何も分かっておらず、ただ耳元を流れるお湯の音にじっと耳を澄ませていただけだった。
しかし、十分に熱いはずの湯船に浸かっているというのに、私の肌には恐ろしいほどの鳥肌が立ち、全身の血の気が引いていく。
底知れぬ不安が渦巻となって心に押し寄せ、湯から上げた額からは、お湯の熱さとは明らかに異なる冷たい汗がとめどなく流れ落ちた。
ただ事ではない気配に突き動かされ、私は急いで風呂から上がると、身体を拭いて衣服を身にまとった。
引き戸を開けて廊下に出て、息を殺してあたりを見渡すが、そこには誰もいない。
静まり返った屋敷の中はあまりにも不気味で、それが嵐の前の静けさ、破滅の序曲であることを、私の本能は冷酷に悟っていた。
────来る。
心の中で警告のサイレンがけたたましく鳴り響く。
邪悪な何かがこの場所に確実に近づいていることを察知しているというのに、非力な私にはどうすることもできない。
ただ形容のない恐怖に身体を硬直させ、激しい震えを必死に抑えながら、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
その時、空間を強烈に揺るがす凄まじい衝撃音が轟いた。
窓の向こうで一瞬だけ辺りが真昼のように眩しく狂い咲き、それと同時に激しい爆発の轟音が鼓膜を震わせる。
恐怖に縛られていたはずの私の足は、吸い寄せられるように無意識のうちに音のした方向へと走り出していた。
暗鳴を切り裂くように、連続して爆発の衝撃音が響き渡る。
音の源を必死に頼りながら向かった先は、鬱蒼と生い茂る林の中だった。
林の奥深くは、真夏であるはずなのに肌がじりじりと痛むほどの異様な冷気に包まれており、吐く息が白くなりそうなほどだった。
薄暗がりの足元に何度も躓き、生い茂る草木に肌を擦りながらも、私は必死に走って衝撃の現場へと辿り着き、そして息を呑んだ。
「当麻……!」
そこにいたのは当麻だった。
彼が鋭い呼気と共に拳を勢いよく突き出すと、その拳先から猛烈な勢いで赤炎の弾丸が噴出された。
炎は周囲の木々を赤々と照らし出しながら、一直線に前方へと突き進む。
その炎の先で蠢いていたのは、いつか見た、世界を侵食する禍々しい闇の一部だった。
それはまるでひとつの巨大な生き物のように不気味に波打ち、当麻に鋭い触手を伸ばして攻撃を仕掛けようとしている。
しかし、当麻の放った容赦のない業火がそれらを猛烈な勢いで焼き払った。
闇は、何人もの人間の怨嗟が入り混じったような、低音と高音が不協和音を奏でるおぞましい悲鳴をあげながら、霧消するように消滅していった。
肩を大きく上下させ、荒い息をつく当麻。
だが、その背後の空間がぐにゃりと歪み、再び新たな闇が音もなく這い出てくる。
「当麻、後ろ!」
私は喉が裂けんばかりの声で、彼の危機を知らせた。
当麻は一瞬だけ驚いたようにこちらへ視線を走らせたが、すぐさま超人的な反応で反転し、背後に迫る闇に向けて猛然と烈火を浴びせた。
再び闇が消え去り、視界が開けると、当麻は鋭い眼光で私を凝視した。
「何やってんだ! 逃げろ!」
その怒声に近い叫びによって、私はようやく自分が置かれている異常な現状に我に返った。
自分がどれほど危険な戦場の中心に立ち入ってしまったのかを、初めて明確に認識したのだ。
「ここは結界の外だぞ! 早く屋敷に戻れ!」
叫ぶ当麻の必死な表情に、私は弾かれたように強く頷き、今来た道を必死に引き返そうとした。
しかし、振り返った瞬間、私の眼前に文字通りの「闇」が出現し、行く手を完全に塞いでいることに気づいて息が止まる。
それがただの夜の暗闇ではないことは、一目で理解できた。
薄暗い林の空間の中で、そこだけが空間を丸ごと切り取られたかのように、ぽっかりと何の色も存在しない虚無の黒だった。
そこから絶え間なく排出される絶対的な冷気は、私の呼吸を瞬時に白い霧へと変える。
蠢く黒い塊からは、地獄の底から響くような、人間の苦しみ悶える呻き声に似た不快な音が漏れ聞こえていた。
闇は徐々にそのおぞましい形を変化させながら、幾条もの鋭い触手らしきものを私に向けて伸ばしてきた。
衣服を、そして肉体を容赦なく掴み取ろうと、じわじわと距離を詰めてくる。
私は底知れぬ恐怖に足がすっかり竦んでしまい、ガタガタと歯の根が合わないほどに震え崩れそうになる。
逃げなければいけない、そう頭では分かっているのに、まるで足の裏が地面に同化して、深く根を張ってしまったかのように一歩も動かすことができない。
「逃げろ、鈴!!」
遠くで響く当麻の悲痛な叫びを耳にしながらも、私はどうすることもできず、ただ訪れるであろう衝撃に備えて強く両目を瞑った。
次の瞬間、私のすぐ目の前で、大地が裂けるような激しい摩擦音と地鳴りが轟いた。
恐る恐る目を開けると、視界を埋め尽くしたのは、天を突くほどの巨大な樹木の壁だった。
地面から驚異的な勢いで生い茂った極太の幹と、鋼のように強靭な無数の蔦が絡み合い、私と蠢く闇との間を完全に、そして完璧に切り裂いて防壁となっていたのだ。
呆然とする私の身体を、背後から強くて温かい何者かの腕が引き寄せた。
私に害が及ばないよう、その広い胸の中にしっかりと抱きしめて守ってくれている存在───その顔を、私は縋るように見上げた。
「史耶……」
「大丈夫だ、ここにいる」
私の身体の激しい震えを優しく、しかし確実に抑え込むように、史耶は私の身体を強く抱き寄せた。
その温もりに救われ、涙を堪えながら何度も深く頷いた。
「史耶、そいつを連れて早く逃げろ!」
当麻が次々と押し寄せる闇の隙を突き、炎を放ちながら叫んだ。
史耶はその言葉に応じ、私を庇いながら駆け出そうとする。
だが、その一瞬の隙を突くように、私たちの周囲の全方位を、いつの間にか無数の闇が幾重にも取り囲んでいた。
鼓膜を激しく劈くような嫌悪感に満ちた音が闇から一斉に放たれ、私はそのあまりの不快さに耐えかねて、両手で強く耳を塞いだ。
脳の髄まで直接汚染されていくような、精神を狂わせる悍ましい音響だった。
「チッ、なんなんだよ、こいつらは……!」
史耶は不快そうに眉根を寄せ、その端正な顔を歪めながら、鋭い眼光で周囲の闇を睨みつけて低く呟いた。
「史耶くん、いきますよ」
闇の防壁の向こう側から、凛とした伊織さんの声が響き渡った。
史耶はその声を合図として受け取るや否や、私を横抱きに軽々と抱え上げ、地面を強く蹴って勢いよく上方へと跳躍した。
それと同時に、足元の土壌から青緑色の神気を帯びた無数の強靭な蔦が爆発的な勢いで噴き出し、私たちの身体を優しく、しかし強固に巻き上げながら空中へと押し上げた。
次の瞬間、空間が激しく震動し、私たちが先ほどまで立っていた地面が、目に見えない強大な水の圧力によってクレーター状に激しく陥没した。
凄まじい衝撃波が走り、周囲を取り囲んでいた闇が一瞬にして土煙と共に押し流され、消滅していく。
巻き上がる土煙と激しい水の粒子が薄れていく中心に、静かに佇む伊織さんの姿が現れた。