史耶を操る蔦が、役目を終えたように静かに私たちを地上へと降ろす。
「これは……っ」
伊織さんは、未だ周囲に残る深い闇を厳しい眼差しで見つめながら、ぽつりと呟いた。
そして、端正な眉を悲しげに顰め、痛ましさを堪えるように小さく言葉を漏らす。
「なんて、酷いことを……」
それは、敵であるはずの闇に対して、まるで深い同情を寄せるかのような、どこか哀愁を帯びた視線だった。
「伊織さん、これの正体は何なんだ?」
史耶が私を片腕で支えながら問いかけると、伊織さんは悔しそうに薄い唇を噛み締め、重いため息をついた。
「これは……成仏できずに現世に囚われ続けた、哀れな霊魂たちの成れの果てです」
「え……?」
私はあまりの衝撃に、小さな悲鳴のような声を漏らしてしまった。
「この世に強い未練や怨嗟を残した無数の魂が、引き寄せられるようにして怨霊となり、一つの巨大な『陰』を形成してしまったもののようです」
ずっとあの闇から漏れ聞こえていた、背筋が凍るようなあの不快な音───それは、救いを求めてもがき苦しむ、霊たちの悲痛な叫びそのものだったのだ。
そう理解した瞬間、私は恐ろしさの中にも言い知れぬ悲痛さを覚えながら、じっくりと目の前の闇を見つめた。
よく見ると、闇の輪郭は、幾重にも重なり合う人間の苦悶の表情や、伸ばされた無数の手のようにも見えた。
彼らは地を這い、もがき苦しみ、救いを求めるようにして、私たちに向かってゆっくりと距離を縮めてくる。
史耶が鋭い表情で片手を前方に突き出し、五指を大きく広げると、彼の放つ瑞々しい木属性の神気に呼応して、足元の草木が異常な速度で成長を始めた。
瞬く間に、幾重にも重なる強固な緑の結界が築かれ、怨霊の侵入を物理的に拒絶する。
「クソッ、次から次へと湧いてでてきやがる……!」
史耶は苦々しく舌打ちをして呟いた。
彼の言う通り、闇の数は衰えるどころか、周囲の陰気を吸ってさらにその数を増幅させていく。
しかも、それらは互いに融合を繰り返し、より巨大で禍々しい質量へと成長を遂げていた。
「戦うしか……ねえか」
史耶の口から漏れた声は、微かに震えていた。
彼の心にある強い躊躇いが、抱きすくめられた私にも痛いほど伝わってくる。
かつて伊織さんが静かに語っていた言葉が脳裏をよぎる。
この現代において、誰も『陰』と本気で戦った者などいないのだ、と。
先日、あの凄絶な戦いの中で武さんが神獣の力を引き出して戦ったのが、すべての始まりだった。
そして今、私達はいよいよ本格的な『陰』との過酷な戦いを開始しなければならない局面を迎えている。
私の全身は小刻みに震え続けていたが、この極限の状況下で、自分に何ができるのかを必死に模索していた。
私には彼らのように前線で戦う力などない。
自分にできることといえば、あの未熟で不十分な『気の治療』だけだ。
そんな微々たる力が、この絶望的な戦いの中でどれほど役に立つというのだろうか。
自分の無力さに、胸が締め付けられるように痛む。
「信じなさい……」
その時、伊織さんの穏やかで澄んだ声が、私の耳元で優しく囁かれた。
驚いて顔を上げると、伊織さんは私を見つめ、張り詰めた空気の中でほんの少しだけ、包み込むような優しい笑みを浮かべていた。
「あなたが私達を信じることで、私達は無限に強くなれるのです」
信じる、それだけで……本当にみんなの力になれるのだろうか?
私が不安と期待の入り混じった瞳で問いかけると、伊織さんは深く、力強く頷いてみせた。
私の、みんなを救いたいという切なる願いと、彼らを信じる心が力になるのなら───。
私は、みんなを信じる!
みんながこの過酷な戦いを無事に生き抜き、勝利を掴み取れるよう、私は絶対に信じ続ける!
胸の内で震えを捩じ伏せるように、私は何度も何度も強くそう唱えた。
その瞬間、周囲の空気が圧倒的な密度へと変化し、重厚な圧力が場を支配した。
史耶と伊織さんの身体から放たれる神獣の気配───圧倒的な神気が爆発的に膨れ上がり、いよいよ本格的な死闘が開始されることを予感させた。
────シャンッ。
緊迫した空気を切り裂くように、その涼やかな音が響き渡った。
それは、今まさに始まろうとしていた激しい戦いの火蓋を、強引に中断させるかのような響きだった。
その音が鳴り響いた瞬間、あれほど激しく蠢いていた闇の動きがピタリと停止し、不快極まりなかった怨霊たちの悲鳴も嘘のように掻き消えた。
突然訪れた不気味な静寂に、私たちを守っていた緑の防壁も、ハラハラと崩れ去っていく。
当麻も、史耶も、伊織さんも、この異常な静けさに一層の緊張を走らせ、鋭い警戒の目を向けながらゆっくりと周囲を見渡した。
次の瞬間、これまでに体感したことのない、凄まじい瘴気の塊がその場に噴出されようとしていた。
鼻を突く強烈な異臭と、どろりとした生臭い血の匂いが、津波のように一瞬にして周囲の空間を包み込んでいく。
────シャンッ。
再び、闇の奥からあの冷徹な金属音が鳴り響く。
私はその音の正体に心当たりがあり、恐怖のあまり全身の血が凍りつくのを感じながら、激しく身体を震わせた。
この禍々しい音は……。
数日前に繰り広げられた、あの凄絶な死闘の記憶が鮮明に脳裏をよぎる。
この金属の擦れ合うような冷徹な響きは、あの時、武さんを無残に傷つけた謎の僧が持つ錫杖の音に間違いなかった。
全身の血が逆流するほどの圧倒的で禍々しい気配を思い出し、それがじわじわとこちらへ近づいてくる気配を察知して、私は恐怖のあまり息を詰まらせる。
怯えを完全に露わにしてしまった。
「────僧……だ」
私の唇から、乾いた掠れ声が無意識のうちに漏れ出た。