私のただならぬ様子に、隣にいた二人がハッとしたように同時にこちらへ視線を向けた。
「先刻、あなたたちを襲ったという、あの……?」
伊織さんが静かだが、刃のように鋭い声音で確認するように言う。
私は、恐怖で硬直して伊織さんの顔を見返すことさえできず、ただ狂ったように何度も首を縦に振るだけだった。
完全に解き放たれた絶対的な恐怖は、夜の闇からじわりと溶け出すようにして、私たちの前にその姿を現した。
彼が踏み出した瞬間、周囲の空間が一瞬にして凍りついたかのような錯覚に陥る。
言葉による説明など一切不要なほど、その場にいる全員に「死」を予感させる圧倒的な存在感を否応なしにせり出させていた。
「巫女。久しぶりだな」
薄汚れた僧衣を纏いながらも、その背に底知れない不吉な漆黒の影を背負う者は、三日月のように歪んだ不気味な笑みを浮かべ、ねっとりとした視線を私に投げかけてきた。
その瞬間、伊織さんと史耶が弾かれたように、私を守るための一歩を踏み出し、私の視界を遮るようにして立ちはだかった。
「あなたですか、成仏できない哀れな霊たちを、そのように弄ぶのは」
伊織さんが、普段の温厚さからは想像もつかないほど冷徹で厳しい声音で僧を糾弾する。
僧は胸の奥を震わせるように低く笑うと、一言一言を噛み締めるようにゆっくりと言い放った。
「弄ぶ? おかしなことを言う。私はただ、現世に未練を残し、成仏しきれない哀れな霊魂たちに、進むべき大いなる力を貸しただけにすぎん」
その傲慢な言葉を強引に切り裂くように、僧に向けて、夜の闇を赤々と染め上げる猛烈な炎の塊が飛来した。
炎は寸分の狂いもなく僧の身体を捉え、咆哮をあげる巨大な火炎の竜へと姿を変えて渦巻いた。
激しく燃え盛る大熱波が周囲の林を焼き焦がし、凍りついていた冷気を一瞬で灼熱へと変貌させる。
私たちは強烈な陽光のような炎に照らされながら、その光景をただ凝視していた。
「命中!」
当麻が自身の放った一撃の手応えに、意気揚々とした表情でこちらへと駆け寄ってきた。
しかし、激しく爆ぜる灼熱地獄の中心で、黒い煤けた影となった僧は、苦しむ様子など微塵も見せず、驚くほど微動だにせずに佇んでいた。
人間の肉体であれば、これほどの超高熱を全身に浴びて無事でいられるはずがない。
誰もがそう確信するほどの威力だった。
だけど────私の肌を刺すような禍々しい「陰の気配」は、消えるどころか、むしろ濃度を増して私の心を激しく圧迫し続けていた。
まさか、あの炎の中で、平然と生きているというの……!?
私はゴクリと固唾を飲み、燃え盛る灼熱の向こう側を必死に覗き見ようとした。
私の最悪な不安を裏付けるように、火柱の中で僧の手が静かに振り翳され、握られた錫杖が地面へと力強く打ち付けられた。
その瞬間、あれほど猛威を振るっていた炎が、まるで最初から存在しなかったかのように四方へと爆散し、虚空に溶けるように消滅してしまったのだ。
「ばかな……」
完璧な一撃を放ったはずの当麻が、その現実を信じられないように驚愕の表情を浮かべ、言葉を失う。
あの業火に巻かれて無傷なはずがない。
彼の表情がそう雄弁に語っていた。
そこにいる誰もが、信じがたい絶望的な光景を前に、言葉を飲み込んで硬直していた。
「赤の獣よ。このような他愛のない火遊びで、この私が傷つくとでも思ったか?」
僧の言葉通り、彼は火傷を負うどころか、纏っている僧衣にすら焦げ跡一つ残っていなかった。
現場からある程度距離を取っていた私たちでさえ、皮膚がひりつくほどの熱気に焼かれそうになったというのに、彼はただ涼しい顔でそこに立っていた。
「下がっていなさい」
伊織さんは、背後の私に聞こえるか聞こえないかほどの低い声で告げると、即座に深く身構えた。
「破っ!!」
鋭い気合いの咆哮と共に、伊織さんの身体が弾丸のような速度で僧に向かって飛び出した。
空間の水分が彼の神気に呼応して一瞬にして凝縮され、凄まじい水圧を宿したかのような拳が、大気を激しく引き裂きながら僧の胸元へと叩きつけられた。
しかし僧は、錫杖を持たないもう片方の手を無造作に突き出し、伊織さんの渾身の一撃を正面から完璧に受け止めた。
「伊織さんの力を……、片手で止めるなんて……」
史耶が信じられないものを見たというように愕然とし、震える言葉を漏らした。
伊織さんの拳は、凄まじい衝撃の余波を周囲の空間に振りまきながら、未だギリギリと僧の掌に向けて驚異的な力を押し込み続けている。
「御仏に仕える身でありながら、このような非道な悪行……天が許すと思っているのか!」
拳に限界以上の力を込め、青筋を浮かべながら、伊織さんは目の前の僧に向けて静かに怒りをぶつけた。
「黒の獣よ。私はとうの昔に仏などという偽りの光に身を捧げてはいない。私が信じ、従うのは、この世の真理たる『負の力』のみだ」
拳を受け止める手を微動だにさせぬまま、僧は伊織さんの顔へと自身の顔を不気味に近づけた。
そして、彼の心の奥底に眠る闇をすべて見透かすかのような、悍ましい声音で耳元に囁いた。
「黒の獣よ……お前、自身の内にある『陰』に、すでに呑まれかけているではないか……」
その言葉が突き刺さった瞬間、伊織さんの瞳が大きく見開かれ、彼は弾かれたように身を翻して大きく後退した。
あからさまな動揺が、彼の背中から伝わってくる。
「長い間、その身に陰の影響を受け続けていただろう? 誤魔化せはせんぞ」
僧は、精神的な優位を確信したように、じりじりと距離を詰めながら伊織さんに向けて容赦なく言葉の刃を突き立てる。
「黙りなさい……! 神獣の宿命に叛く者め!」
己の動揺を打ち消すかのように、伊織さんは言葉に激しい怒りを込めて叫んだ。
「無理をせず、自身の内なる闇と向かいあうがいい、黒を背負う獣よ」
「黙れと言っているんだ!」
激昂した伊織さんは、理性を振り切るように再び僧に向けて拳を突き出した。
その瞬間、伊織さんの周囲の空間に、どろりとした不穏な黒い気配が立ち込め始めた。
それは周囲の闇が彼を取り囲んでいるのではない。
伊織さんの身体の内部から、制御を失って溢れ出している、悍ましい『気』そのものだった。
先ほどよりも数倍、数十倍もの狂暴な破壊の質量を伴った水の波動が、嵐となって僧に向けて襲いかかる。
だが、僧はその猛攻さえも、まるで飛んでくる虫を払うかのように、意図も容易く受け止めてみせた。
「心弱き獣よ、我が手中に収まるがいい。そうすれば、お前を苛むすべての苦しみから解放してやろう」
僧のあからさまな挑発に呼応するように、伊織さんから放たれる『気』は狂気じみた増幅を続け、周囲の自然環境に甚大な異変をもたらし始める。
彼の放つ冷徹な気迫に同調するかのように、周囲の木々が激しくざわめき、足元の地面が生き物のように不気味な震動を刻み始めた。
巻き上がった大量の土砂が暴風を伴って宙に舞い上がり、二人の周囲にある木が、目に見えない強大な圧力によって、悲鳴を上げるようにしてミキミキと音を立てて拉げていく。
私はその目に見えない不可視の力の奔流に耐えきれず、激しい眩暈に後ろへと倒れかかってしまった。
すかさず、背後にいた史耶がその強い腕で私の身体をしっかりと支えてくれる。
「なんなの、これ……一体何が起きているの……」
恐怖で震える私が辛うじて言葉を零すと、私を支える史耶もまた、その顔を驚愕に染めて呟いた。
「伊織さんの……力だ。限界を超えて暴走しかけてる。俺も初めて見る、これほどまでに圧倒的で、凄まじい力は……」
私たちはただ息を呑み、圧倒的な嵐の中心に立つ伊織さんの背中を凝視することしかできなかった。
伊織さんの束ねられていた長い髪は解け、内側から噴き出す禍々しい黒い気の波に漂い、破壊の波動と同調して黒い蛇のように不気味に蠢いている。
鼓膜を圧迫するような轟然たる力の波動が私の周囲を狂ったように駆け抜けるのを感じながら、私は二つの強大な力が正面からぶつかり合う光景に、呼吸をすることさえ忘れていた。
一見、互角の相討ちのようにも見えたその戦い。
しかし僧の唇に浮かんだ不気味な、余裕に満ちた笑みを見た瞬間、それが僧の一方的な謀であり、伊織さんを精神的に追い詰めるための罠であることに気づいてしまった。