悠久の彼方より   作:時-トキ-

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第25話

 

伊織さんが危ない────!

 

私の心が、激しい警鐘を鳴らして叫んだ。

その瞬間背後の暗闇から、大気を引き裂くような鋭い声が響き渡った。

 

「伊織───!」

 

その凛とした声と同時に、空間を鋭利に切り裂く激しい疾風の刃が、二人の凄絶な死闘の真っ芯へと容赦なく割り込んだ。

暴走しかけていた伊織さんはいち早くその声に気づき、本能的に僧の眼前から素早く身を引いて間合いを取った。

その直後再び凄まじい風の刃が、まるで僧を真っ二つに引き裂くような軌道で襲いかかる。

僧は背後からの奇襲を察知していたかのように、滑るような滑らかな動作で真横へと身体をブレさせ、その致命的な一撃を紙一重で回避して見せたのだった。

「武……くん」

どこか疲弊の色が滲む表情で、ゆっくりと振り返りながら伊織さんがその名を呼んだ。

私たちの頭上の梢を揺らし、夜空から音もなく舞い降りた武さんは、しなやかに地面へと着地するや否や、すぐさま前方の闇を鋭く見据えて身構えた。

「気をつけろ。感情を乱せば、内なる陰に呑まれるぞ」

いつもの、凍てつくように抑揚のない静かな声音で武さんは告げた。

「すみません……」

伊織さんは自身の内に渦巻く虚ろな濁流を無理やり覚ますように、一度激しく頭を振ると、夜の冷気を大きく胸に吸い込んだ。

「助かりました」

そう言って武さんに向けて向けられた笑顔は、いつもの穏やかさを取り戻そうと必死に繕ったものに見えて、私の胸を締め付けた。

「白の獣よ、生きていたか」

僧が昏い視線を武さんへと転じて低く言い放った。

武さんはその言葉に一切応じることなく、ただ大気を切り裂くような鋭い眼光で僧を睨み返している。

「まあいい、簡単に死んでもらっては面白みがないというもの。今日は挨拶程度に立ち寄っただけだ。ここからは、別の者に存分に遊んでもらおう」

僧は口元を歪に歪め、こちらをじっくりと見据えた。

その瞬間、周囲の大気の濃度が肌に痛いほどに増し、一度は静まった闇のざわめきが再び狂ったように再開される。

呼吸をすることさえ躊躇われるほど、周囲は禍々しくおぞましい空気で完全に満たされていった。

僧の姿が立ち込める黒い霧の向こうへと霞のようにかき消えていく。

それと同時に残された闇の奥から、別の歪な影がゆらゆらと蠢き始めた。

それは明らかに人間の輪郭を逸脱して巨大であり、悍ましい気配を放っている。

さっきから私たちの鼻腔を突いていた、あの血生臭い異臭の根源がそこにいた。

闇から溶け出すようにして現れたのは、古びた鎧を身にまとった巨躯の武者だった。

一歩、また一歩とこちらへ歩みを進めるたび、重々しい鉄と皮の擦れ合う不快な金属音が林の中に響き渡る。

深く被った兜の奥からは漆黒の虚無が覗いており、そこから見る者の魂まで凍りつかせるような、妖しい光を放つ双眸がこちらを凝視していた。

それが現世の『人間』でないことは、一目で理解できた。

そして、彼が内包している破壊的な力がどれほどのものか、想像しただけで私の身体は恐怖に粟立った。

「武さん、怪我は……本当に大丈夫なんですか……?」

私はすがるように、武さんの広い背中に向かって問いかける。

「大丈夫だ」

ぶっきらぼうなその返答が優しい嘘であることくらい、私にだって分かっていた。

数日前の戦いで負った傷が、完全に治癒しているはずがない。

ようやく離れから母屋へと自力で行き来できるまでに回復したばかり。

現に、彼の額には苦悶の汗がびっしりと滲んでおり、その鋭い表情の裏で痛みに耐えているのが伝わってくる。

だけどこの極限の状況下で「戦わないで、逃げて」と叫んだとしても、誰もそんな言葉に耳を貸さないことは痛いほど理解していた。

私は意を決して両目を瞑ると、武さんの強張った背中にそっと両手を添えた。

「お前は早く逃げろ」

「嫌です」

私は武さんの冷徹な制止をはっきりと拒絶し、自らの内にある『気』を彼の身体の奥深くへと注ぎ込み始めた。

少しでも傷の痛みを和らげ、治療の足しになれば───。

本当は、生きた心地がしないほど怖くて、全身の震えが止まらなくて、今すぐにでもこの暗い林から逃げ出したい。

けれど、みんなが命を懸けて戦ってくれているときに、私だけが背を向けて逃げ出すわけにはいかなかった。

みんなの戦いを、みんなの勝利を信じ続ける───。

私は再び心の中で強く誓い、祈るような気持ちで武さんへの治療を続けた。

「史耶、このわからず屋を連れてってくれ!」

前線に立つ当麻が、焦燥を滲ませた声で叫んだ。

次の瞬間、私の身体は史耶の力強い両腕によって武さんの背中から強引に引き離された。

それと同時に周囲の大気が激しく揺らめき、空間を爆裂させるような凄まじい風切り音が轟いた。

鎧武者の放つ、不気味な怨嗟の気を宿した日本刀が、容赦なく振り下ろされたのだ。

激しい戦闘の気配から、私の身体は徐々に遠ざかっていく。

史耶の大きくて頑丈な手が、私の手首を強く引いていた。

「史耶、離して……私、みんなを置いて逃げたくない……っ!」

何の戦力にもなれない、ただの足手まといかもしれない。

それでも、みんながボロボロになりながら戦っているのに、自分だけが安全な場所へ逃げるなんて、───胸が張り裂けそうだった。

「あんたバカか! みんながあんたを守るために命懸けで戦ってんだよ! あんたが五体満足で生き延びることこそが、今の俺たちにとって一番重要なことなんだ!」

史耶が普段通りのぶっきらぼうな、けれど必死な声を張り上げた。

背後から伝わってくる鎧武者の禍々しい陰の気配が、一歩走るごとに少しずつ薄れていく。

それは、戦うみんなとの距離が確実に離れていっている証拠だった。

深い闇に包まれた林の中、史耶と私の足音が、落葉を踏みしめる音となって寂しく響き渡る。

力強く引かれている手首がじんじんと痛み、自分の無力さと、みんなに守られるばかりの弱さが堪らなく悲しくて、私の目からは大粒の涙が次々と溢れ落ちた。

私たちはこれから一体どうなってしまうのだろう。

ついさっきまで、屋敷でいつも通りの平和で幸せな夕食の時間を過ごしていたというのに。

いつかこんな過酷な戦いが起こることは、心のどこかで分かっていたはずなのに。

私はただその現実から目を背け、平和な日々がずっと続くことだけを祈り、それが叶うと盲信していたのだ。

みんなは、本当に無事に戻ってきてくれるのだろうか。

信じると心に誓った直後だというのに、私の心は最悪の結末ばかりを想像してしまい、そんな自分が情けなくて仕方がなかった。

不意に史耶の足が止まり、私は慌てて袖で涙を拭った。

いつまでも泣いていては、また彼に怒られてしまうと思ったからだ。

けれど、史耶は怒る代わりに、私の身体をそっと力強く抱き寄せ、耳元で静かに囁いた。

「怖いのはわかる」

史耶の体は小刻みに震えている。

「……クソ、本当は、俺だって怖いんだ」

周囲が静まり返っている分、私の耳には、彼の胸の内で激しく脈打つ性急な鼓動がはっきりと聞こえた。

史耶は一度大きく深呼吸をして、私の心を落ち着かせるような、優しく包み込む声音で言葉を紡いだ。

「俺がどこまで神獣の力を発揮できるかはわからない。だけど、命に代えてもあんたを守り抜く。それだけは誓うよ。だから───あんたはそんな悲しい顔ばかりするな」

体を離し両肩をしっかり握る強い力。

顔を上げると、月光に照らされた史耶の涼しげな瞳がそこにあった。

その鋭い眼光の奥には、私と同じように戸惑いや恐怖が滲んでいたけれど、それでも大切な者を守り抜こうとする、揺るぎない強い意思の光が爛々と輝いていた。

胸の奥が温かい感情で満たされ、彼の誓いに応えるように深く頷いた。

「安心しろよ。さっきの伊織さんの、あの地面をクレーターにするほどの凄まじい力、見たろ? それに武さんは、戦闘に関しては伊織さん以上の荒々しい風の力を持っている。当麻だって普段はあんなだけどさ、いざ力を使うとなったら、何でも焼き尽くす本物の火力の持ち主だ」

史耶は少しだけ悪戯っぽく唇を釣り上げ、誇らしげに仲間たちの強さを語ってみせた。

大地の基盤を揺るがすほどの伊織さんの強大な水の力。

闇を容赦なく切り裂く武さんの疾風の刃。

そして、戦場を赤々と照らし出す当麻の放つ灼熱の炎。

どれを思い返しても、私の心を芯から支えてくれる、あまりにも心強い『力』の輝きだった。

だから私はその力を、大好きなみんなを信じるしかない。

みんなは必ず、傷だらけになっても無事に戻ってくる。

私を守るために命を懸けて戦ってくれているみんなの想いに報いるためにも、私はこれ以上怯えず、無事でいなければならない。

私は今度こそ、心に固く誓った。

「行こう」

史耶が優しく微笑み、私の手を引き直す。

もう私の心に迷いはなかった。

確固たる信頼を胸に抱き、私たちは再び、夜の林の中を力強く駆け出した。

 

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