私たちは、底深い幽冥の闇をひたすら走り続けた。
前方を駆けていた史耶の足が、不意に、地を噛むようにしてぴたりと止まった。
彼は即座に私の身体を引き寄せると、自らの大きな身体で私を包み隠すように身構え、全神経を研ぎ澄ませて周囲の闇を警戒し始めた。
「史耶……?」
私の震える声を遮るように、「くる」と、史耶は押し殺した小声ながらも、確たる確信を込めて呟いた。
その言葉が林の静寂に溶けた直後、私たちの足元を這うようにして、肌を刺すようなひんやりと冷たい風が漂い始めた。
それは自然の夜風などではなく、世界の歪みから染み出してくる、この世の終わりのような気配だった。
ただでさえ濃い薄闇のさらに奥から、質量を持ったかのような漆黒の闇が、次々と形を成して這い出してくる。
地の底の廃墟を吹き抜ける風の如く、寂しく、そして不吉な怨嗟のうめき声が、四方八方の闇から幾重にも重なって聞こえてきた。
実体を持たない不揃いな影───無数の怨霊の塊が、いつの間にか私たちの周囲を完全に包囲していたのだ。
私はその悍ましい陰気な感覚に息を呑み、全身の肌に鳥肌が立つのを感じた。
恐怖のあまり、なりふり構わず史耶の逞しい腕にしがみつき、少しでも邪悪な視線から隠れようと小さく肩を竦める。
凍えるような霊気が辺りにたちまち充満し、私たちの吐き出す息は、真冬のそれのように白く濁って宙に映し出された。
史耶は私を背後に庇い、しっかりと守る体勢を取っている。
圧倒的な数の怨霊───。
私の胸は激しい恐怖に支配されそうになる。
史耶は深く深呼吸をして言う。
「絶対に、俺から離れるなよ」
胸の奥に直接響くような力強い声だった。
言い終えると同時に史耶の身体が、衣服の隙間から微かに青緑色の光を放ち始めた。
その瞬間、彼の顔からさっきまでの焦燥や恐怖の色が完全に消え去り、戦いに身を投じる神獣としての苛烈な闘志がその瞳に漲る。
彼の纏う圧倒的な覇気に触れ、私の胸を占めていた不安は一瞬にして払拭された。
ついさっきまで、これからの戦いに戸惑いや恐れを覗かせていた「人間らしい史耶」は、もうそこにはいなかった。
周囲の空気を圧するほどの凄まじい気迫が満ちていく。
私は恐怖を忘れ、これから繰り出される彼の神秘的な力に、ただただ圧倒され、深い期待を抱いていた。
史耶が両手を左右に大きく広げ、握りしめていた拳を力強く開いた。
その瞬間、私たちの周囲を囲んでいた樹木が、まるで独自の確固たる意志を持った生き物のように猛然と蠢き出した。
ざわざわと狂ったように葉を揺らし、無数の頑丈な枝葉が急速な勢いで編み上げられていく。
それはまるで、私たちの周囲に瞬時にして組み上がった、外界を拒絶する強固な緑の防壁のようだった。
「ここを一気に突破する!」
史耶の力強い咆哮が響く。
彼は私の手を引き直すと、完成したばかりの防壁を突き破って、隙間から這い寄ろうとする怨霊の不浄な手を、大地から急成長させた強靭な蔦の一撃で激しく叩き伏せた。
身をよじる怨霊たちの隙間を縫い、私たちは再び林の疾走した。
たどり着いたのは、鬱蒼とした林の中でもひときわ異彩を放つ、巨大な御神木のような大樹の前だった。
天を突くほどに巨大な幹の前に滑り込むと、史耶は祈るようにその荒い樹皮に掌を触れた。
すると、まるで最初からそう設計されていたかのように、頑強な幹の一部が生き物のように滑らかに開き、大人が二人は入れるほどの暗い空洞(ウロ)が現れた。
「入れ!」
戸惑う私の背中を押し、史耶は息を弾ませながら、その狭い大樹の懐へと滑り込んできた。
私たちの身体が完全にその闇に収まるのを見届けるように、開いていた幹は瞬く間に自然の動きで閉じ合わされ、元の強固で堅牢な大樹の姿へと戻っていった。
外の様子は一切見えなくなり、一寸先も見えない完全な暗闇が私たちを包み込む。 木の震えを通して、外界からの鈍い衝撃が伝わってくる。
怨霊たちが私たちの気配を追い、大樹の表面を爪で引っ掻き、激しく叩きつけている不気味な音が、樹皮の振動となって内壁を伝い、私の背中に響く。
史耶は震える私の身体をその逞しい腕で抱きしめ、荒い呼吸を必死に抑えながら、完全に気配を消してじっと耐えていた。
しかし、この安全と思われた密閉空間で、想定外の事態が私たちを襲った。
執拗に大樹を囲む怨霊たちが放つ、強烈で毒々しい瘴気が、樹皮の微細な隙間からじわじわと内部へ浸入し始めたのだ。
大樹のウロの中は、ただでさえ二人分の呼吸で密閉された閉塞空間。
有害な瘴気の混じった大気がウロの中を急速に満たし、汚染していく。
深刻な酸欠も相まって、私は胸を掻きむしりたくなるほどの苦しさに襲われ、呼吸が劇的に浅くなっていった。
「……う、く……っ、は、あ……っ」
あまりの息苦しさに、私は両手で胸元を強く圧迫した。
肺の空気が完全に尽きようとしている。
そして、限界はすぐに訪れた。
酸素の足りない脳が悲鳴を上げ、頭が割れるように激しく痛みだす。
視界は不快な光がチカチカと激しく明滅し、急速に暗転していった。
苦しくて、狭い闇の中で狂ったようにもがく。
今すぐにでもこの木を引き裂いて外の空気を吸いたいが、そこにはあの怨霊たちが飢えた獣のように群がっている。
私はただ、じわじわと己の意識が冷たい泥の中に遠のいていくような絶望感と恐怖に、声もなく涙を流した。
意識の灯火が完全に消えそうになった、その刹那───。
冷え切った私の頬を、包み込むような強い温もりが救い上げた。
「……鈴、しっかりしろ……っ!」
耳元で史耶の掠れた、けれど必死な声が響いた。
青龍の力を宿す彼の身体には、直接大樹から酸素が注がれており、濁った瘴気から身を守るだけなのだ。
酸欠に藻掻く私に気づいた史耶が叫び、その声が遠のきそうな意識の中で聞こえたが、応答することができない。
助けて…。
そんな訴えを心の中史耶へ向けて叫ぶ。